勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

ガルマ・ザビは坊やだから死んだのか?vol.2

 宇宙世紀に生きる者なら誰でも一度は抱く疑問にガチンコで挑む不定期連載企画【謎解きジオン】。第2回は「ガルマ・ザビは坊やだから死んだのか?」です。

「老いてから子なぞつくるものではない」(デギン・ソド・ザビ

 ガルマ・ザビの正確な生年は伝わっていないが、戦没時に20歳とすれば宇宙世紀0059年か0058年の生まれとなる。ここでは0058年として話を進めたい。ガルマ・ザビ士官学校を主席で卒業したという史料があり、これが事実とすれば戦時特例で繰り上げ卒業させるにしても0059年の生まれだと20歳にも届かない計算で士官としては若過ぎると思われるからだ。ガルマ・ザビと同期で士官学校次席でもあったシャア・アズナブルは開戦時に少尉として1週間戦争に従軍しているから0079年中の任官はあり得ないので、卒業は0078年のはずであり、生年は宇宙世紀0058年、享年を20歳とすると10月5日以降の生まれということになる。

 このガルマ・ザビが生まれた宇宙世紀0058年はジオン・ズム・ダイクンが共和国宣言を発し、スペースノイド自治権獲得あるいは独立へと踏み出した画期にあたり(これを第一次革命とする)、当時ジオン・ズム・ダイクンはムンゾ(サイド3)共和国首相として行政の長の地位にあり、側近のデギン・ソド・ザビは議長として立法府の長の立場にあった。

 ここからダイクンが変死する宇宙世紀0068年までの10年間は地球連邦による経済封鎖や軍事的圧力によって、連邦内部での自治権獲得というダイクンの政治目標と、連邦からの独立というデギンの意図が徐々に乖離していく過程でもあった。この期間のザビ家はドズル以下の兄妹たちはまだ幼く、長男のギレン・ザビが15〜25歳で、生年不詳ながら次男のサスロ・ザビとともに父デギンの政治活動の補佐を始めたあたりになる。

 そして0068年のダイクン死去によってザビ家はラル家を始めとするダイクン派との政争に突入し、翌0069年の公王制施行と公国宣言(第二次革命)に至ってサイド3の権力を掌握する。

 この政争の発端は国民運動部長だったサスロ・ザビの暗殺であり、既に長男と次男はデギンの側近として活躍していた。18歳になっていたドズルも0062年に共和国防衛隊から国軍へと拡大された国防軍(公国軍)に入営し、軍人のキャリアを歩み始め、キシリアは若干14歳ながら、公職についた兄たちの穴を埋める形で保安隊などザビ家の私兵的組織を統括するようになっていたらしい(安彦説による)。そして0069年以降はロイヤルファミリーの一員として、それぞれが要職を担っていくことになるわけだが、このガルマとの数年の年齢差がザビ家内における地位、あるいは国民へ与える印象に影響したと考えられる。

 宇宙世紀0069年の第二次革命時にガルマ・ザビは11歳。第一次革命からラル家との政争に至る10年間は年端もいかない子どもであり、その意味でザビ家がサイド3の実権を掌握する権力闘争は経験していない。いわばガルマ・ザビは生まれながらのプリンスであって、ザビ家の闘争過程を身を持って経験した他の兄妹とは生育環境が異なる。これはガルマ・ザビにとっては大きな心理的負担であったと考えられる。

 ガルマが物心ついた時点でザビ家は特権階級であり、また正妻の唯一の子でもあったガルマは、ある意味自らを証明する必要がないのに対して、他の兄妹は自分の能力を証明することによってザビ家内部の地位をそれぞれ確立してきたのである。本質的に保守的なデギン公を家長としていても、革命政権の中枢であるザビ家は非常に能力主義的な家風でもある。その点でザビ家の権力確立になんら貢献していないガルマに焦燥感のような感情があっても不思議ではない。

 ガルマ・ザビの4つ違いの姉であるキシリア・ザビも、そういう意味では出遅れによる焦燥感に駆られていたようにみえる。ギレン・ザビと同母という仮説が正しいとすれば、キシリアとギレンの政治的立場の違いは11歳の年齢差にある。長じれば僅かな差かもしれないが、ザビ家が権力を掌握する過程で15〜25歳だったギレンと4〜14歳だったキシリアの実績の差は大きい。ギレン・ザビが政治家、ドズル・ザビが軍人としてキャリアを積んでいったのに対して、キシリア・ザビが諜報分野を選んだのは、ザビ家が権力を拡大していく過程で生まれた闇部を継承することで他の兄弟とは異なる独特な立場をザビ家のなかで確立しようとしたのではないか。

 そのような同じ出遅れ組として、また年齢がいちばん近い姉弟として、キシリアはザビ家でガルマと最も濃い関係にあり、またよく知られているようにガルマ自身もつねに姉の視線を意識していた。軍組織においてもガルマ大佐は突撃機動軍所属で、司令であるキシリア少将の部下にあたる。

 一年戦争時には公国の実質的指導者だったギレン・ザビを明確に政敵として意識していたキシリアにとって、デギン公王の後継者と目されるガルマは重要なカードの一枚だったはずだ。のちにシャア・アズナブルキャスバル・レム・ダイクンだと判明したときに、ダイクンの遺児を政治的カードとして懐柔しようとした発想とよく似ている。恐らく実権はともかくとして、政治家や軍人としての華々しい実績に欠ける自分が国民統合のシンボルにはなりにくいことを自覚していたのではないだろうか。

 似たような思考でギレン・ザビも周囲がガルマをデギン公の後継者と認識するのを黙認していたと考えられる。ギレン・ザビの権力はいわば地球連邦からの独立を政治目標とした例外状況における委任独裁として正当化され、また国民から支持されていた。0069年の公国宣言以降、急激に政治への関心を喪っていくデギン公に替わり、連邦の圧力に屈せずジオン公国の国力を拡大していったのはギレン総帥の卓越した手腕に負うところが大きい。それは国民の支持の源泉だったはずだ。しかしそれはあくまで独立という目標に対する例外状況であって、国民もギレン総帥による権威主義的な体制が永続することを望んでいた訳ではないだろうし、ギレン総帥もそこを敢えて曖昧にすることで自分の権力に対する大衆的支持を維持しようと考えていた、そのためにはガルマ・ザビデギン公王の後継者と期待されている方が都合がよかったのではないだろうか。

 実際のところ、ギレン総帥が戦後の体制をどのように構想していたかは当人が戦死してしまったので分からないものの、公国貴族トト家の養子に入り、第一次ネオジオン戦争ハマーン・カーンに叛乱を起こしたグレミーは実はギレン・ザビのクローンとも言われており、最終的にはザビ家をも解体してギレ自身のクローンによる永続的な完全独裁というラディカルな体制を考えていたとも言われている。全ては歴史のifに属することである。

 このようにギレン総帥もキシリアも国民からの支持という点ではネガティブなイメージが付き纏うのに対して、ガルマ・ザビデギン公の寵愛を受け、正妻ナルスの唯一の子であり、また革命や政争に纏わる暗い過去もない、理想的な後継者たりうる条件を備えていた。違う表現をすれば、ガルマの出遅れは当人の意志と関わりないところで、国民統合のシンボルとしての公王の条件にポジティブに働いており、それは当時の状況では周囲の思惑にも合致していたのではないだろうか。

 のちにデギン公はガルマ・ザビが暁の蜂起事件で連邦駐屯軍と交戦した際にその身を案じて「おまえは学者にでもすればよかった…」「老いてから子なぞつくるものではない」と嘆いた。老練な政治家だったデギン公には、ガルマが兄妹たちに対する出遅れを挽回すべく気負えば気負うほど、周囲の思惑に乗せられていくことが予見できていたのだろう。またそれが理解できないガルマであるが故に余計に愛おしくもあったのだろうと思う。そしてそういうデギン公の感情が、国葬におけるギレン総帥らとの確執に繋がっていく。

 

vol.3に続く

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