勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく③

 ①が長くなってしまったが、義元公のいいところをドンドン挙げていく。多分、また長くなる。

 

父親と大叔父がえらい

 

 父親は範政の曾孫にあたる今川氏親、大叔父とは氏親の母、北川殿の弟である北条早雲こと伊勢新九郎盛時である。

 

 北条早雲は関東の覇者北条氏の初代として著名だが、北条に改姓したのは息子の氏綱の代から、また早雲は菩提寺の寺号で生前の法名は宗瑞が正しい。以下では伊勢宗瑞で統一する。

 

 氏親は宗瑞の後見を受けつつ斯波氏と抗争して遠江を分国化し、幕府の権威に依存する守護大名という立場を脱して、他に先駆けて今川氏を戦国大名化した先進的な当主だった。

 これまで足利将軍家の一門、室町幕府の関東への尖兵として地歩を築いてきた今川氏だが、氏親の治世に在国による分国の直接統治と斯波氏との抗争を経て、幕府から独立した地方権力へと変質していったのである。

 

 順にみていく。

 

斯波氏との遠江抗争

 五郎系今川氏は初代範国駿河遠江守護職に補任されて以降、その滅亡まで一貫して駿河守護を保持したが、遠江守護に関してはもっと錯綜した経緯を辿ることになる。

 

 範国は1336年から3年ほど遠江守護を務めたが、1339年から幕府の宿老仁木義長遠江守護に補任される。

 再び今川氏が遠江守護に補任されるのは1352年からで、範国没後は分家として二男の今川了俊、次に四男仲秋に引き継がれた。

 

 1395年に了俊が九州探題を解任されると、駿河半国と遠江半国の守護に転出し、駿河は甥の泰範と、遠江は弟の仲秋との共同統治となる。1400年には泰範が了俊と仲秋から守護職を取り上げて、再び本家が駿河遠江の守護を兼帯した。

 

 煩雑なので年表風にまとめると、

 

【1336–1339】範国駿河遠江守護

【1352–1384】範国駿河遠江守護

【1384–1388】駿河守護泰範 遠江守護了俊

【1388–1395】駿河守護泰範 遠江守護仲秋

【1395–1400】駿河守護泰範/了俊 遠江守護仲秋/了俊

【1400–1401】泰範駿河遠江守護

 

 概ね14世紀後半は今川一族で遠江守護を保持し、分家の了俊系統は守護職を取り上げられたのちも遠江に定着して遠江今川氏(本家今川氏が天下一苗字となってからは堀越氏)となった。

 しかし1405年に幕府管領斯波義重が、1419年にその子の義惇遠江守護に補任されると、以後約100年間にわたり斯波氏が遠江守護職世襲するようになり、在地に定着した今川一族とその本家駿河今川氏とのあいだで衝突を繰り返すようになる。

 

 斯波氏は足利氏の一族で、今川氏の本家筋吉良氏の祖長氏の甥にあたる家氏陸奥国斯波郡を所領としたことに始まる。家氏の母はもともと父泰氏正室だったが、同母兄の名越光時が北条得宗家に反乱を起こしたために庶流に落とされ、異母弟の頼氏が足利嫡流を継いだために、吉良氏と同じく嫡流の兄筋から分かれた家ということで、宗家とほぼ同格という家格意識高い系の氏族だった。

 

 鎌倉幕府が衰退すると斯波氏当主高経は宗家の足利尊氏と行動を共にし、越前守護として新田義貞を討ち取るなどの功を挙げて室町幕府の元勲ともいうべき存在となっていった。

 高経は四男の義将を足利将軍家の執事に就けたのを始め、侍所頭人、引付所頭人などの幕閣要職を一族で固めていき、また奥羽でも斯波氏分家の大崎氏が奥羽探題、最上氏が出羽探題を代々世襲した。

 

 特に、吉良氏と並ぶ一門筆頭だった斯波氏が執事に就いたことで、本来足利宗家の私的な家人でしかなかった執事職は、有力守護の合議体の座長的な位置付けとして管領へ格上げされ、幕閣首席の要職となった。これにより義将は四男ながら斯波氏嫡流を相続した。

 

 義将の子、義重管領職と越前守護を継承し、さらに応永の乱での戦功により尾張遠江守護も兼帯して、以後斯波氏は3ヶ国の守護を世襲し、かつ細川氏、畠山氏と管領職を輪番で務める3職として幕府での地位を確立した。

 

 遠江守護職を斯波氏に奪われる形となった今川氏だが、三河を発祥として駿河遠江と東海一帯に代々勢力を扶殖して在地における地盤を有する今川氏に対して、管領として京都に当主が常駐する斯波氏は任国の統治を守護代に委ねざるを得なかった。

 越前は朝倉氏、尾張織田氏(信長の本家筋)、遠江は狩野氏がそれぞれ守護代を務めたが、朝倉氏、織田氏はのちに斯波氏を横領して戦国大名化している。この辺りが地方政権としてのアイデンティティを確立していった今川氏と、あくまで幕政の中枢にあって足利将軍家の趨勢と命運を共にした斯波氏とのあいだの明暗を分けることになってゆく。

 

 遠江では了俊の曾孫、範将守護職を失ったあとも土着していたが、斯波氏、狩野氏と対立して長禄3年(1459年)に中遠一揆を起こすも鎮圧され、所領を狩野宮内少輔に奪われ、駿河今川氏に庇護された。

 応仁の乱(1467年)で氏親の父義忠は東軍に属して遠江に出兵し、西軍方の遠江守護斯波義廉との武力抗争に突入した。

 しかし、義忠は義廉に替えて東軍方が任命した遠江守護斯波義良、西軍から寝返って守護代となった甲斐敏光、それに追随する遠江国人らの東軍方とも対立してしまう。

 ここでは、すでに今川氏の関心は東軍西軍といった幕府中枢での政争にはなく、独立した地方政権としての領土的野心がその行動の動機となっていたことが明瞭に看取できる。

 こうして同じ東軍に属する遠江勢力との武力抗争まで戦線を拡大した義忠だが、文明8年(1476年)に斯波方遠江国人との戦闘で戦死してしまう。

 

 その遺志を受け継いで遠江の完全分国化を果たしたのが、義元公の父である氏親なのだが、ここまでにかなりの紙幅を重ねてしまったので、次稿に続くこととする。

 

銅像設置決定!今川義元公の銅像をみんなと一緒につくりたい! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

 

 

今川氏研究の最前線 (歴史新書y)