勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

人類観のコペルニクス的転回(2回目)とピリオダイゼーション一般理論

 あんまり、というかほぼ全く自分の仕事について書いたことがなかったですが、この3月末を以って6年のお務めが終わったんで、我ながら節目だなぁと感じるところもあり、つらつらと思うところを書き留めておこうかと思い立ちました。日記ってそういうものなんでしょう、多分。

 

 別にいま勤めている会社を辞めるわけではなくてですね、所属部門が変わるっていう、ただそれだけと言えばそれだけの話です。

 2015年4月に8人ほどのチームを預かることになり、それから半年毎くらいに兼務が増えていって5チームくらいになって、結局2年前から部門全体、多いときで150人くらいを預かることになり、めでたくこの3月末でそのお務めが終わって、なんだかんだで6年間所属したいまのチームを離れるということなんですが、あれですね、仕事でもなきゃこんなに多勢の人間に関心をもつ機会は一生なかったでしょうね。

 

 それまで中間管理職なんかやったことなかったんで「え、おれ?」って感じで、当時の上司に「これ断れないんですか?」と聞いたら「断れません」と返ってきたんで、「おぉこれがサラリーマンってやつかぁ」と思って、ちょっと面白くなっちゃって、謹んで拝命することとなりました。

 自分なりに大体こんな感じでやろうというイメージはあったものの、当時も今も「わかる奴は説明しないでもわかるし、わからん奴は説明してもわからん」と思ってるんで、もういいやと思って「とにかく言われた通りやれ。それで駄目ならおれが阿呆だったというだけなんだから、ツイてなかったと思え」という感じで始めてみました。

 で、それまで「結局自分でやるのが一番簡単」と思って生きてきたのが、ひとにやらせるのが仕事になって、やっぱりやりながら気づいていったことというのがあるわけです。

 「わかる奴は説明しないでもわかるし、わからん奴は説明してもわからん」というのは少し足りていなくて、どちらかというと「わかる奴は少しやらせると結構わかる、わからん奴は何してもわからん」なのかなと。

 

 最初に考えたチームのコンセプトに「仕事の報酬は仕事」というのがあって、ようは一つの仕事が終わるたびにまた次の仕事の売り込みをして…みたいなことを延々と続けるの嫌だなと。そこにかける労力自体は仕事を取るというところに溶けていってしまうし、そこで余裕を失うと何かをアップデートすること自体が出来なくなる。

 一つの仕事をしたら「それができるならこれもやってくれ」という形で、どんどん仕事が連鎖していくようにしたいなと考えていて、そのために大事なことは予測だなと。マーケットがどうなっていってクライアントはこうだから、次に必要となるのはカクカクシカジカだという予測に基づいてチームデザインをする。局面が変化したときに既に準備ができているというところを目指したいなと。もちろん個としての能力がないと準備ができないんで、そこは個々人の資質や努力に依存しちゃうんですけど、予測があるとリソース自体の無駄が減るんで個の能力に還元されるところはあるなと思います。空振りが減るというか。いずれにしても予測と準備というのは、もともと自分がプランナーだから、自然な発想だったということもあります。

 

 いまチームデザインと言ったけど、これはやりながら整理されていったことで、当初は予測に対するアウトプットが何かというのはあんまり整理されていなかったように思います。

 予測と準備ということはかなりはっきり意識していたけれど、それが結局チームデザインだなっていうところに着地したのは、ここ2〜3年くらいですかね。

 予測というのはどうやったって揺らぎが含まれるのでサービスやプロダクトみたいな考え方をしちゃうと、その揺らぎに対する冗長性みたいなものに限界があるんですよね。それに対してチームデザインということだと、それはもともと揺らぎを含んだ人間の集団なんで、割となんとかなる。そういうファインディングの積み上げですね。

 

 でも、こういうことを最初にバーッと説明して全部理解して自分で考えて行動しなさいとか、ほとんど無理ゲーだと思うんですよ。自分でもやりながら考えている部分もあるわけで。

 でも以前の自分というのは相手にバーッと説明して、なんだできねえなとなって「なんで理解できねえんだよ頭悪ぃな」という感じで、もう相手するのがめんどうくさくなるっていうのを繰り返していたように思います。

 

 なのでもう説明すること自体、理解させること自体をやめようと思ってやってみたら、やらせてみて予測通りのことが起きると「なんでや?」と考え始める奴が出てくる、そいつに局地的な説明をすると、わりと理解して全体像についてもイメージを徐々につかむようになるということに気づいたんですね。

 そこらあたりから、誰にいつどんな体験をさせるかということに凄く神経を使うようになりましたね。あるタスクをやらせてみて「どや?」って話してみて、まだピンときてねぇなと感じたら「じゃあ次これやってみて」、あぁいい感じになってきたと思ったら「じゃあ今度はこれ」みたいな感じで調整していく。

 基本的な予測というのは自分の頭の中にあって、それ自体を全部話すことはほとんどないんだけれども、何かをやらせてみてそこでそいつが何を感じたかで体験設計の調整をする。わりとそういうことで、どういうことがやりたいかみたいなことは浸透していくという感触があったし、そこからのF/Bから自分自身の予測ま修正していく。結局、身体で覚えるということなんでしょうね。

 本人の体験に基づいた裏付けがないとインプット過剰になってマニュアル野郎になったり、やたら教条的というか誰かが言ってたことを連呼するコピペ野郎になっちゃうんだと思うんですよ。不幸ですね。いや幸せは人それぞれですけども。

 

 どうやって全体を部分に分割して、それを体験として配分するかみたいなコンセプトは、サッカーのゲームモデルとピリオダイゼーション理論を一般化できないかなというところから着想したんですけど、面白そうだからもう少し標準化すべきなんだろうなと思いつつ根気が足りません。

 

 そんなこんなで、10年前の自分は「人類の80%は手遅れで何をしてもどうにもならない」と思ってましたが、いまは「人類の80%くらいはやりよう次第ではどうにかなる」と考えるようになりました。もの凄いパラダイムシフトだと思いませんか。

 人間って、当然もって生まれついた資質っていうものがあって、それはもう選べないという意味では運なんでしょうけど、でもそれはほとんどの場合は五十歩百歩の違いしかなくて、ほんとの天才ってそうそういないと思うんですよ。環境要因もガチャっちゃガチャなんですが、少なくとも決定論的になり過ぎる必要はなくて、ある一定以上の可能性は常にある(80%くらいは)というふうに考えた方が組織論的には収穫が多いなと、そういうふうに考えるようになりました。

 言い方変えると80%が一定の水準のパフォーマンスを出すことが大事で、最大多数の最大幸福が大正義というか、でも意外にこれも受け入れられないんですよね。20%のことばかり言い立てて、結局そいつらのせいにしたりしてね。80%がパフォーマンスすれば残り20%の居場所も作れると思うんですけど。

 

 数年かけて進行したんであんまり劇的な瞬間はないんですけど、人類への見方がコペルニクス的転回をする経験したのは、20年くらい前にマサイの選手と2週間くらい過ごして「人類ってこんな垂直に飛べんだ」と度肝を抜かれたとき以来でしたね。

 振り返ってみれば、大体は面白い6年間でした。お付き合い頂いた皆さん、ありがとうございました。

昭和のアニメを彩る記憶すべき男達シリーズ

 約1ヶ月前の2月8日に声優の森山周一郎さんが86歳で亡くなったそうです。私は子供の時分にキャプテン・ハーロックが大好きでですね、当時広告代理店でタカラの仕事をしていた父に頼んでセル画を貰ってきてもらったりしていて、特に『我が青春のアルカディアとかさよなら銀河鉄道999なんかのハーロックはほんとにかっこいいんですが、森山周一郎さんもこの両作品に出演していた渋い声優さんです。

 松本零士作品に批判的なひとは、御都合主義だとか全く辻褄があってないとか、とくにキャプテン・ハーロック銀河鉄道999は作品としてクロスオーバーしてる割に齟齬だらけで整合性が至る所て破綻していて、レビューとかみるとひとによっては酷評してたりもするんですが、いいんですよそんなの。松本零士宇宙は男の中の男のかっこいいシーンの並行世界みたいなものだから。

 

 森山さんが『我が青春のアルカディア』と『さよなら銀河鉄道999』で演じたのも、そんな松本零士宇宙の中でも一際輝き続けるであろう真の男の役どころでしたね。

 若い人には馴染みが全くない世界なんでしょうが(そして若い人がこれを読んでるとも思ってませんが)、そんな松本零士宇宙の男たちを後世に語り継ぐのも昭和に生まれた男の使命だと思うんで、出来るだけネットの海を浚って森山周一郎さんの往時を偲んでみました。

 

さよなら銀河鉄道999』で機械化人に追われながら999で旅立とうとする鉄郎を身を挺して守り抜いた老パルチザン

さよなら銀河鉄道999 感動シーン - YouTube

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 こんな号泣必至のシーンをいきなり冒頭にもってくるというのが監督りんたろうのアイデアなのかどうか、昭和のアニメ制作者のとち狂ってるところというか、なんかコンテクストとか流れとか伏線とかじゃなくて「こういうシーンみんな観たいだろ」というドヤ顔で、とにかくかっこいいと思うシーンを出来るだけ頭から詰め込もうとする熱量が素晴らしい。

 崩壊していく線路を疾走する999の映像と背後に流れるBGMも最高、それを見送り生き絶える親爺の最期の台詞に森山さんの当てる声が渋くて最高、腹とか胸を撃たれてるのに何故か額から流れる赤い血、静かに落ちるパイプのカットも最高。この親爺、名前もないしこのオープニングしか出てこないのに全く出し惜しみなしで、男らしさ以外の要素が皆無。

 

『我が青春のアルカディア』でトカーガ族最後の女性が死んでしまい絶滅が決定的になってしまったあと、自分たち種族のためにイルミダスと戦ってくれたハーロックを救うために宇宙のスタンレーの魔女の燃え盛る炎に身を投げた老トカーガ兵

https://youtu.be/jiv8OJBNscE

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 結構探したんですが、この老トカーガ兵のシーンの動画は残念ながら見つけられませんでした。そもそもトカーガ族だの宇宙のスタンレーの魔女だの言われても、全く状況が分からないと思いますが、これは是非本編を観て確かめていただきたい。

 この老トカーガ兵も見せ場はほぼこれだけなんですが、トカーガ族はイルミダスの被征服民でこき使われて、ハーロックとも戦わされたりした挙句、結局絶滅させられちゃうという哀しい種族なんだけれども、とても誇り高い人たちでもあり、最後に数人残った命をハーロックを救うために使うんですね。同胞たちにハーロックを救うために死のうと呼びかけたのがこの老トカーガ兵で、この作品の中でも一番重たいシーンです。

 トカーガ族のリーダーは誇り高き戦士ゾルといって、彼も同族を守るためにイルミダスにこき使われた挙句、結局非業の死を遂げるんですが、死んだ種族最後の女性というのは実はゾルの妹で、こののちハーロックアルカディア号に乗せて連れていくことになるトリさんは実はこの妹が飼っていた鳥なんです。トリさんが妹と惑星トカーガでゾルを待ちながらゾルニイチャン、トカーガヘカエレ、トカーガヲタスケテ」と鳴くシーンはほんとに切ない。因みにゾルの声は池田秀一でしたね。

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 このトカーガ族というのはハーロック作品では結構重要で、TV版『宇宙海賊キャプテン・ハーロックにも登場しています。このときはイルミダスではなくマゾーンに征服された種族という設定でしたが、ゾルの見た目が考えられないくらい違います。

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 見た目はこんなですが、やはりマゾーンに同族を人質にとられてハーロックと戦う羽目になり、敗れたあとに戦士の誇りを取り戻して、息子への遺言をハーロックに託して自爆してしまう切ない話でしたね。

 

 松本零士宇宙は単話読切の物理法則でできているというか、劇場版でもそれぞれはあんまり整合性や連続性のない、ベタだけどもメッセージのはっきりしたエピソードがずらっと並ぶ、ジャンプ的なものとはまた違った世界でとても好きなんですが、すでに平成くらいにはもう下火になってしまっているので、なんとか細々とでも令和に受け継がれていったらいいですね。

螺旋的に

10年前の今日のことを、思い出せることももう記憶が薄れてることもあるんですが、14時46分には私は渋谷にいて、仕事で奥さんみたいな人たちを集めてFGIをやってたんですね。

 

確かインタビューがもう終わるかなくらいのときにグラっときて、すぐにこれはふつうの地震じゃないなと。とりあえず揺れが収まったかと思って外に出てみると、代々木公園やNHKのあたりでもうみんな外に出てきて、車とかも止まってなにかキョロキョロしている。みんなこれはとにかく異常なことが起きたなと、そういう感覚はもう報道をみるまでもなくあったんじゃないかな。放電現象なのかなんなのか、皮膚がピリピリする感じがあったし空の色もまだ夕方でもないのに紫みたいな変な色だったような気がするし。

 

交通機関が麻痺するかもしれないなと思って、集まってもらっていた奥さんたちにすぐ帰宅してもらって(とはいえやはり電車等動かなかったので、あとで安否確認の連絡をしたら皆さん歩いて帰ったりで大変だったのに変わりはなかったんだけども)、自分もすぐには帰れないなと思ったんで、知り合いの事務所に待機させてもらって、そこでTVの報道を観てどんどん津波が押し寄せて三陸海岸が飲み込まれていく光景というのを目の当たりにしてと、この辺はほぼ当時みんな共通の体験なんじゃないかなと思います。

 

TVの光景を見て、すぐに仙台に住んでいる知人が心配になって連絡をして、そうしたら1回目は繋がって、車でSCに買い物に行った帰りで地震が来て、いま道路が地割れで使えなくなっていて路肩に止めたところだけど、めちゃくちゃ怖いと。とにかくいま無事なんだなと思っていたら、もうそのあと繋がらなくなって、TVでは車や建物や道路がオンタイムで波に押し流されてるのが映っているわけですよね。自分はあんまり慌てない性格なんですが、ぶっちゃけその知人というのがその1年くらい前に付き合いのあった元カノということもあって、さすがに血の気が引いた思いがしたんですね。たった今メールを返信してきていた自分のよく知っている人間がもういま波に飲み込まれているかもしれないという、そういうあり得ないような想像が全然笑えない状況で。

 

それから何週間か、もしかしたら1ヶ月くらいあとだったかもしれませんが、その相手と連絡がついて、あのあと基地局が流されて携帯が繋がらなくなったこと、実家に避難してとりあえず身柄は無事なこと、電気がないんで携帯の充電もできないんで連絡出来なかったこと、いままだ大混乱で物資もないから素人がボランティアとか来ても迷惑だとか、そんなような話をすることができました。

 

だから、多分日本社会全体にその後与えた影響という意味では311って、多くのひとにとってそのあとすぐに起きた原発事故なのかもしれないですけども、いま思い起こすと私個人の最も強い記憶って津波なんですよね。

もちろん自分は東京にいたんですが、電話の向こうで「あ、アイツいま死んだのかもしれない」っていうのが、ずっと残っている。TVで映っている土砂だか濁流みたいなものの下にもういるのかもしれないって思った記憶ですね。

幸いなことにその知人は無事だったわけですけども、車で買い物に行っていたSCはすぐに飲み込まれたそうなんで、ほんの数分の差で生き残ったということだったそうです。そういう話が無数にあるんでしょね。

 

飛躍するんですが。そういうことがあって自分がそのとき思ったのが、おれもうちょっとちゃんと生きないと悪いな、なんか申し訳ないなと。なにが悪くて誰に申し訳ないのかもいまでもはっきりはしないんですが、その当時の自分は半ば世捨て人みたいなもんで、社会の片隅でまあ自分一人で生きていく分にはなんとかなるやみたいな感じで、それで別にいいやと。

でも結局生きている以上なんらかの形で社会の一部であって、どうしたってそういう共同性のようなものの外部にいるわけではないんですよね、そういうふうに思うのは自分勝手な錯覚であって。地震のあとに続いた原発事故も含めて、当時自分が感じたことはそういうことで、飛躍するようですが、もうちょっとちゃんと社会参加しようと、正直社会を変えるんだみたいなところに振り切れるまで自分に自惚れられないんですが、もう少しちゃんと働いて憲法に定められた義務くらいはせめて人並みに果たそうと、そう考えるようになって、いま勤めている会社に就職してからの8年半、あるいは結婚してから離婚するまでの7年間がすっぽりと含まれた、そういう10年間でした。

 

内面的には正直どれだけマシな人間になったか、多分あんまり変わってないんだと思いますが、外形的にというか社会関係としては当時に比べれば多少ちゃんとしてるのかな、一応勤労してるし納税してるし。去年コロナ禍みたいなことがあって、なんだかやっぱり考えさせられる時間というのがまた来て、ぐるうっと回ってきたけど完全に同じところに戻ってきたわけでもなくて、螺旋的に旋回している、そんなような時間の流れだなと感じます。

 

次にもう一周したら還暦に手が届くわけで、あと何回回るのかもわかりませんが、そうですね、10年経ってもやっぱり社会ってそんなによくはならないんだなと(笑)。できるだけちゃんとして生きていきたいなと、10年前とあまり変わらないことを考えました。

2020年行く年来る年

 2020年、まぁ本当にいろんなことがありました。社会的にも個人的にも、言えること言えないことありますが。

 

 言わずと知れたコロナ禍については、別に感染症についてなにか知っているわけでもなし、確かなことは未だによく分からないし、いろんな人がいろんなことを言っているので、私が語れることは余りないんですが、そうですね、多分歴史に与える影響としては30年前の冷戦崩壊以来の出来事だと思います。天安門事件から始まって、ソ連が突然なくなってベルリンの壁が崩れて、チャウシェスクが処刑されてあっという間に東欧革命が始まって、鉄のカーテンの向こう側、共産圏が消え失せた。そういう世界史的な事件を昭和天皇崩御して変な自粛気分の日本から眺めていて、当時私は15歳くらいの多感で(笑)早熟な少年だったし、平々凡々とした日常というのは人間に知覚しうるタイムスケールに制約された共同幻想なのだなと。人間が知覚できる時間感覚って精々30年くらいですからね、そういうのは生物としての寿命でタイムスケールが決まるんだと思うんで、まぁでもそういうのを超える変動というのはあるわけで、今回のコロナ禍はそういうスケールでの影響を与えるんだろうなと思います。

 既に個々人の日常のレベルでの平凡さというのを破壊してしまっているからね、我々の生活が平凡という共同幻想に乗っかっていただけというのを暴露することによって。ずっと続くと信じていたもの、変えられないと感じていたもの、そういうものに大した根拠はなかった、ただ昨日までそうだったから今日も明日もそうだと思っていただけだったと。911も311もそうだったように個人の意識のレベルではこれもすぐに過去になっていくんでしょうけど、WWⅡが高度資本主義社会を、冷戦崩壊がグローバリゼーションを生んだように、コロナ禍もポスト・グローバリゼーションのような、なにか新しいプロトコルを生んでいくんでしょうね。それがどんなものかわかりませんが。

 そういえばいま『Death Stranding』という、買ってからずっと放置してたゲームをしてるんですね。『Metal Gear Solid』の小島秀夫の作品で、超自然的な災害で人類社会が崩壊して、通信や物流も止まって人々は都市や個人で孤立しながら生活をしている、そういう引きこもりになった人々のあいだを配達人のサム・ブリッジスが荷物を届けたり通信網を復旧したりしながら繋いでいく、まぁこう書くとなにが面白いのかよくわからないかもしれませんが(笑)、自分自身の生活がいまリモートワークで食事はUber Eats、買い物はほとんどAmazonという状況なんで、まさかコロナ禍を予測していたわけでもないでしょうが、恐ろしいほど預言的な内容になっています。MGSで冷戦時代を主題としていた小島がポスト・グローバリゼーションのような世界をイメージして作ったら、現実があっという間に追いつきつつあるという感じがします。20年代は分断と再構築の時代になるのかもしれませんね。

 

 

【PS4】DEATH STRANDING

【PS4】DEATH STRANDING

  • 発売日: 2019/11/08
  • メディア: Video Game
 

 

 個人的には2020年の前半はとにかく危機対応に追われた半年でした。ちょっと内容は言えないんですが、昨年末から1月一杯くらいまでトラブル対応に追われていて、それが終わったと思ったらコロナ禍が始まって、最初は私も中国で肺炎が流行って大変らしい程度の認識しかなかったのですが、あれよあれよという間に緊急事態宣言になりそうだということで全社リモートワークに移行するというオペレーショーンが始まって、名ばかり執行役員とはいえ自分の指揮下だけで140人、その家族を含めたら多分200人以上の人間の生活があるわけじゃないですか。前例のないことでも日々判断をしていかなきゃならないんで、まぁあんまりそういうのが苦にならない性格ではあるんですが、さすがにこれは大変なことだなと思いました。あっという間に時が過ぎたようにも感じるし、もう4月が遠い過去のようにも感じます。

 

 私生活では9月末に離婚をしました。元妻とは出会って10年、結婚して7年でした。よくこんな男とこれまで連れ添ってくれたと元妻には感謝しかありません。そういうわけで10年ぶりに一人暮らしをすることになり、年の後半は文字通り生活の再構築をして過ごすことになりました。ほぼ引きこもりの生活なんでそれに合わせて部屋をいろいろ模様替えしたり、仕事をする書斎を作ったり、2年くらい通っていたマッサージ師が独立した直後にコロナ禍になってしばらく音信不通になっていたんですが連絡が取れて、12月からまた通うようになりました。来店型の仕事はほんとにいま大変だなと思います。

 

 3月、まさにコロナ禍が明らかになってきたタイミングで20歳のとき以来、実に26年ぶりにライブをしました。当初は観客を入れる予定だったんですが、さすがに密だよねということになってギリギリで無観客ということにして、本当はストリーミングしようと思ったんですが、ライブハウスが地下で電波が来ず、終わってすぐに編集して公開ということにしました。世界最速の編集だったんじゃないかと思います。

 

万願寺卍Burning @新宿Live Freak 7th March 2020 【Director’s cut】 - YouTube

 

 ライブが終わった後にバンドメンバーで今後の方向性を話し合いまして(笑)、それまでただのコピバンだったんですが(笑)、ZEONIC Hard Coreというコンセプトで曲を作ろうと。私がジオン魂をテーマに歌詞を書いて、Georgeがそれに曲をつけて、Kazooがエアドラムを叩いて、それを映像化するというプロダクションをほぼフルリモートでやっています。平均年齢も50歳の大台に乗りました。

 

Zeonic Hard Core - YouTube

 

 自宅にいる時間が長いので昔観た映画を見返したり、炬燵に潜ってNHKオンデマンドで昔の大河ドラマを見たりしてますね。まさにニューノーマル。例年通り、今年観た映画で印象に残ったものを挙げていきます。

 

コブラ

映画といいつついきなりドラマですが、アラフィフにとってこれほど胸熱なドラマもない。歯車が狂って負け続けた元悪役が懸命にやり直そうとするがうまくいかない姿が心を揺さぶる。

『コブラ会』予告編:『ベスト・キッド』の物語は続く - Netflix - YouTube

 

14の夜

『百円の恋』の監督。主演の子が巧い。個人的には(余り上昇志向がないのも相まって)こういう閉塞感みたいなものを感じたことはないんで、ある種の青春への羨望みたいなものがある。

映画 『14の夜』 (14 That Night) 予告編 - YouTube

ニワトリ★スター

これも意外によかった。後半、戻るところがある井浦新と、それがない成田凌の対照がいい。

井浦新、成田凌ら出演!映画『ニワトリ★スター』予告編 - YouTube

井浦新でもう一作。これは戻るところがない男たちの話。

瑛太が狂気の笑み/映画『光』本編映像 - YouTube

パラサイト 半地下の家族

ソン・ガンホが大好きなんで。これは確か劇場で観た。いま韓国のエンターテインメントはどれみても面白い。韓国は日本の良いところも悪いところも極大化されているような社会だよね。

第72回カンヌ国際映画祭で最高賞!『パラサイト 半地下の家族』予告編 - YouTube

暗数殺人

キム・ユンソクが大好きなんで。チェ・ジフンのサイコパスっぷりもいい。芝居が巧ければそれだけでも観れる。

映画『暗数殺人』予告編 - YouTube

 

 

日本沈没2020

DEVILMAN crybaby』の湯浅雅明監督作品で、前作同様賛否両論あるようだけど、私は好きです。『日本沈没』も見返しちゃった。

『日本沈没2020』予告編 - Netflix - YouTube

日本沈没

石田あゆみが美しい。

日本沈没(1973)予告編 - YouTube

 

来る

オカルトやホラーというより『帝都物語』のようなサイキックウォーものとして面白い。

映画『来る』【ロングトレーラー】 - YouTube

雨にゆれる女

青木崇高が気に入ったんでもう1作。大してなにが起こるわけでもないんだけど、音楽と映像がいい。

『雨にゆれる女』予告 - YouTube

 

ゆれる人魚

ポーランド産のホラーというよりダークファンタジー。人魚の2人が美しく、ちょっとt.A.T.uっぽくもあり、旧東欧っぽいデカダンアイロニーがある。

「ゆれる人魚」予告編 - YouTube

コールドスキン

予告編からいい意味で期待を裏切られた。ホラーやパニックムービーではない。異種交流ものとでもいうのかな。

映画『コールド・スキン』予告編 - YouTube

ババドック 暗闇の魔物

脚本と映像がよくできてる。単なるオカルトというより、子供が自閉症というか発達障害っぽくて、ひとり親で育児に苦しむ母親の心理劇とも観れる。

DVD『ババドック 暗闇の魔物』予告編 - YouTube

MAMA

これも母性がテーマのホラーかな。

映画『MAMA』予告編 - YouTube

 

REVENGEリベンジ

コラリー・ファルジャっていうフランスの女性監督でマチルダ・ルッツっていう子が主演なんだけど、クソみたい男たちにそれ痛くて死ぬでしょっていう酷い目に遭わされて、でも死ななくて滅茶苦茶にやり返して世界中の女性批評家から称賛の嵐だったらしい。

REVENGEリベンジ - YouTube

初恋

期待通りの三池崇史ベッキーがいい。

窪田正孝主演&三池崇史監督『初恋』ぶっ飛びの新予告 - YouTube

アイアン・スカイ 第三帝国の逆襲

デンマーク産馬鹿映画の2作目。個人的には前作の方が好きだが続編を作った心意気を買う。

ソウトウぶっ飛んだ侵略者たちに対抗できるのか!?映画『アイアン・スカイ/第三帝国の逆襲』予告編 - YouTube


Sweet Home

これも韓国産のネトフリドラマだけど、園子温のヴァンパイア・ホテルとデビルマンを足したような感じで、怪物に包囲された団地の住人一人ひとりの描き方が巧い。

Sweet Home | Official Trailer | Netflix - YouTube

 

魔法少女特殊戦あすか魔法少女特殊戦あすか

巨乳メイドものだが深見真が原作なんで面白いかなと思って。ナウシカセーラームーンエヴァンゲリオンまどか☆マギカと続く戦闘美少女の系譜。日本人はなぜかくも少女をこうまで戦わせるのが好きなのか。

『魔法少女特殊戦あすか』第1弾PV - YouTube

 

HOMIE KEI〜チカーノになった日本人〜

このひとのYouTubeや著作を結構観たんだけど、ほぼひと回り上で中野区出身、自分よりちょっと前の先輩の話を聞くような感じがする。

ドキュメンタリー映画『HOMIE KEI〜チカーノになった日本人〜』予告編 - YouTube

 

 

今年読んだ本で印象に残ったものも挙げていきます。

 

ドキュメンタリーとして面白い。

アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人 改訂版 ([テキスト])

アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人 改訂版 ([テキスト])

  • 作者:KEI
  • 発売日: 2019/12/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
チカーノKEI 歌舞伎町バブル編

チカーノKEI 歌舞伎町バブル編

  • 作者:KEI
  • 発売日: 2019/05/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
ケーキの切れない非行少年たち(新潮新書)
 

 

日本が非常な自責社会に傾斜というか回帰していくなかで、その起源ともいうべき武士という社会集団の研究が近年凄く進んでいて、これは社会分析的にもっと注目されるべきと思う。

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

  • 作者:清水 克行
  • 発売日: 2006/02/11
  • メディア: 単行本
 
兵農分離はあったのか (中世から近世へ)

兵農分離はあったのか (中世から近世へ)

 
百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)

百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)

  • 作者:黒田 基樹
  • 発売日: 2006/09/01
  • メディア: 新書
 
武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

 
執権 北条氏と鎌倉幕府 (講談社学術文庫)

執権 北条氏と鎌倉幕府 (講談社学術文庫)

 

 

1946年の著作ということだが、これは名著。ロマノフ王朝から連続したものとして、ソ連ではなくロシア史としてロシア革命を分析するという、戦後左翼も右翼ももたなかった視点で描かれている。

ロシア革命史 社会思想史的研究 (角川ソフィア文庫)
 

 

 最後に、年の瀬になってマラドーナの訃報がありましたね。マラドーナと言ってピンと来るのは40代以上なのかな。改めて振り返ってみると、彼はサッカー選手というより、20世紀最大のアンダークラスヒーローだったと思うんですよ。彼自身それに凄く自覚的だったし、いわゆるマイノリティというのとも少し違って、あくまでアンダークラス、人種や宗教や性別みたいな特定の社会集団というより階級を代表していて、それゆえの孤独というのが彼を非常にユニークな存在にしていたんだと思います。不可解な自殺など、なんというか不安な空気みたいなものが続いたまま新年を迎えようとしていますが、2021年はどういう年になるんでしょうね。

 

マラドーナが史上最高だとよくわかる動画!100年に一人の天才によるゴール&ドリブル サッカースーパープレイ アルゼンチン代表 ナポリ バルセロナ【Legend】 - YouTube

 

 

 

【東京地政学④】木賃ベルト地帯/市ヶ谷ベース

 私は成人式にでていない。「成人式なんて出ねえぞ」とか気負っていたわけでもなく、単純に意識から溢れていた。生まれからすると平成7年1月の成人の日だったはずで、その日は例のごとく余丁町のスーパーで働いていて、店のひとに言われてはじめてその日が成人式だと気づいた。店長夫妻がいいひとたちでわざわざフォトフレームをプレゼントしてくれた。

 

 そもそも自分が成人式を意識していなかったんだが、そのタイミングがなかったせいもあって、なぜかというと17歳で引っ越して都内の高校大学に通っていたから、20歳当時に住んでいた川崎市宮前区には同級生のような存在が皆無だったからだ。いま考えれば、たとえ意識にのぼったとしても1人で誰も知らない川崎市の成人式にでることは、やはりなかっただろうとおもう。

 

 いまさらながら令和2年の川崎市の成人式がどうなっていたのか調べてみると、中原区とどろきアリーナで行われて、午前の部が川崎区・幸区中原区高津区で、午後の部が多摩区麻生区・宮前区だったらしい。なんかわかる。

 

北部のひと

中部のひと

南部のひと


 ともあれ、私の成人式があるはずだったのは平成7年、西暦でいえば1995年だ。もう四半世紀も昔のことなので記憶の前後関係が曖昧だが、記録によれば成人の日(当時は15日に固定だった)の前日に坂上忍が当て逃げで現行犯逮捕され、翌々日の17日に阪神神戸大震災が起きた。

 

 その日の朝、私は出がけにテレビの速報を横目でみただけで、「ああ、関西で結構大きな地震があったんだ」くらいに思って実家を出たのを憶えている。当時の私はまだ大学に通っていたはずなので、だから恐らく高田馬場に向かったのだろう。そのあと余丁町のスーパーで閉店まで働いて帰宅したのは深夜近く、帰ったらテレビで火の海になっている長田区が映っていた。それまで神戸の長田区なんて名前も知らなかった。本当にそのときまでそんな酷いことになってるとは気がつかなかった。当時はスマフォもなかったし、号外とか出ていたのかもしれないが大学でもスーパーでも地震の話は聞いた記憶がない。まだインターネットはほとんど普及していなくて、だから当時の情報の伝播速度はそんなものだったのかもしれない。

 

 阪神大震災で90年代の不穏な剣呑さが急に可視化された気がした。3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。それまでは飛び切り痛々しい奴らというだけだったのが、ほんとうに大量殺人のテロリストになった。大学を辞めたのはこの頃だった。

 

 我ながらノープランだったが、まあとにかく働いて家を出ようと思っていた。なんのあてもなかったので、anとかを買ってきてとりあえず取っ払いの日雇いバイトを探した。五体満足なら馬鹿でもできる単純労働ばかりだったが、その代わり誰でも仕事は貰えた。

 イベントの設営や警備、債権回収の下請けで廃棄物回収なんかをやった。飛んだ会社の事務所に入って、要は片っ端から捨てていく。さっきまで誰かがそこにいたみたいなオフィスで什器以外の私物も備品もどんどん捨てていく。なるほど飛ぶというのはこういうことかと思った。

 なんだかんだそんな生活を1年近く続けてみて、これは拉致が空かないなとようやく気づいた。全然収入が安定せず、家を出るどころではなかった。だからみんな定職に就こうとするのか。当たり前のことをやってみるまでわからないのが私の痛々しいところだった。

 いつまでも親の脛を嚙るわけにもいかねえなと考えていたときに、実家の郵便受けに「あなたもテレビ業界で働きませんか」みたいな往復葉書が入っていた。特にテレビっ子というわけではなかったし、なにかクリエティブな仕事がしたいとか考えていたわけでもなかったが、離職率の極めて高い業界であることは知っていたし、それならとりあえず入ることは容易いだろうと考えて葉書を送り返した。

 

 案の定、簡単に入れた。

 

 「じゃあすぐ来て」と言われ、ようやく曲がりなりにも月給取りの職を得て、めでたく実家を出ることになった。引っ越したのは中野区弥生町というところだった。

 

 弥生町には結構長いこと住んで、多分9年くらいいた。最寄駅は丸の内線方南町支線の中野新橋中野坂上も歩けないことはなかった。

 なぜここを選んだかというと、就職したのがフジテレビ系列の番組制作プロダクションで、当時はまだフジテレビはお台場に一部移り、一部は河田町の旧社屋に残っていたので、私の入った会社もまだ都営新宿線曙橋にあったからだ。比較的仕事先にアクセスがよくて、かつ丸の内線沿線は支線の側だと家賃がやや下がるという諸条件の着地点が弥生町だった。

 

 この街は神楽坂をすべてにおいてスケールダウンさせたような感じで、中野新橋駅の前を南北に緩やかな傾斜のついた商店街が通り、駅の側で東西に神田川が交差していた。そこにかかっている小さな橋が新橋だそうである。

 どういうわけかお笑い芸人が多い街で、グレート義太夫が嫁さんだか彼女だかを連れて歩いているのをよくみかけた。ダンカンもいた気がする。たけし軍団ばかりだが。

 借りた部屋は駅から10分くらい歩いたところにあるワンルームのアパート、6畳くらいでユニットバスとちっさな冷蔵庫、一応エアコンもあって家賃は確か6万、まあ上等な部類だろう。1畳くらいのロフトがあったんでワンルームでも若干スペースがあったのと天井が高いのがわりと気に入った。風呂は狭かったんで、よく近所の銭湯に出かけたが、X-GUNの太ってる方(西尾)をよくみかけた。あと芸人の他には力士も多かった。なぜかはよくわからない。

 

 アクセスや家賃というほかに、中野区は私の育った世田谷区、特に三軒茶屋近辺の世田谷地域に風景がよく似ていた。中野区だと中野ブロードウェイなんかがある中央線沿線のイメージが強いだろうが、区全体としては住宅地が多く、それも低階層の借家が多い。

 木賃ベルト地帯というそうだが、高度成長期に東京で大規模な都市基盤整備が行われた際に、季節労働者を収容するために中野区付近で民間が木造の長屋みたいな借家をバンバン建てたらしく、それを木賃アパートというそうだ。地主が公共事業に従事する出稼ぎ労働者のための借家を自分の土地に無秩序に建てていったために、中野区は建蔽率が非常に高く、低階層の木造アパートが密集する景色になったらしい。この辺の街の成り立ちが、関東大震災で都心を焼け出された人口を収容した世田谷地域と似ているのだろう。

 木賃アパートは季節労働者が住んでいたために住民の定着率が低く(出稼ぎが終われば地元に帰るため)、結果としていまでも中野区は学生なんかが住む若者の街という性格を保っている。木賃アパートを建て替えた後には、私の住んでいたようなワンルームアパートが多く建ったからだ。

 

 弥生町からどういう経路で曙橋まで通っていたのか記憶が定かでなのだが、恐らく新宿で乗り換えていたはず。ドア2ドアで30分くらいだったか。

 曙橋は「フジテレビ前」という副駅名もあったくらいで、駅前から北の河田町に続く商店街も昔は「フジテレビ通り」だった。

 駅前を通っているのが靖国通りで西に進むとそのまま新宿、学生時代に私の働いていたスーパーのある余丁町にも近い。駅横の合羽坂を上ると外苑東通り防衛省(当時はまだ庁)や交通機動隊、中央大の市ヶ谷キャンパスなどがある。外苑東通りを北に進むと私がのちに住むことになる薬王寺町で、南に進むと荒木町や四谷に至る。我ながらこの辺りとの地縁は濃い。

 

 この辺りは強いて言えば市ヶ谷地域とでも呼ぶべき土地で、もともとは大名屋敷が多かったらしく軍用地が多い。いまの防衛省がある場所は明治に陸軍士官学校が置かれ、さらに陸軍省参謀本部が設置されたことで、旧日本陸軍の東京における根拠地だった。そのおかげで戦中は空襲の的になることが多く、その焼け跡が戦後に大久保や戸山といった街になっていった。参謀本部跡地はいまの防衛省であり、三島由紀夫が割腹自殺したのもここである。

 フジテレビのあった河田町はほとんどの敷地が東京女子医大だが、この土地ももともとは陸軍獣医学校だったそうだ。

 

 フジテレビのお台場移転が進むと、私の勤めていたプロダクションは、確か天王洲に引っ越した。その会社を辞めたあとも私は弥生町のアパートに住み続けた。すぐ前にコンビニがあり、ほとんどの買い物も食事もそこで済ませていた。仕事が退けたらコンビニで弁当を買って家で喰い、プレステで遊んで寝る、みたいな生活だ。考えてみれば、いまもほとんど変わっていない。相変わらず弁当をコンビニで買って帰って、プレステで遊んで寝ている。変わったことといえば、借家じゃなくなったこと、プレステが4になったことくらいか。恐らく私の生活はすでに弥生町にいたときには必要充分な水準に達していたのかもしれない。

【東京地政学③】川崎ノーザンソウル/多摩川リバーズエッジ

ダンスフロアーに 華やかな光

僕をそっと 包むようなハーモニー

ブギー・バック

シェイク・イット・アップ

神様がくれた

甘い甘いミルク&ハニー

 流行歌という以上に、その時代に生きた人間が呼吸した空気を表象する曲というのが、かつてはあって、80年代は多分サザンの『いとしのエリー』、90年代は小沢健二スチャダラパーの『今夜はブギー・バック』だと思う。

 

 80年代でもサザンじゃなくてユーミン山下達郎、90年代なら安室奈美恵浜崎あゆみだというひともいるだろうが、特に渋谷系もヒップホップも通過していない私にとっても当時からどこかノスタルジーを抱かせたこの曲は、やはり特別な曲だと思う。

 

 オザケン安室奈美恵のようなポップアイコンではなかったが、小澤征爾の甥で東大文Ⅲという筋目の良さで渋谷系を代表する存在だった。

 と言っても、フリッパーズギターは多少聴いたが、いまだに私はなんとなくオシャレっぽくて軟弱な音楽としてしか渋谷系を理解しておらず、熱心なリスナーとは言い難い。スチャダラパーについても、なんとなく鼻につくオザケンよりは好感をもっていたが、ヒップホップがわからない私にとっては馴染みの薄い存在だった。

 この頃の私が熱心に聴いていたのはアル・ユルゲンセンやトレント・レズナーみたいな無機質なインダストリアル・メタルで、だからいま思えば渋谷系に対する感情は、お洒落で軟弱そうな奴がもてはやされていることへの僻みもあったかもしれない。

 

 オザケンは自分を“川崎ノーザンソウル”と呼んでいたらしいが、ソウルミュージックのソウルということではなく「川崎北部の無気力人間」というような意味だったらしい。

 彼は私の6年上で、川崎市多摩区の県立多摩高校に通っていた。中学は和光だというから、住んでいたのは麻生区あたりじゃないかと思う。

 川崎には7つの行政区があり、多摩区はその最北端、私の住んでいた宮前区も北部に属していた。

 

北部

 多摩区

 麻生区

 宮前区

中部

 高津区

 中原区

南部

 幸区

 川崎区

 

 多摩川に沿って北西から南東に向かって多摩区高津区中原区幸区、川崎区と並び、麻生区多摩区の西側、宮前区は高津区の西側に位置する。

 

 北部は小田急が開発した地域で、新宿から小田急線で世田谷区成城を抜けて狛江市で多摩川を渡り、登戸向ヶ丘遊園がある辺りが多摩区だ。その先は麻生区新百合ヶ丘で、和光や玉川大学のある学園都市に続き、町田市相模大野に至る。

 だからオザケンはのちに“渋谷系の王子様”になるが、高校時代に都内に出るのは新宿だったんじゃないかと思う。紀伊國屋サンリオ文庫を万引きしたって言ってたし。

 私の住んでいた宮前区も位置的には北部に属するのだが、通っているのは田園都市線で、その意味では高津区などの中部から渋谷へと繋がっており、小田急沿線との交通はほぼ皆無である。ただ多摩丘陵に連なる坂の多いベッドタウンという風景は北部のそれなんじゃないかと思う。

 

 中部には2系統あり、どちらも渋谷に接続している。

 ひとつは渋谷から東横線で目黒区自由が丘などを通って中原区武蔵小杉、その先は日吉横浜にでる経路で、これは都内から横浜に向かう主動線になっているので、近隣住民以外にもよく知られたルートだと思う。

 もうひとつが渋谷から田園都市線二子玉川多摩川を渡り高津区溝ノ口、宮前区鷺沼に出る路線である。このルートはたまプラーザ長津田など横浜市青葉区緑区を経て大和市中央林間に至る。溝ノ口や梶ヶ谷のある高津区は赤羽や王子にちょっと似た感じだが、宮前区に入ってからは延々と住宅地が続く。こちらは住んでないとまず使わないだろう。

 

 武蔵小杉のある中原区の南、多摩川下流域が幸区と川崎区の川崎国、いわゆる川崎サウスサイドで、湾岸の工業地帯のイメージの川崎はこの辺りである。川崎駅の西口が幸区、東口が川崎区で、JR京浜東北線京急本線で蒲田、大森、品川といった東京の湾岸地域と接続している。

 

 これらの各地域を接続するのが、JR南武線で、北部では登戸、中部では溝ノ口と武蔵小杉、南部では川崎で私鉄と接続している。

 いまはラゾーナ川崎などの商業施設もあるので中原区辺りに住んでいたらわからないが、北部に住んでいたらまずサウスサイドに行くことはない。新宿や渋谷に出る方が全然楽だからである。サウスサイドの連中もまず川崎からは出ない。生活圏やアイデンティティという意味で、サウスサイドとそれ以外の地域にははっきりと距離があると思う。いわゆる川崎南北問題だ。

 

 スチャダラパーのアニとシンコは兄弟で、高津区の出身である。だからざっくりと言えば、『今夜はブギー・バック』は川崎ノースサイドの風景から生まれた曲と言ってもいいんじゃないかと思う。その風景というのは多摩川と郊外だ。

 

 私は世田谷から多摩川を渡って川崎ノースサイドに移り住んだが、宮前区はオザケンの北部以上になにもないところで、当時から小田急沿線に比べて東急沿線は開発が遅れていた。ひたすらに家が建っていた。

 世田谷も人間を飲み込み続ける東京から溢れた人口を収容することでできた土地で、似ているところもあるのだが、ただ時間の蓄積が違うので、まだ世田谷には風土と呼べる歴史があった。都心ではないが郊外でもなかった。

 その点、多摩川を超えると明らかに郊外なのである。均質に住宅が並び、それでも暮らしていけるのは都内へのアクセスがそこそこいいからで、この地域の人口を賄う産業も商業もなかった。生活圏を構成させる多様性がない、それがベッドタウンということであり、郊外ということである。宮前区には人口20万で高校は1つしかない。田舎というのも違う。寝に帰るだけなのである。横浜までいってしまえば、そこには東京とは別の生活圏があり、多摩川沿いは東京でも横浜でもない周縁が広がっていた。

 

 私は17歳で引っ越して、既に練馬区の高校に通っていたから、田園都市線で渋谷を経由して九段下に出て、そこから東西線高田馬場から西武新宿線に乗り換えるのが通学路になった。

 片道1時間以上かかるということより、帰っても何もないから都内で過ごす時間が多かった。音楽やると結構金がかかるんで新宿の余丁町にあるスーパーで働いた。宮前区にはバイトするようなところもなかった。ヴァージンメガストアレコファンでCDを毎月何万も買って、学祭とかに出るダサい真似はしなくて高円寺や西荻のライブハウスに出た。かと言って、将来ミュージシャンになるみたいなことも考えなかった。そこまで才能なかったし、そんなに頑張れないとわかっていた。なんとなくワイワイ過ごしているうちに高校生活が終わった。

 附属校だったんで、そのまま大学に進学した。大学は早稲田にあったんで西武新宿線に乗らなくてよくなった。バンドはなにかひと区切りついた気がして、あんまりやらなくなった。サークルに入ってまた1年生ですみたいな顔して始める気もなかった。仲間がそれぞれバラバラの学部に進学したせいもある。声をかけて集まるほどの執着があったわけでもなかった。周りはみんな高校のときにちゃんと勉強して受験に合格して入ってきて、これから大学生だというときに、こっちはもう4年目の気分で、まだやるのかこれからどうしようみたいな感じだった。

 Boogie wonderland という新歓しかしないサークルをつくって、横浜のデニーズに当時流行ったナタデココのブルーベリー味があるといって車で出かけて金がなくなって飯食わないでナタデココだけ喰って帰ったり、デスドライブとか言ってヘドバンしてたら事故ってパンバー凹ませたりしていた。

 相変わらずスーパーで働いて、閉店まで働くとその日に廃棄する分の寿司が貰えた。文学部のキャンパスに持って帰って、まだ残っている仲間と分けて喰った。大学の近くに下宿している級友の家に溜まったり、当時夏目坂にあったデニーズで15杯とかコーヒーをお替わりしながら12時間くらい時間を潰した。

 すべてが希薄だった。全部自覚していた。それでも過ごせたのは、そこそこに豊かで、モラトリウムというほど閉じてもいなかった。多少の息苦しさはあったが、息が詰まるというほどでもなかった。

 

 だから『今夜はブギー・バック』の気分は私にもあった。オザケンが“無気力”と呼び、スチャダラが“脱力”した希薄さが私にもあった。宮台の“終わりなき日常”を私も生きていた。なんでもそこそこで、すべてがなんとなくだった。

まぼろしの郊外―成熟社会を生きる若者たちの行方 (朝日文庫)

 一昨年に二階堂ふみ主演で映画化された岡崎京子の『リバーズエッジ』、あれも多分多摩川の河原なんじゃないかと勝手に思っている。岡崎は下北沢の出身だし。

 この作品に漂っていたのも渋谷とか新宿とかの区別なく、みんなが浸っていた空気だった。河畔の団地が舞台で、それぞれなんとなく付き合っていて、カンナが焼身自殺してもハルナが引っ越すときには観音崎と自然にバイバイできるくらいに、やはりみんな希薄だった。なにかに執着するということが、とても難しかった。それぞれがバイセクシャルや拒食症だったりしたが、踏み込むほどではなかった。スティーブン・キングの『スタンド・バイ・ミー』みたいな感じだった。21世紀の生きづらさを予言していたなんて言われたが、むしろあれは90年代そのものだったと思う。なんとなく、すべてが多摩川に収斂するような気がする。それは郊外の風景だった。

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

 私は17歳で多摩川を越えて川崎のベッドタウンで寝起きして、新宿界隈で時間を潰していた。田園都市線沿線に住んでいたのに渋谷系には属さなかった。IWGPのような強い身体性をもった地元というのはなくなっていた。高校から一緒に進学した連中と、その他に何人か大学で知り合い、かといって大学生というほどの存在ではなかった。大学に籍を置いてはいたが、フリーターのような希薄な存在だった。それでも生きていられたが、結局2年で大学を中退した。かっこよく言えば“終わりなき日常”を終わらせてみたくなったのかもしれないが、すべてはなんとなくだった。あと2年(よりかかったかもしれないが)務めて就職活動して…というのが途方もなく長い時間に思えた。ついでにスーパーも辞めた。

【東京地政学②】渋谷ストリート/ディヴィジョン/トライブ

 下北沢駅前と三軒茶屋駅前をつなぐのが茶沢通りで、歩くには遠いが電車や車という距離ではなく、つまりチャリンコの行動半径である。

 どこで生まれ育っても小中学生の生活圏など精々そんな範囲なんじゃないかとおもうが、中学から高校に進むあたりで様相が違ってくる。

 

 東京(その拡張概念としての首都圏)の地政学的理解にもっとも強い影響を与えるのは電車などの交通機関なんじゃないかとおもっている。もっと端的に言えば最寄り駅に何線が通っているかである。たぶん家選びとかをイメージしてもらえばわかるとおもう。

 実際の地理的物理的な距離より、地元の最寄り駅に何線が通っているかで、20歳くらいまでの行動範囲と所属するコミュニティが決まる、そんなイメージだ。

 

 私の場合で言うと、小学校までは下北沢、中学校では三軒茶屋が生活の中心だったことは前に述べた。これらは徒歩圏の北限と南限を成している。下北沢は小田急井の頭線三軒茶屋田園都市線新玉川線だったり半蔵門線だったりもするが)が通っている。

 どういうことかというと、下北沢からは渋谷井の頭線)と新宿小田急線)、三軒茶屋からは渋谷田園都市線)に出れる、というかそこから先には行かないのである。

 その先にある池袋とか恵比寿とかはもうかなり外部であり、ましてや上野とか品川とかはもう外国だし、蒲田とか言われてもどうやっていくのかも知らない、みたいな感じである。ついでに言えば文京区などの山手線内側は、ほぼなんのイメージもなかった。東京といえば、ふつうど真ん中を指す地域とほとんどなんの関わりもなかったのである。

 

 言い方を変えれば、この地域の出身者は“地元”から一段階拡張した共同体として渋谷か新宿のどちらか、もしくは両方に属することになるのである。私の世代の前後は渋谷が多かったように思う。そしてそれがなにで決まっていたかというと、ようは電車で出やすいところだったんだと思う。

 ただしこの新宿にしても渋谷にしても社会人になって属すような新宿“区”、渋谷“区”のようなパブリックな共同体ではなく、あくまで“地元”の外延である。この外延は交通機関を媒介として繋がっているので、面的な広がりではなくて、点と線である。

 たとえば新宿で屯っているのは新宿区から面的に拡大した近隣地域の住民ではなくて、中央線を経由して流れてくる国立や八王子の連中、渋谷だったら田園都市線で繋がっている川崎北部や、東横線で来る横浜の人間を含んでいる。

 ただ中核的なところでいうと近隣の中野区、杉並区、世田谷区(というか世田谷地域。中野区や杉並区の内部にも多分セクトがあるんだろうが、よく知らない)に住んでいる人間が占めていたと思うが、それも交通機関に依存するところが大きかったんじゃないかと思う。直線的な距離では豊島区や板橋区の連中の方が三鷹とかあの辺よりも近いはずなんだが、山手線に乗っても西武線に乗ってもようは池袋で降りちゃうだけなんだと思う。実際、私も池袋とか板橋とかに住んでたときがあって、そのときは新宿にほとんど出なくなった。

 都下でも近場に繁華街があれば、例えば中央線近辺だと吉祥寺に集まる連中も相当いたはずで、じゃあ新宿渋谷まで出てくる動機は何かというと、その辺は街の持ってる求心力だったり、通ってる高校が都心だったりという要因が個別に多分ある。あと結構中学までだと地元でイマイチ冴えなかったから、しがらみのないとこに出るみたいなのもあったかも。

 

 私は昭和49年の生まれで、ちょうど中学最後の年で昭和が終わり、高校に進学したのが平成2年ということになる。昭和64年は1週間しかなかった。歴史的にはバブルが弾けた年でもあるはずだが、バブルは弾けたあとでないとバブルだったと認識されないので、当時はまだ好景気の中にいる感覚だったんじゃないかと思う。アメリカではブッシュ(パパの方)が大統領になった。

 

 昭和天皇崩御して大喪の礼が明けると、6月に天安門事件があり、ポーランドで自由選挙が行われて、その後あっという間にハンガリーブルガリアチェコスロバキアで一連の東欧革命が起きて、11月にはベルリンの壁が崩壊した。12月にはブッシュとゴルバチョフ冷戦終結宣言を出して、ルーマニアでも革命が起き、あっという間にチャウシェスクが処刑されて、頭を撃ち抜かれて転がってる映像が配信されたのは衝撃的だった。

 当時中学生の自分が一連の世相をなんのことだかわかっていたわけではないが、それまで濃厚な冷戦の空気に育ってきたわけで、ともかく世界が一変したことはなんとなく感じた。

 

 だから高校生になるのと平成が始まるのは体感としてはほぼ同時で、なんとなくは時代の変わり目という感覚もあった。平成最初の10年というのは20世紀最後のディケイドでもあり、どちらかというと末法的というか世紀末的な不透明感の方が強かった。その頃の東京近辺のティーンエイジャーにとって存在感が大きかったのは新宿よりも渋谷の方だったと思う。

 コギャルとかエンコーとかいう言葉ができたのはこの頃で、まだ携帯はなくて専らポケベルと公衆電話で連絡を取り合い、ダイヤルQ2テレクラが流行った時代だった。宮台真司が大活躍した時代ですね。

 まだ携帯はなかったが、ポケベルは10代の行動半径を劇的に拡張した。というか、それまでは家にいないと連絡をとる手段がなかったし、あとは近所の溜まり場にいて、なんとなく集まってくる人間といるしかなかった。私が中学のときの溜まり場は稲荷神社だった。それが外で動きながら連絡を取り合う、いまとなっては当たり前の日常だが、そういうことが可能になった。10代のガキにそんなものを持たせたら帰らなくなるに決まっているのである。

 

 そういうスタイルがハマっていたのが渋谷で、当時流行したアメカジB系みたいなストリート系サブカルチャーとニコイチの関係だったと思う。

 ストリート系サブカルチャーの前史としては渋谷に隣接する原宿が80年代に竹下通り全盛期を経てプライベート系アパレルブランドの集積地になっていたことが影響していると思う。

 竹下通りはお上りさんを集める観光地に近くなってしまったが、いわゆる裏原は00年代以降にファッショントレンドの発信地として繁華街のセンター街や109近辺を補完する位置として再構成されたように思う。

 

 その頃のストリートという言葉が表象していたのは、路上に屯っているみたいなアウトロー的なニュアンスもあるのだが、それ以上に出身中学や地元のような地縁的属性が解体されて「みんなストリートに属している(つまり地縁に属していない)」ということでもあった。ただしストリートに属するには電車に乗って移動するだけでは難しくて、やはり地元の先輩後輩とかそこから拡張される人間関係を媒介していたので、完全に自由だったわけではない。ただそこの人間関係を拡張していくみたいなところに関してはポケベルはいまでいうSNSのような絶大な影響を与えた。

 ポケベルとテレクラが、10代の少年少女(他には専業主婦というのもあった)のような狭い世間で生きてきた人間に、突然見ず知らずの人間とバンバン繋がる環境を無秩序に提供した。

 

 そういうスタイルに対する親和性が最も高かったのが渋谷だったんだと思う。新宿のストリートだと歌舞伎町になっちゃって、やはり10 代の若者を引き寄せるにはキラキラ感が足りなかったし、端的に言ってヤクザとの距離が近過ぎた。その点、原宿や青山といったファッショントレンドの発信地と隣接した渋谷の方が魅力的だったし、10代は渋谷、20代は青山、その先は麻布、六本木とストリートを辿っていくステージがあり、新宿にはそれがなかったと思う。新宿はどっちかというと『凶気の桜』のイメージが近い。それはいまでもあんまり変わらないと思う。

 だからストリートがさまざまな地元を内包していたとはいえ、その内部には厳然たるヒエラルキーがあって、その頂点は都内の私立附属高校に通う男女だった。慶應、青学、明学なんかの附属校に通っている高校生は、やはり八王子から来る奴よりずっとオシャレで金もあったし、先輩後輩の人間関係も豊かで、受験もなく大学生になることもみえていたので余裕があった。

 で、この辺の連中がどこに住んでいるかというと、それは世田谷、杉並、中野区なのである。彼らは当時流行していたストリート系ファッション誌の読者モデルなんかをやっていて、この読モがストリートの頂点だったし、90年代に流行したチームもその中核メンバーは彼らだった。

 私立高校に進学すると都外も含めていろんな地域から生徒が集まるので、結構人間関係が広がる。そういうのを辿って渋谷や新宿に出るのである。

 私は都立高校に行きたかったんだが内申点が足りなくて第一志望から外した。当時は住んでる学区で受験できる学校が限られていて、私の住む世田谷は第2学区に属して、たとえば戸山、青山、新宿、駒場なんかの都立高があった。当時は都立か私立かでも結構違ったと思う。生徒の多くが近隣の学区内から集まっているので、私立高よりは地縁的結合が強かったと思う。

 

 この辺の、パブリックなものでもなく、“地元”という地縁的原理を再構成して存在する東京のローカルな亜共同性のようなものは、たとえばいまでいうと『ヒプノシスマイク』の“ディヴィジョン”だったりとか、園子温の『東京TRIBE』の“トライブ”だったりとか、大分誇張されているとはいえ、雰囲気はわりとよく描写できているように思う。

 

 ディヴィジョンが地域的な面の共同性に、トライブが先輩後輩のような人的関係に注目した命名だったとして、でも案外内実は住んでいるところからの交通網のアクセスだったり、通っている高校への通学路だったり、そういうものが結合の横糸になっていたりする。

 ついでにいえばカラーギャングというのは池袋の連中のことで、暴走族やチームや愚連隊のようなものと違って、固有名詞というか池袋ローカルな存在だったと思う。当時カラギャンは池袋にいるとしか認識していなかったから疎遠な存在だったし、だからIWGP(『池袋ウエストゲートパーク』も完全に池袋の物語として観ていた。ただしカラギャンを構成していたのは豊島区住民だけではなくて、埼京線沿線の埼玉県民とか西武線沿線の板橋区民とか、そういうのも含んでいたんじゃないかとは思う。

 

 だから亜共同体のアイコンとしての地名と、それが包含する人間の居住地は面としては重ならない。そこが“地元”との違いであり、亜共同体の中核になる無数の繁華街を抱え、複雑な交通網を発達させた東京独特の構造なんじゃないかと思う。

 

 で、ここまで知ったふうに書いているが、私自身はこの渋谷を中心としたストリート系サブカルチャーには全然属していなかった。全部あとから宮台真司などから教わったことである。それも大分後になってからのことで、この当時は中沢新一とかコリン・ウィルソンなんかにかぶれていた。

 

 地理的には凄く近かったにも関わらず、私が渋谷のカルチャーから外れた理由はいくつかあるが、ひとつは中学3年のときにSEX PISTOLS を聴いて、いわば転向したからである。その頃の私にとってのアウトローのアイコンはB系ではなくてロンドンパンク、というかジョン・ライドンマルコム・マクラレ一択だったのである。

 パンクスはもともと暴走族ともB系とも相性が悪いが、それでも西海岸系だったらよかったんだがロンドンパンクはすでに完全に流行から外れていた。そこからニューウェーブとかにいっちゃったんで、これは完全に渋谷から外れて新宿や高田馬場の古レコード屋のワゴンを漁るコースだし、実際そうなった。もはやそれはアウトローではなくて、いまでいえばアキバのオタクに近いコースだった。

 

 思い返せば私が完全な世田谷地域出身ではなくてアイデンティティの6割くらいが下北沢にあったことが影響していたと思う。いまでこそ大分オシャレな街らしいが、私のいた頃の下北沢は本多劇場や屋根裏(ライブハウス )なんかがあるサブカルチャーの街で古レコード屋が一杯あって、ロックやブルースやジャズ、フォークなんかが似合う街で、その意味でも新宿のカルチャーに連なっていた。いまでいうと中野に近いだろう。

 一方、三軒茶屋は渋谷の影響をもろに受けるんで、たとえば三軒茶屋愚連隊の出身者がそのまま妄想族というヒップホップグループになっていったりした。当時の私はヒップホップをまったく通過しなかった。

 

 受験が終わって暇になってからギターを買い、そこからは1日12時間くらい弾く日もあった。楽器は金がかかるので単車にも乗らなかった。

 私も一応私立の付属高校に進学したんで、もうちょっとキラキラしていてもよかったはずなんだが、その高校は練馬の石神井というところにある男子校で、1学年600人で周りにはなにもなく、男ばかり1800人も校舎に詰め込まれてネリカン(練馬鑑別所)と自称していた。

 西武新宿線だったので、必然的に出る先は新宿か高田馬場になる。というか、登校時に学校に行くのが面倒になって途中で降りて新宿か高田馬場で過ごすこともしばしばあった。

 

 世田谷区から練馬の私立高に進学したことで地元とは疎遠になった。高校で知り合った似たようなオタクたちとバンドを組んで、ライブをするのは専ら高円寺や西荻などの中央線沿線で、住んでいるのは世田谷、高校は練馬だったが、所属はやはり新宿だったんだと思う。少なくとも渋谷ではまったくなかった。

 

 そして高校2年、17歳のときに川崎市に引っ越して、これで完全に世田谷とは疎遠になった。当時わりと父の仕事がうまくいっていた時期で、代田の住居をもうそろそろ出てくれと言われたタイミングで、じゃあマンション買うかみたいな感じで、多摩川を超えて川崎市宮前区に移った。

 この宮前区も世田谷に似たような風景で、同じく坂が多く、やはりもともと農家だった一軒家とマンションが混在していた。いわゆるベッドタウンである。ただ世田谷地域よりはずっと郊外に位置するので、はるかに整然としているというか、住宅以外なにもなかった。

 渋谷と田園都市線二子玉川などを経由して繋がっていて、湾岸のいわゆる工業地帯の川崎とは全然違った。川崎は北部と南部でまるで違う風土をもつ街で、私が住んだのは小沢健二を生んだ川崎ノーザンソウルの川崎で、一般に川崎だと思われているのは川崎サウスサイドである。

 サウスサイドは川崎国と自称するようにほぼ孤立していて、田園都市線溝の口の一点で南武線を介して交わるだけである。区で言うと川崎区幸区である。幸区の人間は異論があるかもしれないが。

 溝の口は川崎国との関所というか国境だった。少なくともこちら側には国境を超える動機はまったくなく、渋谷は地続きでも同じ川崎市のはずの南部は完全に修羅の国だと思っていたし、そのイメージは多摩川の対岸に住んでいたときからすでにあった。幸いなことに修羅たちは川崎国から出てくることはまずないので、こちらから越境しない限り無縁でいられた。

 

 私が移り住んだ川崎北部の風土は、だから東京のベッドタウンという点と、渋谷に田園都市線で繋がっている点と、2つの地政学的要素から、多摩川を挟んだ対岸の世田谷区によく似ていた。