勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく②

 さて、まだ義元公は登場しないのだが、我らが今川氏草創の話に移る。

 

 承久の乱ののち、守護として三河に地歩を得た足利義氏は同国内に一族を扶植していき、三河は本貫地の下野足利庄と並ぶ足利氏の地盤となっていく。その三河足利党の頭領とでも呼ぶべき存在が、義氏の庶長子、長氏の吉良氏である。

 

 この吉良長氏が晩年に吉良庄から分かれた今川庄を隠居所として、その今川庄を二男の国氏が相続して今川四郎を名乗ったのが今川氏の発祥である。東海の雄、今川氏も草創期は僅か3ヶ村の地頭として始まったのである。

 

霜月騒動

 その今川四郎国氏の跡を継いだ基氏が弘安8年(1285年)の霜月騒動で功を立てて遠江引間荘の地頭職を得て今川氏は遠江にも進出する。

 霜月騒動鎌倉幕府の有力御家人である安達泰盛と北条得宗家の内管領平頼綱の抗争事件だが、宗家の足利氏や本家筋の吉良満氏(長氏の子)が安達方に与党(満氏はこの戦いで戦死)しているのに対して、今川氏は独自路線をとって得宗家方に与して勢力を拡大したのである。

 この抗争の結果として鎌倉幕府の有力御家人の勢力が後退し、得宗専制と呼ばれる時代に入るわけだが、吉良氏の分家に過ぎなかった今川氏は得宗家の被官と化することで、はやくも本家吉良氏から独立した勢力となっていく。

 

足利一族随一の武闘派

 その半世紀後の元弘3年(1333年)、討幕に決起した後醍醐天皇方の楠木正成追討の幕命を帯びた足利尊氏三河に滞在した際、吉良貞義霜月騒動で戦死した満氏の子)は朝廷方に立つことを進言、尊氏はもとからそうするつもりだったらしいが、それが駄目押しとなって以後討幕へと邁進していく。

 恐らくこれが吉良氏が歴史を動かした最初で最後の瞬間だろう。今川氏もこれに同調し、以後足利尊氏とともに各地を転戦していくことになる。吉良氏の活躍はその後ない。

 

 建武2年(1335年)に最後の得宗北条高時の遺児、時行が幕府再興を企画して挙兵した中先代の乱では、今川氏は当主頼国(基氏の子)、その弟の範満、頼周と5人兄弟の内3人が戦死する凄惨な奮闘をみせ、その恩賞として頼国の遺児頼貞が丹後・但馬・因幡守護職、生き残った弟の範国駿河遠江守護職に補任された。ちなみに吉良氏が信濃の北条氏残党の鎮圧に失敗したのがそもそも中先代の乱のきっかけである。

 

 本来の嫡流である頼貞の系統(四郎系)はその後消息が途絶えるが、範国の系統(五郎系)は、範氏(範国の子)が尊氏と弟直義が対立した観応の擾乱で尊氏方に与党して駿河守護職を継承し、以後五郎系今川氏駿河守護を代々世襲して嫡流となっていった。

 余談だが吉良氏は観応の擾乱では直義方に属し、直義死後もその養子直冬や南朝方とともに北朝方に対抗していくが結局降伏しており、つねに勝ち馬に乗り続けた今川氏とは対照的に、いつも外れを引いている。

 こうして時系列で俯瞰すると、今川氏は草創当初から足利一族のなかでも武功で抜きん出た武闘派集団でありながら、冷静な情勢判断で確実に勝つ方に与することで勢力を拡大してきたことがわかる。

 

五郎系は文武両道のインテリ一族

 今川範国は歌道や有職故実に優れ、将軍家の儀式指南なども務めたとされるが、四郎系ではゴリゴリの武闘派だった今川氏は、範国の五郎系が嫡流になると文武両道の家風を具えるようになる。

 

 その象徴的存在が範国の二男、今川了俊こと貞世である。駿河守護職は兄範氏に継承されたが、武将としての活躍は了俊が遥かに勝る。

 

 山城守護職侍所頭人引付頭人などの幕府要職を歴任したあと、観応の擾乱以後激化した九州での南朝との抗争を指揮すべく九州探題に抜擢され、25年間の在任のあいだに南北合一を果たして九州を平定した。

 歌人、学者としても活動し歌論集や紀行文が伝わるインテリでもある。晩年は失脚して甥で嫡流の泰範に駿河半国を取り上げられ、遠江半国の守護として不遇の時期を過ごした。その間『難太平記』などの著作を残し、今川一族や自身の功績を後世に伝えている。南北朝期を代表する文武両道の武人でありながら今ひとつ名将感に欠けるのは、この愚痴っぽい不遇な晩年の印象によるのかもしれない。

 

 了俊の陰に隠れて存在感のなかった兄範氏だが、その跡は泰範範政と引き継がれる。

 範氏の孫、範政は和歌や書に優れて『源氏物語提要』などの著作もある五郎系今川氏の家風を受け継ぐインテリ大名だが、関東で勃発した上杉禅秀の乱(1416年)を鎮圧した功で副将軍に任ぜられた武人でもあった。

 

 戦国期、今川氏は公家との交流を盛んにして京風文化を奨励したことで今川文化と称される文化運動の中心になり、その本拠地駿府小京都と称された。

 義元公が桶狭間で圧倒的優勢の状況から大逆転負けを喫し、その跡を継いだ氏真が父の仇も討たずに家を滅ぼして蹴鞠に興じていた伝承などが流布したことで、今川氏というと文弱な印象を伝わってしまった。

 だがしかし、本来は坂東武者の気風を残す武断的な兵の家であり、五郎系初代範国から文武両道の家風を志すようになったというのが正しい理解である。

 

 範政以後の今川氏は関東情勢の悪化に伴い、幕閣として京都で活動するよりも、駿河に在国して関東に対する室町幕府の最前線を担う存在になっていく。

 

関東最前線

 観応の擾乱南北朝の乱と草創期から内乱の絶えなかった室町幕府は京都に本拠地を置かざるを得ず、本来の武家の根拠地である関東には足利一族から関東公方家を立てて独自に統治させる方針をとった。

 関東公方はその地位を幕府の干渉を受けることなく世襲し、管領や政所など独自の統治機関を備え、関八州と伊豆、越後の10ヶ国を任国として守護の任免や叙位任官の推薦権など独立した権限を有していた。

 元来、関東の武士は畿内を中心とする西国に対して独立心が強く、関東公方もなにかにつけて室町将軍家と対抗していた。地政学的にみれば駿河は関東に対して室町幕府の最前線に位置しており、特に上杉禅秀の乱関東公方の求心力が低下して以降、駿河守護である今川氏は治安の悪化した関東への監視役として、また幕府が武力介入する際の主力部隊という機能を期待されていたのである。

 

 この当時、各国の守護は京都に在住し任国の統治は専ら守護代以下の在地家人が請け負っていたが、この下請け構造が戦国時代の下克上の風土を醸成していった。ちょっと想像すればわかるが、守護はほとんど任国にいないわけだから、在地の実権は守護代が掌握してしまうのは当たり前である。

 

 関東の情勢悪化に伴って、駿河今川氏を始め、甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏など、関東と国境を接する国の守護は在国が認められた。これにより今川氏、武田氏などは任国を直接統治して在地に実権を奪われる事なく、他の守護大名が下克上で没落していくなか、戦国大名へと転換していく可能性が開かれたのである。

 

天下一苗字

 

 範政の子、範忠は廃嫡されかかったところを幕府の裁定で跡目を継いだ経緯もあり、副将軍と呼ばれた父以上に幕府のために働いて、永享の乱結城合戦といった関東の抗争で武功を挙げた。

 この功績によって、以後同族庶流に今川姓を用いることを禁じ、範忠の子孫のみが今川の名乗りを許される天下一苗字(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、五郎系今川氏が宗家となることが事実上公認された。

 在国となったことにより幕府中枢からは遠ざかったが、範政と範忠の2代にわたって関東への武力介入を行い、強力な分国支配を確立したことがのちの戦国大名今川氏を生んだと言える。

 

とりま今川氏まとめ

 ①足利一門でも別格の吉良氏の分家

②足利一門随一の武闘派で、幕府草創期の功臣

③五郎系が嫡流になって以降、文武両道の家風

④関東最前線の在国守護として強固な地盤

⑤今川を名乗るのが許されるのは五郎系今川だけ

 

 ただ単に家柄がいいだけではなく、鎌倉幕府末期から南北朝期の内乱まで数々の軍事的な成功を収め、巧みに情勢を読みながら繁栄してきた優等生氏族、それが今川氏なのである。

 

(続)

 

銅像設置決定!今川義元公の銅像をみんなと一緒につくりたい! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

 

今川義元とその時代 (戦国大名の新研究)