勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

【東京地政学①】世田谷地域クロニクル

 40年余りのあいだ東京で暮らしてきて、30代まではあんまり自分が東京育ちであることを意識したことってなかった。それはきっと自分を取り巻く人間関係だったり、居住地だったり、仕事だったりが偶々そういう配置だったんだろうとおもう。

 端的にいえば、多くの人間に関わる必要も立ち入る必要もない生き方を選んできたんだとおもう。いまでもそうありたいとおもっているが。

 

 とはいえ、ここ数年は相応な歳になって自分にしては人数の多い職場で、それなりに多くの人間と関わらざるを得ない立場で生きて、はじめて自覚することもでてきた。

 東京で、地元つまり自分が育ったローカルなコミュニティ以外で生きるということは、それが物理的な距離がほとんどないとしても、東京以外の出身者とともに暮らすことでもある。

 

 そうやって東京以外の出身の人間と関わって、はじめて外側からみた東京というのは自分の意識よりもとんでもなく広い概念で捉えられてるのだなときづいた。

 裏を返せば、自分が東京というものを意識しないのは、自分の捉えている東京というのがもっとはるかに小さい対象だということでもあることに気づいた。

 

 東京には特別区が23あり、それ以外に国立市とか西東京市とか島嶼部など都下といわれる地域があるわけだが、自分の感覚としては地元として意識するのはこれよりもずっと小さい範囲である。

 端的に言えば、東京人という一括された概念は、強いて言えば東京以外出身で東京で暮らす人間のことで、たとえば世田谷区出身の私からすれば大田区や品川区出身者は「大田区あたりの連中」だし、北区・板橋区・足立区の人間は「北の連中」であり、江戸川区江東区は「東の連中」であり、それは「川崎の連中」とか「松戸の連中」などと距離感として変わらない。

 

 私は17歳まで世田谷区で育った。厳密に言えば、母親が私を産むときに当時大船(鎌倉市)にあった実家に1年ほどいたらしいから、鎌倉生まれの世田谷育ちということになる。

 こういうと大概「いい育ちなんですね」と言われることが多いんだが、ながいあいだ全然ぴんとこなかった。

 

 住んでいた当時は意識したことがなかったが、あとづけで知ったこととして世田谷区は5つの地域に分割されるらしく、これは概ね肌感と一致する。

 

 世田谷地域

 北沢地域

 玉川地域

 砧地域

 烏山地域

 

 で、気づいたのはみんながイメージしている世田谷というのは概ね北沢地域から烏山地域までの世田谷地域以外をイメージしているらしいということ。“みんながイメージしている世田谷”というのは概ね「都心に比較的アクセスのよい郊外の閑静な住宅地」という感じではないだろうか。

 

 世田谷地域というのがどのあたりを指すかというと、池尻・上馬・経堂・下馬・桜丘・太子堂三軒茶屋・弦巻・若林といった地名を含んだエリアで、区役所があり、たぶん代表的な街は三軒茶屋ということになるのだろう。自分の感覚でいうと、これらの地名はそのまま近隣の区立中学校として認識していた。

 この地域は”みんながイメージしている世田谷”とはだいぶ風景が異なっている。狭く入り組んだ道が多く、また古くて小さいアパートと一軒家が混在していて、住所表示もわかりづらい。閑静な住宅地というイメージには程遠い。どちらかというと小金持ちと貧乏人が交互に暮らしている感じだ。

 高校のころに年賀状配達のバイトをしたことがあるが、丘陵地帯の世田谷の原風景として坂も多いので、めちゃくちゃしんどかった。この辺の感じは三軒茶屋駅前から少し歩いてみればわかるとおもう。

 

 一方、私がどこに住んでいたかというと代田というところで、これは北沢地域に含まれる。ほかに梅丘・大原・北沢・豪徳寺桜上水・代沢・松原なども含まれる。代表的な街は下北沢だろう。この地域で生活実感として私が地元としてイメージできるのは梅丘・北沢・代沢くらいまでだ。

 この北沢地域は下北沢駅周辺を除くと、”みんながイメージする世田谷”にかなり近いのだとおもう。ただし代田は北沢地域の南端に位置していて地理的には世田谷地域に近い境界的な地区でもある。

 

 私の実家の前を梅丘通りが東西に通っていて、それを北に超えたところが北沢で、通りに沿って北沢川緑道という河川を埋め立てた遊歩道があり、その近辺に中島みゆきの家とか、その向かい辺りになべおさみの家とか芸能人の家が建っていた。なべやかんが明治に裏口入学したときには結構メディアが集まっていたと思う。

 代田にはたしか所ジョージのガレージを拡大したような家もあって、たまにタモリ倶楽部なんかに出てきた。それ以外にもこの地域の家は大きな一軒家が多かった。

 変わったところでは、近所には天理教の大きな施設があり、そばに信者の住む共同住宅もあった。

 梅丘通り沿いには信濃屋というスーパーがあり、ときどき子どもを連れた鮎川誠・シーナ夫妻をみかけた。テレビとかで観るあのまんまの姿で、シーナさんなんかは真っ白いファーのコートでベビーカーを押してたりして、子ども心にあまりのかっこよさに度肝を抜かれた。

 下北沢には原田芳雄の家があって、庭のある古い平屋建てで、元旦には近所の人間も入れる餅つきが庭であって、安岡力也や丹古母鬼馬二なんかもいた。原田芳雄は縁側に胡座をかいて餅を喰っていた。

 

 

 

 思い返せば、私の住んでいた近辺も一軒家が多かった。私は6階建ての小さなマンションだかアパートだかの5階に住んでいて、間取りは2DK、1フロアに3世帯入っていたと思う。エレベーターもなく毎日5階まで上り下りしていた。大して高い建物でもなかったが、屋上から周囲を見渡すと周辺では一番高い建物だった。

 私の家族が住んでいた部屋のオーナーは父方の祖母の弟、つまり私の大叔父にあたるひとで、1〜2回しか会ったことはないが、たしか不動産関係の仕事をしていて吉祥寺で結構大きな家に住んでいた記憶がある。立地にしては低い家賃で住まわせてもらっていたんだとおもう。

 

 世田谷地域と北沢地域を隔てるのが淡島通りで、これを南に超えると若林や太子堂となる。私が住んでいたあたりは梅丘通りと淡島通りに挟まれた地区で、いま思い返せば小学校までは下北沢が生活の中心で、若林中学校に進学してからは三軒茶屋が中心になっていった。子供時代の印象でしかないが、小学校のときの方がいいとこの子が多かったように思う。

 

 私の両親は共働きだったので、小学校低学年くらいまでは学校が終わると杉並区の永福町に住んでいた祖父母の家に行って、母の仕事が終わる夜まで過ごすことが多かった。下北沢には井の頭線が通っているので、学校が終わったらそれに乗って通うのである。

 私の祖父母はいま思えば貧乏だったので家といっても1Kの木造アパート、2階の突き当たりの部屋で窓から外をのぞくと大家の家の広い庭がのぞけた。この辺のバランスが世田谷、特に世田谷地域とよく似ていた。

 

 小学校に入る前は保育園に預けられていて、そこはいま思えば片親とか共働きとか貧乏人の子が多かったなと思う。

 40年前というのは、父親はかっちりしたサラリーマンで終身雇用で母親は専業主婦でというのがまだ理想とされた時代で、共働きとか片親とかが今よりもまぁまぁ目立つ存在だった。

 40年経ったいまでも憶えてるのも凄いなと思うが、リカチャンという子がいて、母親同士が仲がよくて結構家に遊びに行ってたんだが、いつ行ってもお父さんが家にいて、アフロヘアというか具志堅用高みたいな頭で、わりと穏やかというかボーッとしていて呂律も回っていなかった。リカチャンのお母さんは「ウチのお父さんは傘差してたら雷に当たっちゃって少しおかしいのよ」と笑って説明していたが、振り返ればあれはラリってたんじゃないかと思う。お母さんはたしか美容師か何かで何度か家で髪を切ってもらった気がする。

 タケシクンという子とも仲良くてよく遊びに行ったが、そこはわりと大きい一軒家に住んでたんだけど両親ともに教師で日教組で、親は赤旗をとれとか勧められてた気がする。当時は日教組赤旗とか言われてもなんだかわからなかった。思い返せば共働きとか片親みたい家庭は母親同士がわりと仲が良かったなと思う。赤旗はとらなかったが。

 考えてみれば、まだ男女雇用均等法もできる前で、当時の我々の母親はみんなまだ30歳くらいの若さで社会的にはまぁまぁアゲインストというかマイノリティだったわけだから、共働きとかシンママなんかは、いろいろ共感するところがあったんだろうと思う。

 そういえば小学校にはカズヤクンという知的障害の子もいて、ここも片親で私もまぁまぁ遊んでたりしていたが、お母さんが頑張って小学校はなんとか普通学級に通わせていたが、中学に上がるとやっぱりしんどくなって養護学級に編入された。なんとなくだが小学校のときは自分は比較的マイノリティの側に属してるんだなという感覚はあったように思うし、だから中学に上がると極自然な成り行きとしてグレてる側に回った。

 

 世田谷区は大正時代までは多摩丘陵に連なる農村地域で、関東大震災のときに焼け出されたひとが住み着いてきたころから風景が変わってきたらしい。

 だからまあはっきりいえば、もともと農地をもっていた地主の一軒家と、余所者が暮らす借家という組み合わせが世田谷地域の風景で、これはいわゆる首都圏のベッドタウンの原風景だと思う。

 私の父は広島県の出身で上京して東京に住み着いたから、私の家は後者のクラスタに属する。だから「いい育ちなんですね」と言われてもぴんと来ないのは当たり前である。いいとこのダセエ連中と一緒にすんなよという感覚も多少ある。

 

 関東大震災から戦後くらいまでのあいだに住民が増加した世田谷地域は、都心から震災や戦争で焼け出されたひとの移動が中心だったので、計画的な宅地開発などの結果ではなくバラバラに住宅が建っていっただけだから、この辺りはひどく入り組んだ街並みになったということらしい。世田谷地域は農地の多い世田谷区のなかでは代官屋敷や武家町のあったあたりで、三軒茶屋は街道筋の商業地でもあったので、ここが都心からの最初の人口流入地になったんだと思う。

 砧・玉川など(都心からみて)さらに外縁の地域はどちらかというともともと景勝地や行楽地だったらしく、戦後の高度成長期に東京に収容しきれない人口のために計画的に宅地造成が進められたために世田谷地域と風景が違っているのだろう。

 

 恐らく多摩地域に公営団地が造成されたのと近いタイミングで、多摩は大規模団地で零細な労働者家庭を収容して、隣接する玉川や砧は都心から移住する富裕層と元から住む地主の地域になったんじゃないかとおもう。

 もともと都心にあった大学や学校なども空襲などを避けてこの地域に戦中戦後に疎開したらしい。だからこの辺りは閑静な住宅地というイメージに合致する。

 

 戦後はさらに膨らんだ人口を収容するために神奈川・千葉・埼玉の宅地造成が進められて首都圏が形成されたわけで、世田谷区は東京というよりも、首都圏を構成する最初期のベッドタウンだったというのが正しい地政学的理解なんじゃないかとおもう。そのなかで、まぁ物凄く狭小な範囲の話だが、世田谷地域は計画的な宅地造成以前に行われた、わりと無計画な人口収容によって形成されたという点で、他の世田谷区とやや風土が異なっているんじゃないかと思う。

 

 話を戻すと、私が”地元”という感覚をもてるのは、だから世田谷”区”ですらなく、三軒茶屋と下北沢に挟まれたきわめて狭小な地区だけなのである。ましてや東京が地元かといわれると、まるで実感がない。

 東京だと大概そうだと思うが、中学くらいまでは「大田区の連中」とか「東部の連中」のような視野はなく、専ら出身中学がどこかが基礎属性になる。荒川区とか八王子とかが視野に入るのは、暴走族に入るかチーマーになるか、高校に入って他の区の連中との付き合いができてからである。私の場合で言えば出身中学は若林(ワカチュー)で、ちょっと前の世代の80年頃の校内暴力全盛期に名を馳せた学校で、自分が入学した当時は世田谷No.2を自称していた。なんの順番かというと喧嘩である。No.1は下馬の駒留中学校(ドメチュー)だった。私が3年になった代はそこまで強くはなかった。8割くらいはワカショー(若林小学校)出身で、私はその意味では少数派に属していた。

 こういう具合に中学に入ると「タイチュー(太子堂中学)の誰それ」とか「コマチュー(駒場中学)の何某」といった属性を纏うようになる。

 ワカチューはいまは少子化の影響で近隣のヤマチュー(山崎中学)と統合されて世田谷中学校(いまセタチューというのかは知らない)になったらしいが、ヤマチューは世田谷区世田谷に位置して区役所の近くにあって、世田谷地域では当時わりと成績優秀な部類に属していた。言い方を変えると気合が入っていない中学であり、ワカチューとごく近かったのでなんとなく面白半分に20人くらいで締めに行って後で学校同士で通報されて大分叱られたことがある。ワカチューはそんなところだったので、公立にも関わらず越境を希望するような家もあって、そういうのは多分ヤマチューに通ったんだと思う。だからいまワカチューがヤマチューに統合(校舎はヤマチューらしいんで感覚的には吸収)されたとういうのは忸怩たるものがある。

 と、ここまで書いてきて、たとえば世田谷No.2などと言っているが、実はここに出てくる中学はほぼ全部世田谷地域なのである。それも特に太子堂と若林に集中している。世田谷区全体から見ても相当狭い。ましてや東京という単位でみれば猫の額である。地理的にはごく近い北沢地域に属するキタチュー(北沢中学)、ウメチュー(梅丘中学)、フジチュー(富士中学)などは当時から全く眼中になかった。

 たとえば三茶で「お前どこよ?」「シンセー(新星中学、池尻中学と統合されて現在は三宿中学になったらしい。知らなかった)だよ」となれば、そこから先は結構緊張感が生まれるが、「梅丘です」とかだと「なんでウメチューが三茶来てんだよワカチュー舐めてんのか」みたいな理不尽な流れになる。だから当時は意識していなかったが、中学同士の”戦争“などと言っても、それは世田谷"区“ではなくて世田谷”地域“での”戦争“だったのである。言い換えれば、我々は世田谷地域を世田谷区だと認識していたということでもある。そしてそれは外からみた世田谷というイメージとは全然一致しない。こっちからしてみれば外からみたイメージの方を後から知ったのだが。

 

 世田谷地域と北沢地域の関わりで言えば、下北沢エンペラーの存在感が凄く大きかった。関東以外の人間にはエンペラーと言われてもホテルかと思うかもしれないが、全盛期には構成員2000人、愛知県あたりまで支部のあった日本最大の暴走族ブラック・エンペラーのことである。もともとは国立市あたりが発祥らしいが、その後に新宿に総本部が置かれ、さらに下北沢に本部が移った。大きくなり過ぎてからは各支部が独立して行動するようになって、下北沢本部は下北沢エンペラーとなった。まぁしっかりした記録があるわけじゃなく、30年前の先輩なんかからの口伝だが大きくはズレてないと思う。余談だが元々の地元の国立市周辺は三多摩本部として独立して、俳優の宇梶剛はそっちの方の総長だったらしい。

 で、この下北沢エンペラーは地理的には北沢地域に位置しているが、人的には世田谷地域との関わりが深いのである。

 私はちょうど暴走族とチーマーの狭間の世代で、ワカチューの2個上のモリクンが多分最後の下北沢エンペラーの頭、2個下にはいまでも半グレとして名前が出るようなチーマーになる後輩がいた。ワカチューはそれ以外にも何人か下北沢エンペラーの総長を輩出している。2個上の先輩が恐ろしかったのは当然だが、2個下の連中も「なんかこいつらおっかねえな」とおもってみていた。少なくとも中学の間はこいつらの先輩でツイてたなと。

 私の頃はもう暴走族は下火で、下北沢エンペラーも実態としてはチーマーや愚連隊に近い存在になっていった。

 それでこの話のなにが重要かというと、一つは世田谷地域の特殊性というか、北沢地域に位置していたにもかかわらず、その中核を成していたのがワカチューやシンセーチュー出身者だったこと。これはエンペラーだけでなく、のちのチームでも世田谷出身のチーマーの母体は世田谷地域が多い。他には烏山地域くらいである。

 またもう一つは、下北沢エンペラーやチームなどが契機になって、出身中学のような極小のセクトから新宿や渋谷のようなより広域で上位の単位に再編成されること、ただしそのアトムになっているのはあくまで出身中学のような極小のセクトとそこでの先輩後輩という縦糸であること。この辺については次稿で改めて考えようと思う。

2019年にみた映画から10作選んでみた

 

獣道 YouTube

徹頭徹尾底辺しか出てこない。吉村界人がいい。

 

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チェイサー YouTube

ナ・ホンジン監督にキム・ユンソク主演、ハ・ジョンウが敵役と『哀しき獣』と同じ鉄板の布陣。

 

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The Witch/魔女 YouTube

主演のキム・ダミの芝居が素晴らしい。才能を感じる。オーディションだったらしいけど。

 

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彼女がその名を知らない鳥たち YouTube

ひたすら蒼井優の天才が際立つ。

 

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愛がなんだ YouTube

岸井ゆきのってあんまり知らなかったけど、いいね。

 

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日本で一番悪い奴ら YouTube

ホントに悪くてワロタ。

 

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悪女/AKUJO YouTube

特殊効果だけじゃなくて肉弾も凄まじい。

 

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キュア〜禁断の隔離病棟〜 YouTube

ホラーというより変態モノ。

 

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万引き家族 YouTube

『獣道』ほどの切実さはないが、安藤サクラは相変わらず巧い。

 

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フルリベンジ YouTube

糞みたいな父親に虐待されていた姉妹が耐えきれずに逃げ出して、父親とマフィアに追跡され、結局返り討ちにする話。実話らしいが。

ターミネーター』のマイケル・ビーンがプロデュースと父親役と言って誰か関心あるのかどうか。

 

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2019年に読んだ本から10冊選んでみた

「文庫版 死ねばいいのに(京極 夏彦)」

久しぶりに京極夏彦を読んだが、相変わらず糞みたいな奴の心象風景を描かせたら当代一の名手。

 

文庫版 死ねばいいのに (講談社文庫)

 

「中世武士の勤務評定(松本一夫)」

織豊政権以前には武士の恩給は原則的に土地なわけだが(いわゆる御恩と奉公)、土地を給付するといっても一元的な権利管理機構があるわけじゃなし(幕府はあくまで裁定ないし調停機関)、どうしてたのかな思ってたら、案の定グダグダだった(だから調停が必要なんだが)。

 

 

中世武士の勤務評定―南北朝期の軍事行動と恩賞給与システム (戎光祥選書ソレイユ005)

 

「世田谷一家殺人事件 15年目の新事実(一橋文哉)」

先日、事件後19年を迎えて現場となった自宅の解体が打診されたそうだが、著者が執拗な取材でかなり有力な反証を立てているにも関わらず、犯人像について未だに初動の躓きを引きずっていらしい報道で、なんだかなあと。

 

世田谷一家殺人事件  15年目の新事実

 

「古代豪族と武士の誕生(森公章)」

絶賛活況を呈している武士論の分野だが、在地領主説、軍事貴族説、芸能説のいずれも都を起源とした源平藤の趨勢が中心になっていて、古代から在地に存在した国造–郡司の系統はあまり顧みられることが少ないが、断片的ながら在地の郡司層が都から赴任した軍事家族と女系で結合して武士化していった過程が検証されていて、なかなか有意義な論考。

 

古代豪族と武士の誕生 (歴史文化ライブラリー)

 

「論理的思考のコアスキル(波頭 亮)」

こういう本あんまり読まないんだが、これは論理学などを援用しないがらも、あくまで実践的なスキルとして扱っているところに好感もてる。

 

論理的思考のコアスキル (ちくま新書)

 

「ハロー・ワールド(藤井 太洋)」

確かわりと初期のKindle作家でもあったと思うが、これは仮想通貨をテロリズムと重ねた作品で、元エンジニアの作家ということでテクノロジーのトレンドを掴むのが上手だなと。

 

ハロー・ワールド

 

「レギオニス 勝家の決断(仁木 英之)」

柴田権六勝家を主役として並いる信長麾下の武将が高度成長期のサラリーマンのようにこき使われた末に秀吉が一人勝ちする様を描く一大叙事詩、ついに完結。

 

レギオニス 勝家の決断 (中公文庫)


「激しき雪(山平重樹)」

野村秋介朝日新聞で自決した事件は物凄く鮮明に記憶に残っているが、あんまりちゃんと事績を追ったことがなかったなと思い読んでみた。強烈な美意識だけで生きたひと。

 

激しき雪 最後の国士・野村秋介


今川氏親と伊勢宗瑞(黒田 基樹)」

2019年は今川義元公生誕500年ということで、いつになく今川氏関連の書籍がでて、イメージキャラクターの今川さんまでできたが、これは義元公の親父さん氏親公とその叔父の伊勢宗瑞a.k.a.北条早雲の評伝。

氏親は実は先進的な大名だったし、宗瑞も後北条氏というメジャー大名の家祖のわりに確かな事績がまとまってきたのはわりと最近だったりする。

戦国大名の元祖のような位置づけの宗瑞だが、事績を辿ると甥の氏親との共同作業のような形で幕府から自律した政体をそれぞれつくっていったことがわかる。

 

今川氏親と伊勢宗瑞:戦国大名誕生の条件 (中世から近世へ)


麻原彰晃の誕生(高山 文彦)」

サリン事件と宮崎勤事件、酒鬼薔薇聖斗事件があったあたりの95〜97年ころが日本の断末魔のようだったなと。

『少年A』と同様、事件自体よりも犯人の心象風景を丹念に追う高山の持ち味が出ている。

 

麻原彰晃の誕生 (新潮文庫)

 

2010年代のベスト11(但しクリロナとメッシ除く)

 2019-20シーズンも始まって、久方ぶりにインテルもまぁまぁ好調なスタートを切ったんで割と例年よりも機嫌よく試合を観れていたりしますが、21世紀2度目のディケイドの最後のシーズンでもあるんで、ありがちではありますが直近10年間のベスト11を組んでみましたよ。

 但しタイトルにもある通りクリロナとメッシを含めると自動的に2枠埋まっちゃって面白くないんで、この2人は外して考えてみました。もっと言うとクリロナがいるチームにクリロナなしで勝てるチーム、というのも選考基準にしました。

 

【監督】アントニオ・コンテ

 誰もが10 年代最高の監督はグアルディオラだと考えてると思うんですけど、実際その通りだと思います。10年代初頭に唯一グアルディオラに対抗できる存在だったのはモウリーニョだと思うんですけど、彼のピークはやっぱり00年代だったと思うんですよね。10年代になって台頭してきたクロップとかコンテとかはグアルディオラを踏まえて独自の路線を打ち出してて面白いですね。

 クロップはグアルディオラからポゼッションという要素を削ってハイプレスをポジショナルプレーのなかで再整理した感じで、守備戦術ではグアルディオラをさらに過激にしつつ攻撃面ではダイレクト志向。

 コンテも似てるんだけど、よりポジショナルな面が強調されていて、攻撃面ではアメフトやバスケのような緻密なパターン戦術をサッカーに組み入れようとしてますね。多分コンテはサッカー以外のボール競技をかなり研究してるんじゃないかと思う。そういう意味で、クロップよりさらに未来を志向していて、かつ近い将来グアルディオラと対抗し得るという観点で、また単にインテルの監督だからという贔屓も含めてコンテを監督にしたいと思います。で、監督がコンテなのでシステムは3-5-2です。

 

【GK】ジャンルイジ・ブッフォン

【中央CB】レオナルド・ボヌッチ

【左CB】ジョルジュ・キエッリーニ

【右CB】アンドレア・バルザーリ

 

 見ての通り、ユヴェントスとイタリア代表のディフェンスそのまんまですね。というか、クリロナに対抗するとしたらこのディフェンスユニットしかあり得ないでしょ。恐らくサッカー史上でも屈指のディフェンスラインだと思います。

 メッシ以降、いわゆるハーフゾーンに入ってくる選手をどうやって潰すかっていうのが守備戦術の最大の命題だったと思うんです。外から入ってくるのにサイドバックがついてくとその大外を使われるし、センターバックが前に出るとその裏を使われるしで。

 この3人のユニットはハーフゾーン潰しのスペシャリストで、3人の内誰かが前に出ても残りの2人がカバーリングして、大外は下がってきたウィングバックが捕まえるっていう守備のメカニズムが機能美に溢れていました。

 右からバルザーリボヌッチキエッリーニという並びなんですけど、中央のボヌッチはロングパスが抜群に上手くて、ここから高い位置に張り出したウイングバックに一気にフィードして中盤飛ばす組み立ても非常に洗練されていましたね。守備だけでなくビルドアップの面でもモダンなユニットでした。

 

【アンカー】セルヒオ・ブスケツ

【右インサイトハーフ】ルカ・モドリッチ

【左インサイドハーフトニ・クロース

 

 アンカーはブスケツにしてみました。ピャニッチと迷ったんですけど、背後のボヌッチが組み立てに優れるのとクロースもいるので、このポジションにはピルロみたいなレジスタタイプよりもブスケツみたいな球の出し入れの上手いアンカータイプがいいかなと。脇を固めるのはモドリッチとクロップのレアルコンビで、まぁこの3人はあんまり説明不要かなと思います。アンカーのブロゾビッチ、インサイドラキティッチなんかも考えたんですけど、やっぱりレアルの2人に比べるとややインパクトに欠けるかなと。

 

【右ウイングバック】ダニ・アウベス

【左ウイングバック】マルセロ

 

 セレソンの2人ですね。コンテの戦術のウイングバックは規格外というか、守備のときは3バックの脇まで戻って、攻撃のときは2トップの横まででてウイングをやるっていう、ちょっと常識外れの仕事をこなさなきゃいけないんで、元から常識外れのこの2人がいいかなと。

 

【FW】ルイス・スアレス

【FW】エディソン・カバーニ

 

 コンテのサッカーって両サイドにウイング(バック)が張り出して4トップに近い形にして、そこに中盤飛ばして最終ラインから長いフィードを当てて、それを拾ったところからダイレクトにゴール前まで行くっていう極端にダイレクト志向なんで、2トップは球際強くて単独でもドンドン勝負に行くタイプでないと務まらないなと。その点この2人はウルグアイ人なんで元から2トップだけで点取に行くサッカーに慣れてるし、個人個人の能力も桁違いに高い。

 

 以上、まとめると

 

【GK】

 ジャンルイジ・ブッフォン

【DF】

 レオナルド・ボヌッチ

 ジョルジュ・キエッリーニ

 アンドレア・バルザーリ

【MF】

 セルヒオ・ブスケツ

 ルカ・モドリッチ

 トニ・クロース

 ダニ・アウベス

 マルセロ

【FW】

 ルイス・スアレス

 ネルソン・カバーニ

 

 クリロナはおろかネイマールとかセルヒオ・ラモスとかも全然入ってないけど、ゴリっとしててなかなかいいんじゃないかなと。

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく⑦

仮説③寿桂尼は承芳と太原雪斎の政敵だった

 筆者は氏輝治世下の今川氏の政局は、以下の勢力に分かれていたと考えている。

 

親北条派】氏輝–寿桂尼

【反武田派】恵探–福島氏

【親武田派】承芳–太原雪斎

 

 氏輝–寿桂尼の連立政権が保守的で前代の政策を踏襲して親北条派だったことは先述した。

 

 それに対して福島氏は、先年の甲斐乱入事件の際に多くの戦死者を出して面目を失った私怨に近い感情が武田氏に対してあったと推測され、これを親北条派と区別して反武田派としたい。

 氏輝治世の情勢では親北条と反武田はほぼ同義だったから、両派は概ね一体のものとして認識されていたはずである(タカ派ハト派という体温の違いはあったと思われる)。

 

 恐らくまだ表面化はしていなかったが、筆者は承芳と雪斎は親武田派だったと考えている。

 遠江の次は三河、そしてその次は尾張。今川氏の成長戦略を考えれば、如何に盟友とはいえ北条氏の関東の揉め事に付き合って武田氏との抗争で消耗するのは全く得策ではない。武田氏との紛争を速やかに解決して今川氏は西進すべきである。

 ただしそれは反北条という意味ではなく親武田かつ親北ということだったと推測する。考えてみれば、武田と同盟しても北条と敵対すれば、やはり西進は覚束ないのは自明である。

 承芳と雪斎が親武田派(かつ親北条派)だったとする論拠としたいのは、後年の甲駿相三国同盟、有名な善徳寺の会盟である。

 

 河東一乱が終息してから8年後の天文21年(1552年)、前年に定恵院(義元公正室、信玄の姉)が死去したのを機に信玄の嫡子義信に義元公の娘嶺松院が輿入れし、甲駿同盟が更新された。その翌年に信玄の娘黄梅院が氏康嫡子氏政に、さらにその翌年に義元公の嫡子氏真に氏康の娘早川殿が輿入れしたことで三国間の婚姻同盟が成立した。

 三家の当主が善徳寺に集まって誓紙を交わしたという伝承はさすがに創作だろうが、善徳寺はまだ九英承菊と名乗っていた若き頃の雪斎が学び、幼い義元公が栴岳承芳として入門した曰くのある寺院であり、この三国同盟を周旋するために奔走したのが雪斎だった。

 

 そして、恐らく承芳と雪斎が氏輝と彦五郎を謀殺してまで政権を奪った意図は、最初からこの三国同盟の締結にあったと考えるのである。

 

 実際この同盟以後、武田氏は信濃方面、北条氏は関東、そして今川氏は三河から尾張と、それぞれが背中を預けあって進出していくのである。まさに三者に利のある理想的な同盟関係なのだが、前代からの外交方針に固執する保守的な寿桂尼執政下の氏輝政権では実現できなかった。

 また抵抗勢力寿桂尼の保守政権だけではなく、反武田感情の強い福島氏が健在では武田氏との共闘は覚束なかっただろう。つまり、氏輝と彦五郎の謀殺から花倉の乱での玄広恵探と福島氏の粛正まで、すべて甲駿相三国同盟を実現するために承芳と雪斎が構想した一連の政治運動だったというのが筆者の考えである。

 

 また近年の説ではまた別の視点もある。それは寿桂尼と雪斎が政治的に対立していたというものである。

 既述だが寿桂尼の実家は公家の中御門家である。この時代の公家は地方にもっていた所領を在地の武家に押領されて生活が窮迫しており、各地の有力者のもとへ下向して所領の回復を依頼したり、歌道や蹴鞠などの技芸を伝授することで寄寓したりして生計を立てざるを得なかった。寿桂尼が今川家に嫁いだのも、そういう世相の流れだったろう。

 もともと武家としては文化的素養の高かった今川氏のもとには寿桂尼の縁を頼って多くの公家や技芸者が参集し、後世に今川文化と呼ばれる地方文化を形成していった。

 寿桂尼自身、公家の娘として教養もあり、また聡明で気丈な女性でもあったのだろうが、一面では彼女の出自による京都政界とのコネクションがその政治基盤となっていたことも疑いない。

 

  一方の太原崇孚雪斎の実家は庵原氏である。庵原は駿河西部の古い地名であり、古代から当地に根を下ろした古豪の一族だった。母方の実家は水軍衆の興津氏、ともに今川譜代の家柄である。

 方菊丸(義元公の幼名)の教育係として善徳寺に出家して九英承菊と名乗り、のちに京都五山建仁寺でともに修行し、そこで方菊丸は得度して栴岳承芳と名乗った。さらには臨済宗妙心寺派総本山妙心寺でも学び、晩年には第35代妙心寺住寺を務めるなど、禅僧としても当代一流の経歴をもった。

 承芳と雪斎が駿河に帰国したのは天文4年(1535年)で、2人の京都滞在は断続的に10年に及んだ。その間寿桂尼の実家である中御門家や姉の嫁ぎ先の山科家、また承芳の伯母の嫁ぎ先の正親町三条家、その姻戚の三条西家、著名な僧侶などと交流を深め、寿桂尼とは独立した人脈を京都政界で築いたいったようである。

 寿桂尼を頼って多くの公家が駿府を訪れていたとはいえ、彼女自身が駿河に嫁いで既に30年が過ぎ、実家の中御門家も家格は名家で大臣家の正親町三条家や三条西家などと比べると政界での影響力は小さかった。

 雪斎は京都に滞在しながら今川氏の姻戚関係も利用しつつ人脈を広げ、また臨済宗妙心寺派の僧として仏教界での交流もあった。

 京都政界とのコネクションを今川家中での政治基盤としていた寿桂尼にとっては、雪斎は脅威と感じられたことだろう。

 氏輝の死の直後に幕府から義元公の家督継承の御教書を引き出したことからも、雪斎の京都政界への影響力がすでに大きなものになっていたことが窺える。

 

 そして花倉の乱である。

 

 恐らく寿桂尼は氏輝と彦五郎を謀殺したのが雪斎と承芳であることに気づいていたのではないか。その上で実子の承芳より、恵探の支持を選んだ。

 

 考えてみれば、承芳が寿桂尼の実子なら氏輝と彦五郎も同じく腹を痛めて産んだ寿桂尼の子なわけである。

 如何に息子とはいえ、我が子を2人も殺した相手を母親の情として簡単に赦すことはできないだろう。しかもその目的が自身の政権へのクーデターでブレーンが政敵の雪斎だとしたら、はいそうですかと政権を譲るわけがないのである。

 

 こうして寿桂尼は恵探に与党するのだが、もしかしたら自分がそうすることで恵探が勝利した場合に承芳の助命を要請するという、母親の一縷の情があったのかどうか、内心は計り知れない。

 

 それにしても同母兄を2人殺し、また生母を敵に回して異母兄も自裁させて家督を継いだわけだから、義元公も尋常な神経の持ち主ではないと思えてくるが、のちの義元公をみる限り、そこに然程の違和感は感じないのだ。

 織田方から離反して従属してきた山口教継を無実の罪で粛清したような、義元公はけっこう冷酷なことをこの後も平然と続けるのである。このあたりが単に雪斎の傀儡ではない、義元公の凄みと言えよう。

 

 ともあれ、氏輝と彦五郎の変死は承芳と雪斎を中心とする反武田派の寿桂尼政権へのクーデターだった、そしてその政治目的は武田・北条との三国同盟による西進だったというのが筆者の仮説である。

 

 そこで最後の疑問が、にも関わらず何故北条氏の侵攻とその後の河東一乱が起きたのか、であるが、それは次の稿で考えてみたい。

 

(続)

 

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生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく⑥

 以上、前稿で概観したように義元公の家督相続を巡っては不可解な点が多い。筆者なりに論点を列挙すると、以下のようになる。

 

①氏輝はなぜ死んだのか?

②彦五郎とは何者だったのか?

③なぜ寿桂尼は恵探を支持したのか?

④なぜ義元公は駿相同盟を破棄したのか?

 

 これらの疑問を検討することで、戦国大名今川義元がなぜ生まれたのかを理解することができるのではないかと考えている。

 無論、ここから先は状況証拠からの筆者の推理というか妄想に近い内容で、史料等の裏付けは何もない。その前提で読み流してもらえればと思う。

 

仮説①親北条派と親武田派の対立

 まず氏輝の在世当時、今川氏内部には親北条派と親武田派があったのではないかというのが第一の仮説。

 

 北条氏は氏親の外戚伊勢宗瑞を祖として二代目氏綱は氏親の従兄弟、その嫡男の氏康寿桂尼の娘瑞渓院正室に迎えて氏輝と氏康は義兄弟にあたり、両家は二重の姻戚関係によって結ばれていたから、主流は圧倒的に親北条派だったろう。氏輝の治世まではあくまで親武田派は少数若しくは潜在的だったはずである。

 

 今川氏と武田氏とは永正18年/大永元年(1521年)に福島氏を主力とする今川軍が甲斐に侵攻した福島乱入事件が起きて以来、対立関係になっていた。

 福島氏は義元公と跡目を争った玄広恵探の生母の実家である。武田信虎によって撃退された福島氏は甚大な損害を被り、恐らくその後今川家臣団中で反武田の急先鋒となったのはこの福島氏だったろう。

 また北条氏も宗瑞時代に武田氏と国境紛争を起こして対立し、武田氏は氏綱の攻勢にさらされていた扇谷上杉氏と同盟して北条氏に対抗していた。

 関東情勢を取り巻くかなり大きな枠組みの中で武田氏は政治的に反北条方に属していたのだが、いわゆる新興勢力だった北条氏には姻戚であり名目上は主筋にあたる今川氏くらいしか味方がいなかったとも言える。

 

 つまり内部には武田氏に怨恨をもつ福島氏が、外部では盟友北条氏が 関東政局を巡って武田氏と対立していた。

 氏親の晩年から氏輝の治世まで後見を務めていた寿桂尼は前代の基本政策を踏襲していたので、自ずと今川氏の外交戦略が親北条=反武田に傾くのは必然だった。

 

 しかし武田氏との紛争が今川氏の領国運営上どれだけ益するところがあったかというと大いに疑問が残る。

 福島氏を中心とした内部の反武田感情と、盟友北条氏との共闘関係という要素を除けば、寒冷な山国で甲斐源氏宗家の武田氏でも統治に苦労するほど国人が割拠していた難国甲斐に領土的旨味はなかったはずである。したがって氏親・氏輝の2代にわたる武田氏との紛争は、駿相同盟に基づく側面支援の意味合いが強かったと思われる。

 

 しかし斯波氏との抗争を制して遠江を領国化した今川氏は、本来であればそのまま三河へと攻勢に出て温暖な東海道沿いに領国を拡大していくのが合理性的な戦略だったと考えられる。そのためには実利に乏しい武田氏との紛争は足枷でしかない。当時の今川家中でもそう考える勢力はいたはずである。

 しかし当主氏輝と後見寿桂尼の連立政権のようになっていた当時の今川氏主流派は、そのような積極的な戦略をとることもなく、氏親時代の路線を踏襲した消極的な政権運営に留まっていた。

 

 つまり、もし氏輝の変死が他殺、謀殺の類だとしたら、それは消極的な政権運営に不満をもっていた勢力、親武田へと政策転換して西方に進出すべきと考えていた勢力によるクーデターだったと考えるのである。

 

仮説②彦五郎は氏輝の同母弟だった

 氏輝と同日同時に死亡したと伝わる謎の人物、今川彦五郎については、さまざまな史家、作家が推測をしているが、如何せん死んだということ以外まるで伝わっていないので、なにか新しい史料でも発見されない限り、真相は闇の中である。

 

 わかっているのは彦五郎という通称だけだが、今川氏嫡男の通称は初代範国以来五郎が慣例である。義元の曽祖父範忠、祖父義忠の親子が彦五郎を名乗っていたが、五郎と彦五郎のあいだにどういう違いがあったのかはよくわからない。

 他にも伝わっていない彦五郎がいたのかもしれないが、範忠と義忠の前例を鑑みれば、「彦五郎」が五郎に準じて今川氏嫡男の通称だったことは確実である(逆に言えばそれ以外の者が名乗ることは憚られたはずである)。

 氏輝に子がなかったとする所伝を信じるなら、氏輝と同時に死んだ彦五郎を名乗る人物は、氏親の正室寿桂尼の次男であり、氏輝に万一のことがあった場合には家督継承候補第1位となる嫡弟という推測が許されるだろう。

 

 個人的に面白いと思っているのは、皆川博子『戦国幻野』の彦五郎は氏輝の双子の弟だったという設定である。如何にも小説家的な発想ではあるが、確かに双子は当時不吉とされていたので、もし彦五郎が氏輝の双子の弟なら表に出ることもなく、にも関わらず家督継承候補第1位だったというのも一応説明がつく。

 

 双子かどうかはともかく、シンプルな説明をすれば、彦五郎が氏輝とともに殺されたのは首謀者が家督継承候補第2位以下の者だったからである。もし第2位以下の候補が家督奪取を目的としていたなら、殺害するのは当主だけではなく、自分より上位の候補すべてでなければならない。

 

 となると、必然的に容疑者は三男の玄広恵探か五男の栴岳承芳(義元公)となる(氏親には四男に象耳泉奘という息子もいたが、早くから京都で僧となり駿河の政局には登場しない)。

  そして正当な家督継承者だった彦五郎に関する記録が今川氏内部に残らなかったのは、それがのちに隠匿・抹消されたから以外に考えにくい。それが可能なのは氏輝の跡目を継いで政権を奪取した者だけであろう。

 

 要するに、氏輝・彦五郎弑逆の首謀者は栴岳承芳、のちの今川義元公その人だというのが筆者の推論である。

 もっとも承芳は当時まだ18歳で、単独で実兄を謀殺した主犯とするにはいくらなんでも若すぎる。恐らく師の太原崇孚雪斎がブレーンとして画策したか、あるいは雪斎こそが首謀者だった可能性もある。この師弟は思考がほぼ同じなので、どちらが主なのか渾然としてわからないところがあるが、少なくともこの時点ではまだ若く家督も継いでいない承芳よりも、既に不惑を迎えていた雪斎の方が主体だったと考える方が自然ではある。

 

 そしてもし彦五郎が寿桂尼の実子だったという仮定が許されるならば、寿桂尼がなぜ承芳ではなく恵探を支持したのかも、ある程度説明がつくと考えているが、また大分長くなったので続きは次稿に譲る。

 

(続)

 

戦国幻野―新・今川記 (講談社文庫)

 

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生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく⑤

 いよいよもって鼻息荒く義元公の治績を語りたいところだが、氏親没後に家督を継いだのは同母兄の嫡男氏輝である。

 義元公は氏親の五男として生まれ、父の生前、まだ4歳のときにに臨済宗善徳寺で九英承菊(のちの太原崇孚雪斎)の弟子となり栴岳承芳と名乗った。

 

 氏輝と義元公の生母は氏親の正室で公家の中御門家出身の寿桂尼である。寿桂尼は氏親、氏輝、義元公、氏真の4代にわたって国務を補佐して、尼御台と称された。

 黒衣の宰相こと雪斎は当初は承芳の仏門の師として、義元公の還俗後は執権として、その全盛期を支え戦国最高の軍師と言われた。

 

 義元公は武家の父と公家の母とのあいだに生まれ、家督はおろか武士として育つこともなく禅僧として生涯を過ごすはずだったが、長じて戦国大名となった数奇な人生のひとなのである。決してのほほんと名家を世襲しただけの坊やではない。

 禅坊主として生涯を過ごすはずだった承芳が如何にして戦国大名今川義元となったのか、その経緯は映画化して欲しいほどミステリアスで面白いのだが、非常に錯綜もしているので、まずはざっと流れを概観する。

 

 氏輝の変死事件

 義元公の兄、氏輝は14歳で氏親の跡を継いだ。前年に元服は済ませていたが、まだ若年のため母親の寿桂尼が後見として当主を代行した。

 氏親の晩年は会話もままならないほど健康状態が悪かったため、国務を寿桂尼が代行することも多かった。その延長で氏輝の家督相続後も当初は寿桂尼が当主代行として安堵状の発給などを行なっていたようである。

 氏輝が20歳になった天文元年(1532年)頃からは自身で国務をみるようになったが、その後も義元公が家督を相続するまで寿桂尼の国務執行は並行して行われていた。

 のちの義元公と氏真のように、当主が隠居後に跡取りと権限を分担して国務を行うことはしばしばあるが、成人した当主の母親が前当主のように振る舞うのは些か珍しい。このため氏輝が病弱だったという説もあるが、よくわからない。

 ともあれ、氏親の晩年から氏輝の治世にかけての20年ほどのあいだ、今川氏は寿桂尼の強い影響下にあったと言える。

 

 氏輝の治世は、内政面では検地を実施して引き続き遠江の領国化を進め、軍事面では甲斐守護武田氏との紛争などもあったが、総じて先代氏親の政策を踏襲することを第一として、やや消極的なものだったということは指摘できる。

 これも氏輝自身の志向というより、氏親晩年に事実上の執政を務めた寿桂尼の意向の反映と捉えてよいのではないか。夫の死後、些か頼りない跡継ぎの後見として、名君だった先代の路線を踏襲するのは寿桂尼にとっては自然な選択であったろう。

 

 また伊勢宗瑞以来の北条氏との共闘関係も、今川氏が氏輝に、北条氏が氏綱に代替わりしても継続しており、氏輝の同母妹瑞渓院が氏綱の跡取り氏康に輿入れして姻戚となっていた。

 甲斐との紛争も北条氏の政敵関東管領扇谷上杉氏と武田氏が共闘関係にあったためで、この当時の関東情勢は、北条氏–今川氏 同盟 対 扇谷上杉氏–武田氏 同盟という陣営に分かれて紛争が続いていた。

 これも元を糾せば、氏親の家督相続のときに扇谷上杉氏が小鹿範満を支援したことに端を発し、伊勢宗瑞が関東方面へ進出して今川氏の東部戦線を担ったことに対抗して、扇谷上杉氏が武田氏を自らの陣営に引き込んだことに始まっている。北条氏が今川氏から自立した勢力となったのちも、両氏は密接な連携をとっていたのである。

  師の太原雪斎とともに修行のため京都に滞在していた承芳も、この対武田抗争に今川一門として参戦するために駿河に呼び戻されている。

 

 氏輝は了俊以来の今川氏当主の伝統に漏れず和歌に親しむ教養人で、歌人令泉為和の門弟でもあったが、甲斐との紛争の翌天文5年(1536年)に、師の為和とともに歌会のために相模小田原へ赴いた。

 氏康に嫁いだ妹瑞渓院への面会という名目だったが、相模での滞在は1カ月にも及び、北条氏と今後の共闘戦略について当主同士で協議するのが目的だったのだろう。

 

 そして相模から帰国した直後の3月17日、唐突に氏輝が死去する。死因も死んだときの状況も伝わらっておらず、全くの変死と言うほかない。享年24歳。さらに奇妙なのは氏輝と同日同時に今川彦五郎という人物も死亡していることである。

 

十七日今川氏照同彦五郎同時ニ死ス

(『高白斎日記』)

四月十七日氏輝死去廿四歳、同彦五郎同日遠行

(『冷泉為和日記』)

 

 この彦五郎という人物は『今川記』や系図類に名がみえず、駒井高白斎(武田氏被官)や冷泉為和といった他国人の遺した記録に死亡記事が伝わるのみで、氏輝と同時に死んだということしか分からない。

 

 謎の人物というほかないが、彦五郎という通称は五郎に次ぐ今川氏当主の名乗りであり、通説では氏輝の同母弟ではないかとされている。

 氏輝には妻も子もいなかったらしく、24歳で妻子がないというのは、なによりも家を絶やさないことが第一だった当時の感覚としては違和感がある。

 父の氏親も子を成したのは晩年で、氏輝は氏親42歳、義元公は48歳のときの子どもである。当時としては相当に遅いと言わざるを得ない。

 寿桂尼と氏親の結婚が永正5年(1508年)または2年(1505年)といわれ、氏親37歳(または34歳)のときなのでそもそも当時としては相当に晩婚でもある。

 このあたり、今川家のなかにも色々家庭の事情があったのかもしれない。

 

 かように氏輝には継嗣がなかったため、家督継承候補第1位は、この彦五郎だったと推定されている。つまり当主とその後継者が同時に変死しているのである。そしてその後継者の名はのちの今川氏の記録には存在せず、同時代の他国人の記録にしか伝わっていない。

 

 どうみても隠蔽である。陰謀の匂いしかしない。

 

花倉の乱

 彦五郎についてはまたあとで検討するとして、氏輝死後、今川氏ではその継嗣を巡って内紛が起きた。

 一方は言わずもがな、のちの今川義元公こと栴岳承芳、もう片方は承芳より2歳上の異母兄にあたる玄広恵探である。

 恵探は承芳と同じく、幼少で出家して花倉の遍照光寺の住持となり花蔵殿と呼ばれていた。

 恵探の生母は氏親の側室で今川氏の重臣福島氏の出身だった。この福島氏が恵探を擁立して氏輝の後継者に推した。

 対する承芳は師の太原雪斎が推し、岡部、朝比奈、三浦と言った歴々の重臣たちが支持した。ただし奇妙なことに承芳の生母であるはずの寿桂尼は恵探を支持したようである。この点についてもあとでまた検討する。

 このとき承芳は18歳、恵探は20歳だった。

 

 今川家臣団は承芳派と恵探派に分裂して駿河遠江の各地で内戦になったらしい。承芳派の動きは素早く、5月には幕府から家督相続の承認を取り付け、将軍足利義晴から偏諱を賜り還俗して義元と名乗った。

 恵探は5月25日に生母の実家福島氏とともに挙兵して駿府館を襲撃するも敗退、同盟国の北条氏の支援も取り付けた承芳派は6月に花倉城を攻め恵探は自刃、福島氏も滅亡した。

 

河東一乱

 花倉の乱を制して家督を継ぎ、今川氏第11代当主となった義元公だが、翌天文6年(1537年)2月、これまで抗争関係にあった武田信虎(信玄の父)の娘、定恵院と婚姻を結んで駿甲同盟を成立させ、氏輝以前の外交戦略を180度転換した。

 武田氏は花倉の乱の際には承芳を支持しており、氏輝の死の直後、もしかしたらその以前から同盟交渉が水面下で進められていたのかもしれない。

 

 氏親の代から共闘関係にあり姻戚でもあった北条氏はこれを同盟違反と見做し、同月のうちに駿河に侵攻して富士川以東一帯を占領してしまう。

 花倉の乱で恵探派に与した堀越、井伊氏と言った遠江の国人が離反して挟撃される形になった義元公は北条氏に対抗できず、天文14年までの8年間にわたって北条氏による河東地方占領は長期化し、今川氏は親武田氏路線を強めていく。

 

 義元公と定恵院の結婚の4年後、義父の信虎が嫡男晴信に追放されるクーデターが起きた。

 信虎が娘の定恵院と婿の義元公と面会するために駿河を訪れた際、晴信が甲駿国境を封鎖し、父の追放を宣言して家督と甲斐守護職を相続したのだ。

 義元公と晴信のあいだには事前にこのクーデターへの合意があったらしく、信虎は今川氏の庇護下に入り駿河に寓居することとなった。

 こうしてみると義元公の親武田外交の対象は、信虎よりも晴信だったのではないかと思えてくる。この一連の甲駿同盟を武田方で主導したのが駒井高白斎、今川方はもちろん太原雪斎だった。

 

 さらにその4年後の天文14年(1545年)、義元公は北条氏の政敵扇谷上杉氏と連携して河東地方の奪還を試みる。

 北条氏の拡大に危機感を募らせていた山内家と扇谷家の両上杉氏、その影響下にある関東諸将の大軍が武蔵河越に侵攻して、北条氏を窮地に追い込んだ。

 北条氏は氏綱の子氏康の代になっていたが、さすがにこれには単独で対抗できず、武田氏の仲介で今川氏と和睦して河東を返還、その甲斐あって戦国三大奇襲のひとつに数えられる河越城の戦いで上杉連合を壊滅させ、扇谷上杉氏は当主が戦死して滅亡、関東での北条氏の優位は決定的となった。

 

 この和睦によって8年に及んだ河東一乱は終息し、義元公の家督争いに端を発した一連の抗争もここに一応の終結をみるのである。

 

(続)

 

海道の修羅

 

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