勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

今川義元

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく⑥

以上、前稿で概観したように義元公の家督相続を巡っては不可解な点が多い。筆者なりに論点を列挙すると、以下のようになる。 ①氏輝はなぜ死んだのか? ②彦五郎とは何者だったのか? ③なぜ寿桂尼は恵探を支持したのか? ④なぜ義元公は駿相同盟を破棄したのか…

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく⑤

いよいよもって鼻息荒く義元公の治績を語りたいところだが、氏親没後に家督を継いだのは同母兄の嫡男氏輝である。 義元公は氏親の五男として生まれ、父の生前、まだ4歳のときにに臨済宗善徳寺で九英承菊(のちの太原崇孚雪斎)の弟子となり栴岳承芳と名乗っ…

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく④

さて、今川義忠が遠江での抗争で戦死した文明8年(1476年)には、まだ龍王丸の幼名を名乗っていた氏親は3歳(5歳説もある)で家督を継ぐには幼すぎた。このため、朝比奈氏や三浦氏といった譜代家臣が今川氏庶流の小鹿範満を擁立し、駿河守護の座を龍王丸派と…

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく③

①が長くなってしまったが、義元公のいいところをドンドン挙げていく。多分、また長くなる。 父親と大叔父がえらい 父親は範政の曾孫にあたる今川氏親、大叔父とは氏親の母、北川殿の弟である北条早雲こと伊勢新九郎盛時である。 北条早雲は関東の覇者北条氏…

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく②

さて、まだ義元公は登場しないのだが、我らが今川氏草創の話に移る。 承久の乱ののち、守護として三河に地歩を得た足利義氏は同国内に一族を扶植していき、三河は本貫地の下野足利庄と並ぶ足利氏の地盤となっていく。その三河足利党の頭領とでも呼ぶべき存在…

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく①

まず家柄がいい。 御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ つまり今川氏は足利将軍家の継承権を有する一族ということである。これは天文22(1553)年『今川記』記載の記事だが、なにか室町幕府にそういう決まりがあるわけではな…