勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

ガルマ・ザビは坊やだから死んだのか?vol.5

 宇宙世紀に生きる者なら誰でも一度は抱く疑問にガチンコで挑む不定期連載企画【謎解きジオン】。第2回は「ガルマ・ザビは坊やだから死んだのか?」です。

「地球の富と、国土を!」(キシリア・ザビ

 これまでガルマ・ザビ大佐麾下の地球方面軍が、地球に展開した公国軍全体を指すものでもなく、また統合司令部などの上級機関を指すものでもなかったことを確認してきた。

 北米地域の駐屯軍としては同じくガルマ大佐指揮下の北米方面軍が存在したわけだから、本来地球方面軍には北米地域の占領以上の役割を期待されていたはずである。北米は確かにキャリフォルニアベースをはじめとする重要な軍事拠点が存在し、また南米の地球連邦軍本部ジャブローを牽制する上でも戦略的に重要な位置を占めていたが、他の方面軍の2倍の戦力が北米地域に張り付いていたことによって、ただでさえ兵力不足の地球侵攻軍全体の戦線維持に支障を来していた側面も否めない。もしも地球方面軍を即応的な戦略予備として運用できていたら、オデッサ作戦の帰趨などはまた違ったものとなっていたかもしれないのである。だとすれば、結局のところ地球方面軍(及びその司令であるガルマ大佐自身)が本来果たすべき任務は如何なるものだったのだろうか?

 ここで些か飛躍して聞こえるかもしれないが、地球方面軍は本来戦争が長期化したプランBのために用意されたものではなく、コロニー落としによって地球連邦が停戦条約に合意して戦争が早期終結を迎えた場合を想定したプランAに含まれていたのではないかという仮説を提案したいと思う。

 果たして南極条約が戦時条約ではなく停戦条約として結ばれた場合、如何なる内容になっていただろうか。当然公国首脳は条約交渉に臨んでその草案を準備していたはずだが、それは恐らくジオン公国の地球連邦からの独立だけを要求するものではなかったはずだ。

 連邦と公国の圧倒的な国力ポテンシャルの差を考えれば、一度は停戦に合意しても遠くない将来に連邦が戦禍のダメージを回復して再び公国の脅威となるのは目に見えている。また地球圏の総人口の半数を死に至らしめた緒戦の悲惨さを思えば、独立したジオン公国と地球連邦とのあいだの2国間関係が短期で正常化されることも期待し難い。なによりも、数十年にわたり辛酸を嘗めてきた公国国民が、華々しい戦果と多くの犠牲を払った戦争の対価として、より多くのものを求めていたであろうことは想像に難くない。

 それゆえに公国の用意した停戦条約には、地球上の領土の割譲、戦争被害に対する補償、再軍備の制限といった厳しい条件が並んでいたはずで、いずれにしても条約履行の監視のためにも公国軍の地球進駐が最低限の条件になっていたと考えられる。そして、それこそが地球方面軍が本来果たすべき役割だったのではないだろうか。つまり、地球方面軍司令ガルマ・ザビ大佐は地球侵攻軍の指揮官としてではなく、本来は戦争の勝利者進駐軍司令官、あるいは割譲された領土の統治者として地球に赴くはずだった。そう考えれば、地球方面軍司令がザビ家の一員でなければならなかったことも理解できるのである。

 このような人事は、これまで検証してきたジオン公国の政情、とりわけザビ家内のパワーバランスの状況ともよく付合するように思われる。もしも一年戦争を公国の勝利で終わらせることができれば、その最大の殊勲者が戦争遂行を主導してきたギレン・ザビ総帥そのひとであることは疑いない。恐らく終戦によりサイド3におけるギレン総帥の権力基盤は盤石なものとなっていたはずだ。しかしそれは政敵であるキシリア・ザビ少将にとって極めて不快な状況である。だが、もしも一族内で自らと密接な関係にあり、軍組織上は部下でもあるガルマ・ザビが戦後の植民地総督のような立場を占め、連邦との窓口を務めるとすればどうだろうか。従来の根拠地である月に加えて地球をも自分の権力基盤に据え、政敵ギレン・ザビに対峙することも可能となっただろう。オデッサ方面軍や潜水艦隊など、地球侵攻軍とは距離をおいて独自に地球で策動していたのも、来るべき戦後の政争に備えたものだったと考えられる。

 一方のギレン・ザビにとってはどうか。実のところギレン総帥はキシリアを余り評価せず、政敵としての意識は希薄だった。むしろデギン公王の後継者と目され、国民からの支持も高いガルマ・ザビが統治者として地球に赴くことの方に魅力を感じていたのではないだろうか。『優性人類生存説』の著作もあるギレン総帥は、ニュータイプには懐疑的だったものの、本質的にアースノイドを蔑視している。その意味ではキシリア少将よりも正統的なジオニストだった(というよりもキシリア・ザビにはそのような観念的な思想がほとんどみられない)。そのギレン総帥からみれば、人類の生活の舞台はあくまで宇宙であるべきで、地球といえども辺境に過ぎなかった。しかし地球を人類誕生の聖地と見做すエレズムもスペースノイドのあいだでは普及しており、ザビ家の一員であるガルマ・ザビがこれを統治することは、自身の権力への潜在的な脅威を遠ざけつつ、ザビ家の威光を高める理想的な人事だったのではないだろうか。

 こうして公国首脳同士の意志がすれ違いながらも合致して、ガルマ大佐を司令とする地球方面軍が準備されたが、戦局は思ったように運ばず、結果として予定していたよりも大規模な戦力が地球に派遣されることとなった。それに伴い、当初進駐軍として用意されていた地球方面軍も侵攻部隊に編入されたというのが経緯だったのではないかと考えるのである。

 しかしガルマ大佐自身の思惑を慮ることが許されるならば、彼は本来あるべきだった自分の役割を諦めていたわけではなかったように思えてくる。これまでザビ家の一員として出遅れているという焦りがあったガルマにとって、地球の統治者としてザビ家の威光を高めるという使命はこの上なく崇高で魅力的に映っただろう。悲恋として伝わるイセリナエッシェンバッハとの関係も、元を辿れば占領地統治のために元ニューヤーク市長エッシェンバッハと協力関係を結んだことに端を発している。これも戦後に自らが植民地総督として君臨することを脳裏に描きながらの布石のつもりだったのかもしれない。

「私の弟!諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだ。 何故だ⁉︎」(ギレン・ザビ

 ここで改めてガルマ・ザビ戦死2日後の10月6日に首都ズムシティで行われた長兄ギレン・ザビ総帥による、いわゆる「国葬演説」を、やや長文になるが重要なテキストなので全文引用しよう。

我々は一人の英雄を失った。しかし、これは敗北を意味するのか?否!始まりなのだ!
地球連邦に比べ、我がジオンの国力は30分の1以下である。
にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か?
諸君!我がジオン公国の戦争目的が正義だからだ。これは諸君らが一番知っている。
我々は地球を追われ、宇宙移民者にさせられた。
そして、一握りのエリートらが宇宙にまで膨れ上がった地球連邦を支配して50余年、
宇宙に住む我々が自由を要求して何度踏みにじられたか。
ジオン公国の掲げる人類一人一人の自由のための戦いを神が見捨てるはずはない。
私の弟!諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだ。
何故だ⁉︎

「坊やだからさ」 (シャア・アズナブル

新しい時代の覇権を選ばれた国民が得るは、歴史の必然である。
ならば、我らは襟を正し、この戦局を打開しなければならぬ。
我々は過酷な宇宙空間を生活の場としながらも共に苦悩し、錬磨して今日の文化を築き上げてきた。
かつて、ジオン・ダイクンは人類の革新は宇宙の民たる我々から始まると言った。
しかしながら地球連邦のモグラ共は、自分たちが人類の支配権を有すると増長し我々に抗戦する。
諸君の父も、子もその連邦の無思慮な抵抗の前に死んでいったのだ!
この悲しみも怒りも忘れてはならない!それを、ガルマは!死をもって我々に示してくれた!
我々は今、この怒りを結集し、連邦軍に叩きつけて、初めて真の勝利を得ることができる。
この勝利こそ、戦死者全てへの最大の慰めとなる。
国民よ立て!悲しみを怒りに変えて、立てよ!国民よ!
我らジオン国国民こそ選ばれた民であることを忘れないでほしいのだ。
優良種である我らこそ人類を救い得るのである。ジーク・ジオン!

 ガルマ・ザビの死の理由を問うたのは、他ならぬ長兄ギレン・ザビ自身である。そして彼は自らの演説の中ではそれに直接答えてはいない。ただザビ家も多くの国民と同じく家族の死という悲劇を乗り越えて戦っていることを主張したのみである。その問いに「坊やだからさ」と答えたのは、ガルマを死に追い込んだ盟友シャア・アズナブルだった。

 確かに、ザビ家の末弟として生まれたガルマは権勢家の御曹司として苦労を知らずに育ち、その意味で坊やだったことは間違いない。しかし、彼はそれに無自覚なほど暗愚な人物ではなかった。それゆえにデギン公やドズルが将来を嘱望し、ギレンやキシリアにとっても利用価値があった。ガルマはザビ家による暗い統治のなかで公国国民の未来への期待を繋ぎ留める存在であった。それに自覚的だったゆえに、地球に降り立ったガルマ・ザビは侵略者ではなく統治者として振る舞おうとした。それがイセリナ嬢との悲恋という別の結末を呼び込んでしまったのは、確かに甘さゆえかもしれない。しかし鋭く対立するスペースノイドアースノイドとの融和を一年戦争中に模索していた数少ない人物であることもまた事実である。0058年生まれのガルマの世代にとっては、それ以前の宇宙移民の歴史はすでに自らの経験の外にあり、戦後において(もちろん公国の勝利が前提ではあるが)追求されるべきは移民政策の負債の精算であることが意識されていたのではないか。同年齢のシャア・アズナブルにおいても、その革命思想の重心ははスペースノイドアースノイドからニュータイプとオールドタイプの対立へと移っていた。一年戦争を通じて新しい世代は確実に育っていたのである。

「私とてザビ家の男だ。無駄死にはしない」(ガルマ・ザビ

 ガルマ・ザビイセリナエッシェンバッハとの結婚を認めさせるために功を焦っていたこともまた(シャアに煽られたにせよ)事実の一面ではあろう。ことイセリナが絡むとガルマの坊や感は増す。しかしガルマ・ザビが功績に飢えていたこと自体は、単に恋愛感情に基づくものではなかったはずだ。これまでみてきたように、ガルマ大佐の地位は、彼の能力や実績よりも生い立ちに負うところが大きい。誰よりもガルマ自身がそれを意識していたはずだ。イセリナ嬢との結婚も、単に個人的な感情の問題だけではなく、スペースノイドアースノイドの融和という、彼が自らに課していた使命から考えれば、ザビ家の人間として果たさなければならない政治的行為という思いもあったのではないだろうか。

 また最後にガルマ・ザビ大佐の戦死に直結してしまったのが、指揮官としては過剰に前線に出撃し過ぎていたガルマ大佐の血気だろう。これは庇護者でもあり上官でもある姉キシリア少将への配慮から説明されることが多い。しかしキシリア少将もガルマ大佐が自らパイロットとして軍功を上げることを求めていたわけでもないだろう。ガルマ大佐に求められていたのは、ギレン総帥の国葬演説にあるような国民とともに戦うザビ家の姿だったのではないか。だが、名もなき兵卒の心理とは戦場にあってもなんとか生き延びたいという、人間として当たり前の心情である。ルッグン偵察機ホットドッグの機長バムロはペルシア親子のレスキューに向かう際に「ガルマ大佐はまだお若い。俺たちみたいな者の気持ちはわからんよ」と述べている。兵卒からみたガルマ像とは英雄的な指揮官というより、あくまでザビ家の御曹司であり、その意味でやはり坊やだったのだろう。しかし、ガルマ・ザビが選んだ一つひとつの選択は、単に甘さや若さに起因するものとは言い難く、彼がその生い立ちにゆえに課せられた重い期待に応えるべく為されたものとみることはできないだろうか。ギレン・ザビ総帥の国葬演説は、ガルマ大佐が課せられた役割を全うして死んだことを我々に訴えている。ガルマ・ザビは死んだ、何故か?それはザビ家の男として生まれたからだとは言えないだろうか。

 

【告知】ZEONIC Hared Core バンド、万願寺卍BURNINGでライブを演ります。

2022年11月12日 @SHIBUYA TAKE OFF7

18:45 start

https://www.craft.do/s/tOkenDDPn9MO2e