勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく④

 さて、今川義忠が遠江での抗争で戦死した文明8年(1476年)には、まだ龍王の幼名を名乗っていた氏親は3歳(5歳説もある)で家督を継ぐには幼すぎた。このため、朝比奈氏や三浦氏といった譜代家臣が今川氏庶流の小鹿範満を擁立し、駿河守護の座を龍王丸派と争うこととなった。

 

小鹿範満の乱

 

 範満は堀越公方(この当時の関東公方は伊豆堀越に在所していた)の執事上杉憲政の娘を母としていたため、憲政と関東管領扇谷上杉氏の家宰太田道灌らの関東勢力が範満を支援して駿河に進駐し、今川氏の家督争いに介入した。

 駿河は範満派と龍王丸派に分かれて内乱状態に陥ったが、関東勢力をバックにつけた範満が抗争を優勢に進めた。龍王丸の父義忠が同じ東軍方にも関わらず正規の遠江守護である斯波義良と敵対したことが心象を悪くして家臣団の不評を買ったようである。

 

 しかし堀越公方の影響力が大きくなることを懸念した幕府は龍王丸の叔父伊勢宗瑞を派遣して仲介させ、龍王丸が成人するまで範満が家督を代行する条件で和談をさせた。

 

 この伊勢宗瑞が、のちに戦国大名北条氏の祖となった北条早雲であり、義忠の正室(氏親の母)北川殿の弟にあたる。

 

 伊勢氏は幕府政所執事世襲する幕臣で、宗瑞はその庶流備中伊勢氏から宗家に養子に入って幕府の申次衆を務めていた。

 申次衆とは将軍家と守護を仲介して奏聞を取り次ぐ渉外担当・窓口であり、宗瑞の父も同じく申次衆を務め、今川氏の担当だった。その縁で姉の北川殿が義忠に輿入れしたものらしい。

 

 一旦、関東勢力は幕府の裁定を受け入れて駿河を撤兵し、龍王丸派と範満派の抗争は沈静化して宗瑞は帰洛したが、文明19年(1487年)、龍王丸が成人しても範満が実権を譲らなかったため、伊勢宗瑞は再び駿河に下向して範満を滅ぼし、龍王丸は元服して氏親を名乗って家督を継いだ。

 この功により宗瑞は駿河興国寺城と富士郡12郷を与えられ、当主の外叔父として氏親の後見役となり、守護代を務めるようになった。同時にそれは京都での幕府官僚という立場を捨てて、地方政権である今川氏の一門として生きるという選択でもあった。

 

 宗瑞はのちに伊豆の堀越公方、相模の大森氏や三浦氏などの国人衆を滅ぼして下克上の典型とされ、宗瑞の伊豆侵攻を戦国時代の嚆矢とする歴史認識も存在するが、彼の軍事行動は今川氏の関東政策の一環であり、明確に北条氏が今川氏から独立して対等な立場になるのは、宗瑞の跡を継いだあと伊勢氏から北条氏へと改姓をした氏綱の代からである。宗瑞自身の行動原理はあくまで今川一門という意識の枠内に成立していたように思われる。

 

伊豆討ち入り

 

 明応2年(1493年)、堀越公方家で庶長子茶々丸正室と嫡男を殺害する事件が起きると、幕府は宗瑞に茶々丸討伐を命じた。堀越公方家は氏親の家督相続に介入した政敵でもあり、今川氏の支援を受けて宗瑞は茶々丸を滅ぼして伊豆を占領した。世に言う早雲の伊豆討ち入りである。

 これも後世に宗瑞の下克上の野心を動機とするかのように描かれたが、既述のように、あくまで幕命による堀越公方家への軍事行動であり、今川氏が室町幕府の関東担当として度々繰り返されてきた関東情勢への介入の延長上に捉えるべきだろう。

 のちに北条氏が代表的な戦国大名へと成長したために宗瑞の動機もそこから遡行して理解されることがちだが、もともと東国に地盤をもち、関東情勢とも関わりの深い今川氏との関係を軽視すべきではないだろう。

 この後、宗瑞は関東管領扇谷上杉氏に属する大森氏や三浦氏を滅ぼして相模に進出するが、扇谷上杉氏も堀越公方同様、氏親の家督相続時に介入した政敵であり、関東での宗瑞の軍事行動はそのまま今川氏の東部戦線を形成していた。

 氏綱が北条氏に改姓した動機には、宗瑞時代の今川氏との関係を整理して、独立した政治勢力として関東での抗争を動機づける意図もあったかもしれない。

 ただし伊豆討ち入り後の宗瑞は伊豆国主として周囲に認識されるようになり、一門として今川氏に内包される存在から逸脱しつつあったのも事実だろう。

 

 伊豆韮山城を本拠とする国主となってから10年以上も、宗瑞は氏親の名代として今川軍を指揮し、遠江三河、甲斐などを転戦した。

 永正5年(1508年)に遠江の半ばを制圧した氏親が守護に補任されたあたりから、ようやく宗瑞は関東方面へと転出していく。宗瑞の死没はその10年後である。つまり晩年の10年間を除けば、宗瑞の事跡の多くは今川一門としての行動だったといっていい。

 

遠江抗争の終結

 

 永正13年(1517年)、氏親は遠江尾張守護の斯波義達が進出した引馬城を攻撃して降伏させ、義達を尾張に追放した。これにより今川氏は遠江から斯波氏の勢力を一掃し、完全に制圧した。

 氏親は検地を実施して年貢高の把握と国人の掌握に努め、課税の適正化と軍役の強化を図って遠江の分国化を進めた。この検地自体がかなり先進的な施策だったが、検地を全国で初めて実施したのは宗瑞であり、氏親がそれに倣ったことは疑いない。

 

『今川仮名目録』

 

 晩年の氏親は中風にかかって寝たきりの状態が続いたが、その死没の僅か2ヶ月前に制定された『今川仮名目録』は、東国で初めての戦国分国法であり、その最高傑作とも言われる。

 これも宗瑞が先行して『早雲寺殿21ヶ条』を遺しているが、『21ヶ条』がまだ分国法というより家訓的な内容に留まっていたのに対して、『仮名目録』は訴訟の基準の明確化、裁判方法の確立など、法治主義的に分国を統治しようとする意図が顕著に表れている。

 『塵芥集』や『結城氏新法度』など他の分国法が、家訓的な内容が混在し、構成も一貫性に乏しく、重複も度々あるのに比較すると、氏親の『仮名目録』は年代的に先行するにも関わらず、極めて先進的な内容になっている。

 氏親の制定した『仮名目録』は33ヶ条あるが、のちに義元公によって『追加21条』が加えられた。氏親の死から20年後に武田信玄が制定した『甲州御法度』では、氏親の制定した条文のうち13ヶ条がほぼそのまま引用され、大きな影響を与えたことが知られている。

 

 守護大名戦国大名の違いは、分国の統治に旧来の権威による承認を必要とせず、主に自らの軍事的な実力によって領内の諸勢力の権益を保障したり剥奪したりするところにある。

 旧来の権威に依存しないということは、新たな秩序を安定させるだめに自らが新たにルールを生み出さなければならないということでもある。

 今川氏は累代武家としては優れた文化的素養を蓄積してきており、氏親と『仮名目録』以降、北条氏や武田氏など他の戦国大名と比較しても、今川氏は極めて法治主義的な統治を志向することを特徴として、氏親から義元公へと受け継がれていくのである。

 

 『仮名目録』は、晩年に言葉も不自由なほど健康を崩した氏親が、自分の死後に若年の氏輝が安定して領国を統治することを動機として制定したもののである。

 伊勢宗瑞という優れた師、文武両道の家風、また逸早く幕府依存から脱却して独自の分国統治を志向した歴史的位置などの条件に恵まれたことが、単なる家訓にとどまらない分国法の成立を促し、氏親に守護大名から戦国大名への転換を可能にした。

 

 そして戦国大名今川氏は氏親の子、義元公の治世に最盛期を迎えるのである。

 

(続)

 

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今川氏親と伊勢宗瑞:戦国大名誕生の条件 (中世から近世へ)

 

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく③

 ①が長くなってしまったが、義元公のいいところをドンドン挙げていく。多分、また長くなる。

 

父親と大叔父がえらい

 

 父親は範政の曾孫にあたる今川氏親、大叔父とは氏親の母、北川殿の弟である北条早雲こと伊勢新九郎盛時である。

 

 北条早雲は関東の覇者北条氏の初代として著名だが、北条に改姓したのは息子の氏綱の代から、また早雲は菩提寺の寺号で生前の法名は宗瑞が正しい。以下では伊勢宗瑞で統一する。

 

 氏親は宗瑞の後見を受けつつ斯波氏と抗争して遠江を分国化し、幕府の権威に依存する守護大名という立場を脱して、他に先駆けて今川氏を戦国大名化した先進的な当主だった。

 これまで足利将軍家の一門、室町幕府の関東への尖兵として地歩を築いてきた今川氏だが、氏親の治世に在国による分国の直接統治と斯波氏との抗争を経て、幕府から独立した地方権力へと変質していったのである。

 

 順にみていく。

 

斯波氏との遠江抗争

 五郎系今川氏は初代範国駿河遠江守護職に補任されて以降、その滅亡まで一貫して駿河守護を保持したが、遠江守護に関してはもっと錯綜した経緯を辿ることになる。

 

 範国は1336年から3年ほど遠江守護を務めたが、1339年から幕府の宿老仁木義長遠江守護に補任される。

 再び今川氏が遠江守護に補任されるのは1352年からで、範国没後は分家として二男の今川了俊、次に四男仲秋に引き継がれた。

 

 1395年に了俊が九州探題を解任されると、駿河半国と遠江半国の守護に転出し、駿河は甥の泰範と、遠江は弟の仲秋との共同統治となる。1400年には泰範が了俊と仲秋から守護職を取り上げて、再び本家が駿河遠江の守護を兼帯した。

 

 煩雑なので年表風にまとめると、

 

【1336–1339】範国駿河遠江守護

【1352–1384】範国駿河遠江守護

【1384–1388】駿河守護泰範 遠江守護了俊

【1388–1395】駿河守護泰範 遠江守護仲秋

【1395–1400】駿河守護泰範/了俊 遠江守護仲秋/了俊

【1400–1401】泰範駿河遠江守護

 

 概ね14世紀後半は今川一族で遠江守護を保持し、分家の了俊系統は守護職を取り上げられたのちも遠江に定着して遠江今川氏(本家今川氏が天下一苗字となってからは堀越氏)となった。

 しかし1405年に幕府管領斯波義重が、1419年にその子の義惇遠江守護に補任されると、以後約100年間にわたり斯波氏が遠江守護職世襲するようになり、在地に定着した今川一族とその本家駿河今川氏とのあいだで衝突を繰り返すようになる。

 

 斯波氏は足利氏の一族で、今川氏の本家筋吉良氏の祖長氏の甥にあたる家氏陸奥国斯波郡を所領としたことに始まる。家氏の母はもともと父泰氏正室だったが、同母兄の名越光時が北条得宗家に反乱を起こしたために庶流に落とされ、異母弟の頼氏が足利嫡流を継いだために、吉良氏と同じく嫡流の兄筋から分かれた家ということで、宗家とほぼ同格という家格意識高い系の氏族だった。

 

 鎌倉幕府が衰退すると斯波氏当主高経は宗家の足利尊氏と行動を共にし、越前守護として新田義貞を討ち取るなどの功を挙げて室町幕府の元勲ともいうべき存在となっていった。

 高経は四男の義将を足利将軍家の執事に就けたのを始め、侍所頭人、引付所頭人などの幕閣要職を一族で固めていき、また奥羽でも斯波氏分家の大崎氏が奥羽探題、最上氏が出羽探題を代々世襲した。

 

 特に、吉良氏と並ぶ一門筆頭だった斯波氏が執事に就いたことで、本来足利宗家の私的な家人でしかなかった執事職は、有力守護の合議体の座長的な位置付けとして管領へ格上げされ、幕閣首席の要職となった。これにより義将は四男ながら斯波氏嫡流を相続した。

 

 義将の子、義重管領職と越前守護を継承し、さらに応永の乱での戦功により尾張遠江守護も兼帯して、以後斯波氏は3ヶ国の守護を世襲し、かつ細川氏、畠山氏と管領職を輪番で務める3職として幕府での地位を確立した。

 

 遠江守護職を斯波氏に奪われる形となった今川氏だが、三河を発祥として駿河遠江と東海一帯に代々勢力を扶殖して在地における地盤を有する今川氏に対して、管領として京都に当主が常駐する斯波氏は任国の統治を守護代に委ねざるを得なかった。

 越前は朝倉氏、尾張織田氏(信長の本家筋)、遠江は狩野氏がそれぞれ守護代を務めたが、朝倉氏、織田氏はのちに斯波氏を横領して戦国大名化している。この辺りが地方政権としてのアイデンティティを確立していった今川氏と、あくまで幕政の中枢にあって足利将軍家の趨勢と命運を共にした斯波氏とのあいだの明暗を分けることになってゆく。

 

 遠江では了俊の曾孫、範将守護職を失ったあとも土着していたが、斯波氏、狩野氏と対立して長禄3年(1459年)に中遠一揆を起こすも鎮圧され、所領を狩野宮内少輔に奪われ、駿河今川氏に庇護された。

 応仁の乱(1467年)で氏親の父義忠は東軍に属して遠江に出兵し、西軍方の遠江守護斯波義廉との武力抗争に突入した。

 しかし、義忠は義廉に替えて東軍方が任命した遠江守護斯波義良、西軍から寝返って守護代となった甲斐敏光、それに追随する遠江国人らの東軍方とも対立してしまう。

 ここでは、すでに今川氏の関心は東軍西軍といった幕府中枢での政争にはなく、独立した地方政権としての領土的野心がその行動の動機となっていたことが明瞭に看取できる。

 こうして同じ東軍に属する遠江勢力との武力抗争まで戦線を拡大した義忠だが、文明8年(1476年)に斯波方遠江国人との戦闘で戦死してしまう。

 

 その遺志を受け継いで遠江の完全分国化を果たしたのが、義元公の父である氏親なのだが、ここまでにかなりの紙幅を重ねてしまったので、次稿に続くこととする。

 

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今川氏研究の最前線 (歴史新書y)





 

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく②

 さて、まだ義元公は登場しないのだが、我らが今川氏草創の話に移る。

 

 承久の乱ののち、守護として三河に地歩を得た足利義氏は同国内に一族を扶植していき、三河は本貫地の下野足利庄と並ぶ足利氏の地盤となっていく。その三河足利党の頭領とでも呼ぶべき存在が、義氏の庶長子、長氏の吉良氏である。

 

 この吉良長氏が晩年に吉良庄から分かれた今川庄を隠居所として、その今川庄を二男の国氏が相続して今川四郎を名乗ったのが今川氏の発祥である。東海の雄、今川氏も草創期は僅か3ヶ村の地頭として始まったのである。

 

霜月騒動

 その今川四郎国氏の跡を継いだ基氏が弘安8年(1285年)の霜月騒動で功を立てて遠江引間荘の地頭職を得て今川氏は遠江にも進出する。

 霜月騒動鎌倉幕府の有力御家人である安達泰盛と北条得宗家の内管領平頼綱の抗争事件だが、宗家の足利氏や本家筋の吉良満氏(長氏の子)が安達方に与党(満氏はこの戦いで戦死)しているのに対して、今川氏は独自路線をとって得宗家方に与して勢力を拡大したのである。

 この抗争の結果として鎌倉幕府の有力御家人の勢力が後退し、得宗専制と呼ばれる時代に入るわけだが、吉良氏の分家に過ぎなかった今川氏は得宗家の被官と化することで、はやくも本家吉良氏から独立した勢力となっていく。

 

足利一族随一の武闘派

 その半世紀後の元弘3年(1333年)、討幕に決起した後醍醐天皇方の楠木正成追討の幕命を帯びた足利尊氏三河に滞在した際、吉良貞義霜月騒動で戦死した満氏の子)は朝廷方に立つことを進言、尊氏はもとからそうするつもりだったらしいが、それが駄目押しとなって以後討幕へと邁進していく。

 恐らくこれが吉良氏が歴史を動かした最初で最後の瞬間だろう。今川氏もこれに同調し、以後足利尊氏とともに各地を転戦していくことになる。吉良氏の活躍はその後ない。

 

 建武2年(1335年)に最後の得宗北条高時の遺児、時行が幕府再興を企画して挙兵した中先代の乱では、今川氏は当主頼国(基氏の子)、その弟の範満、頼周と5人兄弟の内3人が戦死する凄惨な奮闘をみせ、その恩賞として頼国の遺児頼貞が丹後・但馬・因幡守護職、生き残った弟の範国駿河遠江守護職に補任された。ちなみに吉良氏が信濃の北条氏残党の鎮圧に失敗したのがそもそも中先代の乱のきっかけである。

 

 本来の嫡流である頼貞の系統(四郎系)はその後消息が途絶えるが、範国の系統(五郎系)は、範氏(範国の子)が尊氏と弟直義が対立した観応の擾乱で尊氏方に与党して駿河守護職を継承し、以後五郎系今川氏駿河守護を代々世襲して嫡流となっていった。

 余談だが吉良氏は観応の擾乱では直義方に属し、直義死後もその養子直冬や南朝方とともに北朝方に対抗していくが結局降伏しており、つねに勝ち馬に乗り続けた今川氏とは対照的に、いつも外れを引いている。

 こうして時系列で俯瞰すると、今川氏は草創当初から足利一族のなかでも武功で抜きん出た武闘派集団でありながら、冷静な情勢判断で確実に勝つ方に与することで勢力を拡大してきたことがわかる。

 

五郎系は文武両道のインテリ一族

 今川範国は歌道や有職故実に優れ、将軍家の儀式指南なども務めたとされるが、四郎系ではゴリゴリの武闘派だった今川氏は、範国の五郎系が嫡流になると文武両道の家風を具えるようになる。

 

 その象徴的存在が範国の二男、今川了俊こと貞世である。駿河守護職は兄範氏に継承されたが、武将としての活躍は了俊が遥かに勝る。

 

 山城守護職侍所頭人引付頭人などの幕府要職を歴任したあと、観応の擾乱以後激化した九州での南朝との抗争を指揮すべく九州探題に抜擢され、25年間の在任のあいだに南北合一を果たして九州を平定した。

 歌人、学者としても活動し歌論集や紀行文が伝わるインテリでもある。晩年は失脚して甥で嫡流の泰範に駿河半国を取り上げられ、遠江半国の守護として不遇の時期を過ごした。その間『難太平記』などの著作を残し、今川一族や自身の功績を後世に伝えている。南北朝期を代表する文武両道の武人でありながら今ひとつ名将感に欠けるのは、この愚痴っぽい不遇な晩年の印象によるのかもしれない。

 

 了俊の陰に隠れて存在感のなかった兄範氏だが、その跡は泰範範政と引き継がれる。

 範氏の孫、範政は和歌や書に優れて『源氏物語提要』などの著作もある五郎系今川氏の家風を受け継ぐインテリ大名だが、関東で勃発した上杉禅秀の乱(1416年)を鎮圧した功で副将軍に任ぜられた武人でもあった。

 

 戦国期、今川氏は公家との交流を盛んにして京風文化を奨励したことで今川文化と称される文化運動の中心になり、その本拠地駿府小京都と称された。

 義元公が桶狭間で圧倒的優勢の状況から大逆転負けを喫し、その跡を継いだ氏真が父の仇も討たずに家を滅ぼして蹴鞠に興じていた伝承などが流布したことで、今川氏というと文弱な印象を伝わってしまった。

 だがしかし、本来は坂東武者の気風を残す武断的な兵の家であり、五郎系初代範国から文武両道の家風を志すようになったというのが正しい理解である。

 

 範政以後の今川氏は関東情勢の悪化に伴い、幕閣として京都で活動するよりも、駿河に在国して関東に対する室町幕府の最前線を担う存在になっていく。

 

関東最前線

 観応の擾乱南北朝の乱と草創期から内乱の絶えなかった室町幕府は京都に本拠地を置かざるを得ず、本来の武家の根拠地である関東には足利一族から関東公方家を立てて独自に統治させる方針をとった。

 関東公方はその地位を幕府の干渉を受けることなく世襲し、管領や政所など独自の統治機関を備え、関八州と伊豆、越後の10ヶ国を任国として守護の任免や叙位任官の推薦権など独立した権限を有していた。

 元来、関東の武士は畿内を中心とする西国に対して独立心が強く、関東公方もなにかにつけて室町将軍家と対抗していた。地政学的にみれば駿河は関東に対して室町幕府の最前線に位置しており、特に上杉禅秀の乱関東公方の求心力が低下して以降、駿河守護である今川氏は治安の悪化した関東への監視役として、また幕府が武力介入する際の主力部隊という機能を期待されていたのである。

 

 この当時、各国の守護は京都に在住し任国の統治は専ら守護代以下の在地家人が請け負っていたが、この下請け構造が戦国時代の下克上の風土を醸成していった。ちょっと想像すればわかるが、守護はほとんど任国にいないわけだから、在地の実権は守護代が掌握してしまうのは当たり前である。

 

 関東の情勢悪化に伴って、駿河今川氏を始め、甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏など、関東と国境を接する国の守護は在国が認められた。これにより今川氏、武田氏などは任国を直接統治して在地に実権を奪われる事なく、他の守護大名が下克上で没落していくなか、戦国大名へと転換していく可能性が開かれたのである。

 

天下一苗字

 

 範政の子、範忠は廃嫡されかかったところを幕府の裁定で跡目を継いだ経緯もあり、副将軍と呼ばれた父以上に幕府のために働いて、永享の乱結城合戦といった関東の抗争で武功を挙げた。

 この功績によって、以後同族庶流に今川姓を用いることを禁じ、範忠の子孫のみが今川の名乗りを許される天下一苗字(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、五郎系今川氏が宗家となることが事実上公認された。

 在国となったことにより幕府中枢からは遠ざかったが、範政と範忠の2代にわたって関東への武力介入を行い、強力な分国支配を確立したことがのちの戦国大名今川氏を生んだと言える。

 

とりま今川氏まとめ

 ①足利一門でも別格の吉良氏の分家

②足利一門随一の武闘派で、幕府草創期の功臣

③五郎系が嫡流になって以降、文武両道の家風

④関東最前線の在国守護として強固な地盤

⑤今川を名乗るのが許されるのは五郎系今川だけ

 

 ただ単に家柄がいいだけではなく、鎌倉幕府末期から南北朝期の内乱まで数々の軍事的な成功を収め、巧みに情勢を読みながら繁栄してきた優等生氏族、それが今川氏なのである。

 

(続)

 

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今川義元とその時代 (戦国大名の新研究)

 

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく①

 まず家柄がいい。

 

 御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ

 

 つまり今川氏は足利将軍家の継承権を有する一族ということである。これは天文22(1553)年『今川記』記載の記事だが、なにか室町幕府にそういう決まりがあるわけではなく、足利尊氏が遺言でそう言い残したと今川氏で伝承され、それを採録したということらしい。

 この僅か7年後に義元公は桶狭間で無念の敗死をするわけだが、天文年間はまさに今川義元公の治世にあたり、今川氏の最盛期と言っていい時期である。我が世の春を謳う名門今川氏の自負の表現と言える。

 

 継承権云々は歴史的事実というより家伝の類の話だが、今川氏は紛れもなく足利氏の一族である。

 正確には足利将軍家の御一家吉良氏の分家が今川氏で、吉良氏というのは忠臣蔵に出てくる吉良上野介の、あの吉良である。

 

 足利氏の分家は三管家の斯波、細川、畠山を始め有力な氏族がいくつもあるが、吉良氏はそのなかでも別格とされていた。

 斯波氏、細川氏などは幕閣の最高位である管領職を相伝して数カ国の守護を兼任するなど大きな権勢を誇ったわけだが、当時の家格意識では管領職にせよなんにせよ役職に就くということは家臣扱いということで、分家の中でも特に家格意識高い系の吉良氏は、室町幕府が安定して以降は一門扱いの式評定衆という名誉職だった。

 実際、吉良氏は草創期から南北朝期にかけては何度か守護職引付頭人などの実務方を務めたが長続きせず、他の足利一門のように勢力を伸ばせなかった。実力的には鎌倉時代から南北朝、戦国期を通じてほぼ一貫して地方領主程度の規模しかもたず、同族内で内紛ばかり起こしては今川氏や徳川氏に従属したり反抗したりしていた弱小豪族の域を出なかったのである。

 のちに徳川家康に家名を惜しまれて旗本に取り立てられ、幕府の儀式・典礼を司る高家を務めるようになり、紆余曲折を経つつも実に明治維新まで生き残る。

 吉良上野介浅野内匠頭に殿中作法を教えるときに苛めすぎて刃傷沙汰になったのも吉良氏が高家を務める家柄だった故である。

 かように吉良氏は家格の高さだけで鎌倉時代から実に600年存続した稀有な一族なのである。超おもしろくない?

 

 吉良氏の話ばかりで全然義元公に辿り着かないが、おもしろいのでもう少し吉良氏の話を続けたい。なぜ吉良が別格かというと尊氏より約150年ほど遡る足利義氏というひとが承久の乱の勲功で三河守護に補任され、その庶長子の長氏が義氏から三河吉良庄という荘園の地頭職を相続して吉良氏の祖となった。吉良庄はもともと摂関家領として一条家九条家相伝されていたが、いわば承久の乱に勝利した武家勢力に横領されたわけである。

 さて側室の子である長氏が吉良氏を興して三河足利氏の筆頭となり、正室の子だった弟の泰氏は足利氏嫡流を継いだため、宗家の兄筋から分かれた家ということで吉良氏は別格となったということらしい。

 足利氏が幕府を開くと同じく足利一門の渋川氏、石橋氏とともに御一家となり、管領と同格、その筆頭の吉良氏は管領より上位とされて宗家断絶の場合は将軍職の継承権を有する家柄とされた。

 いわば万が一嫡流が途絶えた場合に血統を維持するためのストックとして指名された一族であり、機能としてはのちの江戸幕府御三卿に相当する。

 幕末、最後の将軍となった徳川慶喜御三卿のひとつ一橋家の出身で、水戸徳川家を継いだ後に将軍家を継承している。

 徳川一門には水戸家、尾州家、紀州家の御三家があったわけだが、御三家はそれ自体が100万石の格式の大名でもあり、その継承問題は宗家に準ずる重大事だったから、将軍家と御三家双方への後嗣の供給源として御三卿が設置された。

 とかく将軍家にせよ御三家にしろその当主は強大な権勢を誇るわけで、その継承問題が拗れると深刻な御家騒動に炎上しかねない。なので、ストックには政治的に中立で軍事的・経済的に非力な方がなにかと話がまとまりやすい。御三卿は10万石クラスの大名だが、当主は従三位まで叙位されるので家格は高かった。室町幕府における吉良氏も似たような地位にいたと言える。

 斯波氏、細川氏なんてのは管領として将軍家以上の権勢を誇ったわけで、そんな家に嫡流を継がせたら乗っ取られるに決まっている。それは誰にとっても宜しくない。その点、吉良氏は幕閣としては式評定衆という名誉職で実質的な権限がなく、領地は三河の一荘園の地頭どまりで打って付けの存在なのである。

 継承権があると言っても宗家にも当然兄弟やらの候補はいるわけで、実際吉良氏から将軍候補が立ったことなぞ一度もなく、ただただ家格の意識だけ高い系で絶えず一族で内紛を抱えていた弱小氏族、それが吉良氏。

 

 そしてその吉良氏から颯爽と今川氏が登場し、東海一の弓取りと称された戦国の雄、今川義元公を輩出するのである。

 

(続)

 

銅像設置決定!今川義元公の銅像をみんなと一緒につくりたい! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

 

今川義元 (人物叢書)

 

2018年のヘビロテ ゆく年くる年

10位

[Streets of Fire: Collector’s Edition: Nowhere Fast (HD) - YouTube]

Blu-rayが出たかなんかで久しぶりに聴いてやっぱりこのダイアン・レインは最高。歌ってないとは思えない。

 

 9位

【Yngwie Malmsteen】 - 「Rising Force」 VOCAL + GUITAR COVER † BabySaster & Arpie Gamson - YouTube

女装子かつゴスロリが弾いてみたで非常にモダンだなと。

 

8位

1ミリも知らないベース弾き方講座をアフレコしてみた - YouTube

例年ヘビロテ。

 

7位

Saint Seiya - Pegasus Fantasy/Los Guardianes del Universo (Lat - Jap) | Metal Cover (Paulo Cuevas) - YouTube

数多あるペガサス幻想のなかでも白眉。小宇宙が燃えている。

 

6位

BARBEE BOYS 目を閉じておいでよ - YouTube

今年のマイリバイバル第1弾。いまみちともたかのギターは大好き。

 

5位

西寺実 / あゝ無情 - YouTube

今年のマイリバイバル第2弾。寺田姐さんが大好き。

 

4位

Fear, and Loathing in Las Vegas / Return to Zero - YouTube

パラパラ再評価。

 

3位 

PassCode - Club Kids Never Die (live at Studio Coast, 2016) - YouTube

これは神曲。初めてアイドルを応援する気持ちがわかった。主にデス声の娘にだが。

 

2位

BAND MAID / REAL EXISTENCE (April 13th, 2018) - YouTube

Band-Maidは自分ゴト化され過ぎてもはやヘビロテとかで括れない存在だが。まぁコピー&練習するのに死ぬほどヘビロテ。

 

1位

INDIAN STREET METAL ("Ari Ari" ft. Raoul Kerr) - Bloodywood - YouTube

2018年最大の発見。やっぱインド凄えなと。

 

 

2018年に読んだ本 ゆく年くる年

10位

デジタルマーケティングの実務ガイド

デジタルマーケティングの実務ガイド

 

 この手の本て心構えや考え方か、あるいはツール類のマニュアルの類ばかりで、マーケティング実務をやらない/できない奴がやったつもりになるためのキャリアポルノばっかだよねと、まさにそこを補う趣旨で発注者/広告主側からの視点で書かれたガイド。地味にありそうでなかった感じ。

 

9位

 モウリーニョに「監督の仕事は日々の練習を考えることだ」という言葉があるけど、なんか頭の中で凄く壮麗緻密な絵図面を書くことばかり考えるひと多いよね。具体的に「何々をしなさい」という形で表現できないと絵は絵でしかないんだけどね。

 

8位

モダンサッカーの教科書 イタリア新世代コーチが教える未来のサッカー

モダンサッカーの教科書 イタリア新世代コーチが教える未来のサッカー

  • 作者: レナート・バルディ,片野道郎
  • 出版社/メーカー: ソル・メディア
  • 発売日: 2018/06/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 footballista の連載の書籍化。「数的優位」が完全に過去の概念であることがよくわかるし、90年代に世界を席巻したプレッシングを未だに最先端に奉っている日本が20年遅れていることもよくわかる。

 

7位

教養主義のリハビリテーション (筑摩選書)

教養主義のリハビリテーション (筑摩選書)

 

 「教養」の絶滅はもはや避けられないよなぁと感じつつ、でも反知性主義紙一重のマッチョなプラグマティズムばかりでもなぁ、じゃあどうすればいいのという論点からあんまり結論を急がない微温的な対談がわりと新鮮。

 

6位

影の中の影 (新潮文庫)

影の中の影 (新潮文庫)

 

 月村了衛は何を読んでも面白いが、ちょっとあり得ないくらい酷いことになってるウィグル自治区を巡る謀略戦を題材にしたハードボイルド。

 

5位

 

 今年はワールドカップイヤーだったんでサッカー関連の書籍が多かったが、大会前後にこの著作を読んでいたのはとてもよかった。日本のサッカー会が20年遅れていることは必ずしも日本人が後進的であることを意味しない、そう思える気鋭の論客。

 

4位

古代国家はいつ成立したか (岩波新書)

古代国家はいつ成立したか (岩波新書)

 

 周知の通り地味に日本史学の近年の発展は目覚ましいものがあるわけだが、丹念な史料の精査と調査技術のアップデートで古代のことも自分が学生だった頃より随分と学説も様変わりしている。弥生時代も紀元前10世紀まで500年遡るのが定説化しているらしい。

 

3位

 史学が躍進しているのは中世も同様だが、戦前は国学の流れを汲む史学というより国文学に近い実態、戦後は唯物史観をもろ食らった観念的な左派史学と、どちらにしても残念な状況が続いたのに対して、網野善彦以降、史料の地道で丹念な読み込みと調査の成果がここに来て非常に面白い若い研究者を輩出するようになってきている。特に良くも悪くもイデオロギーに偏した位置付けだった武士論の領域は活況を呈していて、この著作も新書ながら質が非常に高い。

 

2位

 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 

 AV監督二村ヒトシによる抉るようなエッセイ。読んでもなんだかよくわからないというひとは、それはとても恵まれているんだと思う。

 

1位

今川氏滅亡 (角川選書)

今川氏滅亡 (角川選書)

 

 活況を呈している史学の波が遂に今川氏にもっ!!と胸熱しかないが、近年の史学研究のベースになっているのは紙背文書(紙が高価だった時代、なにかの用途に使われた書類の裏側も使われたために遺った文書)や旧家所蔵の書簡、誓書、契約書などを読み込んで当時の社会関係を再現するというものなんで、今川氏みたいに滅びちゃった大名は遺っている記録が少なくて、やっぱりイマイチよくわからんのだなと。しかし著者の今川氏復権への熱い情熱にはリスペクトしかないので1位。





 

2018年に観た映画(ドラマも) ゆく年くる年

⑩エンドレス・フィアー

 マイケル・マドセンが出てるってだけで観たんだが、最後のオチまで観るとまるっきり違う映画になる。それまであんまり出てこないマドセンは、ラストの演技をするためにキャスティングされたんだなと。

『エンドレス・フィアー』予告編(日本語字幕) - YouTube

 

⑨淵に立つ

 浅野忠信って芝居が上手いと思ったことはないんだけど雰囲気俳優というか、感情があるんだかないんだから分からないような役によくハマる。映画としてはなんら救いのない痛々しい話だが、筒井真理子の前半と後半の演じ分けは見事。

「淵に立つ」予告編 - YouTube

 

⑧アナイアレーション−全滅領域−

 とても美しいはずなんだが、どこか不協和で不安を掻き立てられる映像と音楽が秀逸。ナタリー・ポートマンちゃんが出てるが、シナリオや演技より映像と音楽で原作のテーマを再現する演出が秀逸。

アナイアレイション -全滅領域- - YouTube

 

⑦哭声

 ともかく國村隼の怪演が光る。『帝都物語』の嶋田久作演じる加藤保憲に匹敵する怪人ぶり。

3/11(土)公開 『哭声/コクソン』予告篇 - YouTube

 

⑥ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス

 アメリカン・ゴシックに類するホラーだが脚本が秀逸で、一見よくあるアメリカの旧家に纏わる怪談のようだが、実は離合集散を繰り返す現代的な家族の問題の物語。謎解きよりも怪異な経験を通じて家族の傷が開いたり閉じたりしながらラストの止揚に雪崩れ込んでいくストーリーが一気見させる。

『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』予告編 - Netflix - YouTube

 

紀子の食卓

 人間のみっともないところをみっともないままそっとしておかないと流血の大惨事になってしまう、いかにも園子温っぽい作品だが、光石研吹石一恵、若き日の吉高由里子、のちにAV女優になっちゃったつぐみなど、キャストの好演が光る。

紀子の食卓 予告 - YouTube

 

④カメラを止めるな

 どの評価をみても面白いっていうから珍しく映画館まで足を運んだが、本当に面白かった。曲がりなりにも映像の仕事をしてたんで、前半の長回しはよくこんなの撮る気になったな狂ってると痛快極まりない。またそれが劇中劇になっているアイデアと、なによりこのシナリオを本当に映像化しようと考えた蛮勇が素晴らしい。のちに盗作騒ぎも出たが、やはりこれを映像でやろうとした気概を評価したい。

映画『カメラを止めるな!』予告編 - YouTube

 

DEVILMAN crybaby

 言わずと知れた永井豪先生。かつてのアニメ版ではなく、コミックあるいは朝日ソノラマ文庫版に割と忠実なシナリオを、思いっきり現代的な画風と音楽でアレンジしていて賛否両論ありそうだが、最近リメイクとは名ばかりのネームバリューだけ借りて原作への敬意に欠ける駄作が多いなか、これはリスペクトに満ちたリメイクに感じて好感もてる。

トラウマ的衝撃に備えよ!『DEVILMAN crybaby』スペシャルムービー - YouTube

 

②ハードロマンチッカー

 下関と小倉が舞台で、不良とヤクザと在日とコリアンが入り乱れる、いわゆるヤンキーものというかバイオレンスものなんだけど、大して派手な立ち回りもなく、ただひたすらに下関の街が寂びている感じは『新世界』みたいなコリアン・ノワールに近い感触。

 たまたま北九州出張に近い時期に観たんで、ついでに下関に足を伸ばしたんだけど、劇中では下関からみると小倉がとりあえず進出する繁華街に描かれてて、確かに近い。国立から新宿まで行かずに吉祥寺あたりに出る感じかね。

『ハードロマンチッカー』予告編 - YouTube

 

ディストラクション・ベイビーズ

主演の柳楽優弥イカれっぷりが素晴らしい。松山を舞台に柳楽がひたすらに誰から構わず喧嘩を売りまくる話なんだけど、何度ボコボコにされてもしばらくのびてると復活してまた喧嘩を始める、の繰り返し。確かにこういう何考えてるか全然わかんない、不良とも言い難い、ただただ暴力に取り憑かれてるような奴は稀にいて、理由がない分ほんとに怖い。

映画『ディストラクション・ベイビーズ』予告編 - YouTube