勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

【東京地政学③】川崎ノーザンソウル/多摩川リバーズエッジ

ダンスフロアーに 華やかな光

僕をそっと 包むようなハーモニー

ブギー・バック

シェイク・イット・アップ

神様がくれた

甘い甘いミルク&ハニー

 流行歌という以上に、その時代に生きた人間が呼吸した空気を表象する曲というのが、かつてはあって、80年代は多分サザンの『いとしのエリー』、90年代は小沢健二スチャダラパーの『今夜はブギー・バック』だと思う。

 

 80年代でもサザンじゃなくてユーミン山下達郎、90年代なら安室奈美恵浜崎あゆみだというひともいるだろうが、特に渋谷系もヒップホップも通過していない私にとっても当時からどこかノスタルジーを抱かせたこの曲は、やはり特別な曲だと思う。

 

 オザケン安室奈美恵のようなポップアイコンではなかったが、小澤征爾の甥で東大文Ⅲという筋目の良さで渋谷系を代表する存在だった。

 と言っても、フリッパーズギターは多少聴いたが、いまだに私はなんとなくオシャレっぽくて軟弱な音楽としてしか渋谷系を理解しておらず、熱心なリスナーとは言い難い。スチャダラパーについても、なんとなく鼻につくオザケンよりは好感をもっていたが、ヒップホップがわからない私にとっては馴染みの薄い存在だった。

 この頃の私が熱心に聴いていたのはアル・ユルゲンセンやトレント・レズナーみたいな無機質なインダストリアル・メタルで、だからいま思えば渋谷系に対する感情は、お洒落で軟弱そうな奴がもてはやされていることへの僻みもあったかもしれない。

 

 オザケンは自分を“川崎ノーザンソウル”と呼んでいたらしいが、ソウルミュージックのソウルということではなく「川崎北部の無気力人間」というような意味だったらしい。

 彼は私の6年上で、川崎市多摩区の県立多摩高校に通っていた。中学は和光だというから、住んでいたのは麻生区あたりじゃないかと思う。

 川崎には7つの行政区があり、多摩区はその最北端、私の住んでいた宮前区も北部に属していた。

 

北部

 多摩区

 麻生区

 宮前区

中部

 高津区

 中原区

南部

 幸区

 川崎区

 

 多摩川に沿って北西から南東に向かって多摩区高津区中原区幸区、川崎区と並び、麻生区多摩区の西側、宮前区は高津区の西側に位置する。

 

 北部は小田急が開発した地域で、新宿から小田急線で世田谷区成城を抜けて狛江市で多摩川を渡り、登戸向ヶ丘遊園がある辺りが多摩区だ。その先は麻生区新百合ヶ丘で、和光や玉川大学のある学園都市に続き、町田市相模大野に至る。

 だからオザケンはのちに“渋谷系の王子様”になるが、高校時代に都内に出るのは新宿だったんじゃないかと思う。紀伊國屋サンリオ文庫を万引きしたって言ってたし。

 私の住んでいた宮前区も位置的には北部に属するのだが、通っているのは田園都市線で、その意味では高津区などの中部から渋谷へと繋がっており、小田急沿線との交通はほぼ皆無である。ただ多摩丘陵に連なる坂の多いベッドタウンという風景は北部のそれなんじゃないかと思う。

 

 中部には2系統あり、どちらも渋谷に接続している。

 ひとつは渋谷から東横線で目黒区自由が丘などを通って中原区武蔵小杉、その先は日吉横浜にでる経路で、これは都内から横浜に向かう主動線になっているので、近隣住民以外にもよく知られたルートだと思う。

 もうひとつが渋谷から田園都市線二子玉川多摩川を渡り高津区溝ノ口、宮前区鷺沼に出る路線である。このルートはたまプラーザ長津田など横浜市青葉区緑区を経て大和市中央林間に至る。溝ノ口や梶ヶ谷のある高津区は赤羽や王子にちょっと似た感じだが、宮前区に入ってからは延々と住宅地が続く。こちらは住んでないとまず使わないだろう。

 

 武蔵小杉のある中原区の南、多摩川下流域が幸区と川崎区の川崎国、いわゆる川崎サウスサイドで、湾岸の工業地帯のイメージの川崎はこの辺りである。川崎駅の西口が幸区、東口が川崎区で、JR京浜東北線京急本線で蒲田、大森、品川といった東京の湾岸地域と接続している。

 

 これらの各地域を接続するのが、JR南武線で、北部では登戸、中部では溝ノ口と武蔵小杉、南部では川崎で私鉄と接続している。

 いまはラゾーナ川崎などの商業施設もあるので中原区辺りに住んでいたらわからないが、北部に住んでいたらまずサウスサイドに行くことはない。新宿や渋谷に出る方が全然楽だからである。サウスサイドの連中もまず川崎からは出ない。生活圏やアイデンティティという意味で、サウスサイドとそれ以外の地域にははっきりと距離があると思う。いわゆる川崎南北問題だ。

 

 スチャダラパーのアニとシンコは兄弟で、高津区の出身である。だからざっくりと言えば、『今夜はブギー・バック』は川崎ノースサイドの風景から生まれた曲と言ってもいいんじゃないかと思う。その風景というのは多摩川と郊外だ。

 

 私は世田谷から多摩川を渡って川崎ノースサイドに移り住んだが、宮前区はオザケンの北部以上になにもないところで、当時から小田急沿線に比べて東急沿線は開発が遅れていた。ひたすらに家が建っていた。

 世田谷も人間を飲み込み続ける東京から溢れた人口を収容することでできた土地で、似ているところもあるのだが、ただ時間の蓄積が違うので、まだ世田谷には風土と呼べる歴史があった。都心ではないが郊外でもなかった。

 その点、多摩川を超えると明らかに郊外なのである。均質に住宅が並び、それでも暮らしていけるのは都内へのアクセスがそこそこいいからで、この地域の人口を賄う産業も商業もなかった。生活圏を構成させる多様性がない、それがベッドタウンということであり、郊外ということである。宮前区には人口20万で高校は1つしかない。田舎というのも違う。寝に帰るだけなのである。横浜までいってしまえば、そこには東京とは別の生活圏があり、多摩川沿いは東京でも横浜でもない周縁が広がっていた。

 

 私は17歳で引っ越して、既に練馬区の高校に通っていたから、田園都市線で渋谷を経由して九段下に出て、そこから東西線高田馬場から西武新宿線に乗り換えるのが通学路になった。

 片道1時間以上かかるということより、帰っても何もないから都内で過ごす時間が多かった。音楽やると結構金がかかるんで新宿の余丁町にあるスーパーで働いた。宮前区にはバイトするようなところもなかった。ヴァージンメガストアレコファンでCDを毎月何万も買って、学祭とかに出るダサい真似はしなくて高円寺や西荻のライブハウスに出た。かと言って、将来ミュージシャンになるみたいなことも考えなかった。そこまで才能なかったし、そんなに頑張れないとわかっていた。なんとなくワイワイ過ごしているうちに高校生活が終わった。

 附属校だったんで、そのまま大学に進学した。大学は早稲田にあったんで西武新宿線に乗らなくてよくなった。バンドはなにかひと区切りついた気がして、あんまりやらなくなった。サークルに入ってまた1年生ですみたいな顔して始める気もなかった。仲間がそれぞれバラバラの学部に進学したせいもある。声をかけて集まるほどの執着があったわけでもなかった。周りはみんな高校のときにちゃんと勉強して受験に合格して入ってきて、これから大学生だというときに、こっちはもう4年目の気分で、まだやるのかこれからどうしようみたいな感じだった。

 Boogie wonderland という新歓しかしないサークルをつくって、横浜のデニーズに当時流行ったナタデココのブルーベリー味があるといって車で出かけて金がなくなって飯食わないでナタデココだけ喰って帰ったり、デスドライブとか言ってヘドバンしてたら事故ってパンバー凹ませたりしていた。

 相変わらずスーパーで働いて、閉店まで働くとその日に廃棄する分の寿司が貰えた。文学部のキャンパスに持って帰って、まだ残っている仲間と分けて喰った。大学の近くに下宿している級友の家に溜まったり、当時夏目坂にあったデニーズで15杯とかコーヒーをお替わりしながら12時間くらい時間を潰した。

 すべてが希薄だった。全部自覚していた。それでも過ごせたのは、そこそこに豊かで、モラトリウムというほど閉じてもいなかった。多少の息苦しさはあったが、息が詰まるというほどでもなかった。

 

 だから『今夜はブギー・バック』の気分は私にもあった。オザケンが“無気力”と呼び、スチャダラが“脱力”した希薄さが私にもあった。宮台の“終わりなき日常”を私も生きていた。なんでもそこそこで、すべてがなんとなくだった。

まぼろしの郊外―成熟社会を生きる若者たちの行方 (朝日文庫)

 一昨年に二階堂ふみ主演で映画化された岡崎京子の『リバーズエッジ』、あれも多分多摩川の河原なんじゃないかと勝手に思っている。岡崎は下北沢の出身だし。

 この作品に漂っていたのも渋谷とか新宿とかの区別なく、みんなが浸っていた空気だった。河畔の団地が舞台で、それぞれなんとなく付き合っていて、カンナが焼身自殺してもハルナが引っ越すときには観音崎と自然にバイバイできるくらいに、やはりみんな希薄だった。なにかに執着するということが、とても難しかった。それぞれがバイセクシャルや拒食症だったりしたが、踏み込むほどではなかった。スティーブン・キングの『スタンド・バイ・ミー』みたいな感じだった。21世紀の生きづらさを予言していたなんて言われたが、むしろあれは90年代そのものだったと思う。なんとなく、すべてが多摩川に収斂するような気がする。それは郊外の風景だった。

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

 私は17歳で多摩川を越えて川崎のベッドタウンで寝起きして、新宿界隈で時間を潰していた。田園都市線沿線に住んでいたのに渋谷系には属さなかった。IWGPのような強い身体性をもった地元というのはなくなっていた。高校から一緒に進学した連中と、その他に何人か大学で知り合い、かといって大学生というほどの存在ではなかった。大学に籍を置いてはいたが、フリーターのような希薄な存在だった。それでも生きていられたが、結局2年で大学を中退した。かっこよく言えば“終わりなき日常”を終わらせてみたくなったのかもしれないが、すべてはなんとなくだった。あと2年(よりかかったかもしれないが)務めて就職活動して…というのが途方もなく長い時間に思えた。ついでにスーパーも辞めた。