勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく⑥

 以上、前稿で概観したように義元公の家督相続を巡っては不可解な点が多い。筆者なりに論点を列挙すると、以下のようになる。

 

①氏輝はなぜ死んだのか?

②彦五郎とは何者だったのか?

③なぜ寿桂尼は恵探を支持したのか?

④なぜ義元公は駿相同盟を破棄したのか?

 

 これらの疑問を検討することで、戦国大名今川義元がなぜ生まれたのかを理解することができるのではないかと考えている。

 無論、ここから先は状況証拠からの筆者の推理というか妄想に近い内容で、史料等の裏付けは何もない。その前提で読み流してもらえればと思う。

 

仮説①親北条派と親武田派の対立

 まず氏輝の在世当時、今川氏内部には親北条派と親武田派があったのではないかというのが第一の仮説。

 

 北条氏は氏親の外戚伊勢宗瑞を祖として二代目氏綱は氏親の従兄弟、その嫡男の氏康寿桂尼の娘瑞渓院正室に迎えて氏輝と氏康は義兄弟にあたり、両家は二重の姻戚関係によって結ばれていたから、主流は圧倒的に親北条派だったろう。氏輝の治世まではあくまで親武田派は少数若しくは潜在的だったはずである。

 

 今川氏と武田氏とは永正18年/大永元年(1521年)に福島氏を主力とする今川軍が甲斐に侵攻した福島乱入事件が起きて以来、対立関係になっていた。

 福島氏は義元公と跡目を争った玄広恵探の生母の実家である。武田信虎によって撃退された福島氏は甚大な損害を被り、恐らくその後今川家臣団中で反武田の急先鋒となったのはこの福島氏だったろう。

 また北条氏も宗瑞時代に武田氏と国境紛争を起こして対立し、武田氏は氏綱の攻勢にさらされていた扇谷上杉氏と同盟して北条氏に対抗していた。

 関東情勢を取り巻くかなり大きな枠組みの中で武田氏は政治的に反北条方に属していたのだが、いわゆる新興勢力だった北条氏には姻戚であり名目上は主筋にあたる今川氏くらいしか味方がいなかったとも言える。

 

 つまり内部には武田氏に怨恨をもつ福島氏が、外部では盟友北条氏が 関東政局を巡って武田氏と対立していた。

 氏親の晩年から氏輝の治世まで後見を務めていた寿桂尼は前代の基本政策を踏襲していたので、自ずと今川氏の外交戦略が親北条=反武田に傾くのは必然だった。

 

 しかし武田氏との紛争が今川氏の領国運営上どれだけ益するところがあったかというと大いに疑問が残る。

 福島氏を中心とした内部の反武田感情と、盟友北条氏との共闘関係という要素を除けば、寒冷な山国で甲斐源氏宗家の武田氏でも統治に苦労するほど国人が割拠していた難国甲斐に領土的旨味はなかったはずである。したがって氏親・氏輝の2代にわたる武田氏との紛争は、駿相同盟に基づく側面支援の意味合いが強かったと思われる。

 

 しかし斯波氏との抗争を制して遠江を領国化した今川氏は、本来であればそのまま三河へと攻勢に出て温暖な東海道沿いに領国を拡大していくのが合理性的な戦略だったと考えられる。そのためには実利に乏しい武田氏との紛争は足枷でしかない。当時の今川家中でもそう考える勢力はいたはずである。

 しかし当主氏輝と後見寿桂尼の連立政権のようになっていた当時の今川氏主流派は、そのような積極的な戦略をとることもなく、氏親時代の路線を踏襲した消極的な政権運営に留まっていた。

 

 つまり、もし氏輝の変死が他殺、謀殺の類だとしたら、それは消極的な政権運営に不満をもっていた勢力、親武田へと政策転換して西方に進出すべきと考えていた勢力によるクーデターだったと考えるのである。

 

仮説②彦五郎は氏輝の同母弟だった

 氏輝と同日同時に死亡したと伝わる謎の人物、今川彦五郎については、さまざまな史家、作家が推測をしているが、如何せん死んだということ以外まるで伝わっていないので、なにか新しい史料でも発見されない限り、真相は闇の中である。

 

 わかっているのは彦五郎という通称だけだが、今川氏嫡男の通称は初代範国以来五郎が慣例である。義元の曽祖父範忠、祖父義忠の親子が彦五郎を名乗っていたが、五郎と彦五郎のあいだにどういう違いがあったのかはよくわからない。

 他にも伝わっていない彦五郎がいたのかもしれないが、範忠と義忠の前例を鑑みれば、「彦五郎」が五郎に準じて今川氏嫡男の通称だったことは確実である(逆に言えばそれ以外の者が名乗ることは憚られたはずである)。

 氏輝に子がなかったとする所伝を信じるなら、氏輝と同時に死んだ彦五郎を名乗る人物は、氏親の正室寿桂尼の次男であり、氏輝に万一のことがあった場合には家督継承候補第1位となる嫡弟という推測が許されるだろう。

 

 個人的に面白いと思っているのは、皆川博子『戦国幻野』の彦五郎は氏輝の双子の弟だったという設定である。如何にも小説家的な発想ではあるが、確かに双子は当時不吉とされていたので、もし彦五郎が氏輝の双子の弟なら表に出ることもなく、にも関わらず家督継承候補第1位だったというのも一応説明がつく。

 

 双子かどうかはともかく、シンプルな説明をすれば、彦五郎が氏輝とともに殺されたのは首謀者が家督継承候補第2位以下の者だったからである。もし第2位以下の候補が家督奪取を目的としていたなら、殺害するのは当主だけではなく、自分より上位の候補すべてでなければならない。

 

 となると、必然的に容疑者は三男の玄広恵探か五男の栴岳承芳(義元公)となる(氏親には四男に象耳泉奘という息子もいたが、早くから京都で僧となり駿河の政局には登場しない)。

  そして正当な家督継承者だった彦五郎に関する記録が今川氏内部に残らなかったのは、それがのちに隠匿・抹消されたから以外に考えにくい。それが可能なのは氏輝の跡目を継いで政権を奪取した者だけであろう。

 

 要するに、氏輝・彦五郎弑逆の首謀者は栴岳承芳、のちの今川義元公その人だというのが筆者の推論である。

 もっとも承芳は当時まだ18歳で、単独で実兄を謀殺した主犯とするにはいくらなんでも若すぎる。恐らく師の太原崇孚雪斎がブレーンとして画策したか、あるいは雪斎こそが首謀者だった可能性もある。この師弟は思考がほぼ同じなので、どちらが主なのか渾然としてわからないところがあるが、少なくともこの時点ではまだ若く家督も継いでいない承芳よりも、既に不惑を迎えていた雪斎の方が主体だったと考える方が自然ではある。

 

 そしてもし彦五郎が寿桂尼の実子だったという仮定が許されるならば、寿桂尼がなぜ承芳ではなく恵探を支持したのかも、ある程度説明がつくと考えているが、また大分長くなったので続きは次稿に譲る。

 

(続)

 

戦国幻野―新・今川記 (講談社文庫)

 

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