勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

人類観のコペルニクス的転回(2回目)とピリオダイゼーション一般理論

 あんまり、というかほぼ全く自分の仕事について書いたことがなかったですが、この3月末を以って6年のお務めが終わったんで、我ながら節目だなぁと感じるところもあり、つらつらと思うところを書き留めておこうかと思い立ちました。日記ってそういうものなんでしょう、多分。

 

 別にいま勤めている会社を辞めるわけではなくてですね、所属部門が変わるっていう、ただそれだけと言えばそれだけの話です。

 2015年4月に8人ほどのチームを預かることになり、それから半年毎くらいに兼務が増えていって5チームくらいになって、結局2年前から部門全体、多いときで150人くらいを預かることになり、めでたくこの3月末でそのお務めが終わって、なんだかんだで6年間所属したいまのチームを離れるということなんですが、あれですね、仕事でもなきゃこんなに多勢の人間に関心をもつ機会は一生なかったでしょうね。

 

 それまで中間管理職なんかやったことなかったんで「え、おれ?」って感じで、当時の上司に「これ断れないんですか?」と聞いたら「断れません」と返ってきたんで、「おぉこれがサラリーマンってやつかぁ」と思って、ちょっと面白くなっちゃって、謹んで拝命することとなりました。

 自分なりに大体こんな感じでやろうというイメージはあったものの、当時も今も「わかる奴は説明しないでもわかるし、わからん奴は説明してもわからん」と思ってるんで、もういいやと思って「とにかく言われた通りやれ。それで駄目ならおれが阿呆だったというだけなんだから、ツイてなかったと思え」という感じで始めてみました。

 で、それまで「結局自分でやるのが一番簡単」と思って生きてきたのが、ひとにやらせるのが仕事になって、やっぱりやりながら気づいていったことというのがあるわけです。

 「わかる奴は説明しないでもわかるし、わからん奴は説明してもわからん」というのは少し足りていなくて、どちらかというと「わかる奴は少しやらせると結構わかる、わからん奴は何してもわからん」なのかなと。

 

 最初に考えたチームのコンセプトに「仕事の報酬は仕事」というのがあって、ようは一つの仕事が終わるたびにまた次の仕事の売り込みをして…みたいなことを延々と続けるの嫌だなと。そこにかける労力自体は仕事を取るというところに溶けていってしまうし、そこで余裕を失うと何かをアップデートすること自体が出来なくなる。

 一つの仕事をしたら「それができるならこれもやってくれ」という形で、どんどん仕事が連鎖していくようにしたいなと考えていて、そのために大事なことは予測だなと。マーケットがどうなっていってクライアントはこうだから、次に必要となるのはカクカクシカジカだという予測に基づいてチームデザインをする。局面が変化したときに既に準備ができているというところを目指したいなと。もちろん個としての能力がないと準備ができないんで、そこは個々人の資質や努力に依存しちゃうんですけど、予測があるとリソース自体の無駄が減るんで個の能力に還元されるところはあるなと思います。空振りが減るというか。いずれにしても予測と準備というのは、もともと自分がプランナーだから、自然な発想だったということもあります。

 

 いまチームデザインと言ったけど、これはやりながら整理されていったことで、当初は予測に対するアウトプットが何かというのはあんまり整理されていなかったように思います。

 予測と準備ということはかなりはっきり意識していたけれど、それが結局チームデザインだなっていうところに着地したのは、ここ2〜3年くらいですかね。

 予測というのはどうやったって揺らぎが含まれるのでサービスやプロダクトみたいな考え方をしちゃうと、その揺らぎに対する冗長性みたいなものに限界があるんですよね。それに対してチームデザインということだと、それはもともと揺らぎを含んだ人間の集団なんで、割となんとかなる。そういうファインディングの積み上げですね。

 

 でも、こういうことを最初にバーッと説明して全部理解して自分で考えて行動しなさいとか、ほとんど無理ゲーだと思うんですよ。自分でもやりながら考えている部分もあるわけで。

 でも以前の自分というのは相手にバーッと説明して、なんだできねえなとなって「なんで理解できねえんだよ頭悪ぃな」という感じで、もう相手するのがめんどうくさくなるっていうのを繰り返していたように思います。

 

 なのでもう説明すること自体、理解させること自体をやめようと思ってやってみたら、やらせてみて予測通りのことが起きると「なんでや?」と考え始める奴が出てくる、そいつに局地的な説明をすると、わりと理解して全体像についてもイメージを徐々につかむようになるということに気づいたんですね。

 そこらあたりから、誰にいつどんな体験をさせるかということに凄く神経を使うようになりましたね。あるタスクをやらせてみて「どや?」って話してみて、まだピンときてねぇなと感じたら「じゃあ次これやってみて」、あぁいい感じになってきたと思ったら「じゃあ今度はこれ」みたいな感じで調整していく。

 基本的な予測というのは自分の頭の中にあって、それ自体を全部話すことはほとんどないんだけれども、何かをやらせてみてそこでそいつが何を感じたかで体験設計の調整をする。わりとそういうことで、どういうことがやりたいかみたいなことは浸透していくという感触があったし、そこからのF/Bから自分自身の予測ま修正していく。結局、身体で覚えるということなんでしょうね。

 本人の体験に基づいた裏付けがないとインプット過剰になってマニュアル野郎になったり、やたら教条的というか誰かが言ってたことを連呼するコピペ野郎になっちゃうんだと思うんですよ。不幸ですね。いや幸せは人それぞれですけども。

 

 どうやって全体を部分に分割して、それを体験として配分するかみたいなコンセプトは、サッカーのゲームモデルとピリオダイゼーション理論を一般化できないかなというところから着想したんですけど、面白そうだからもう少し標準化すべきなんだろうなと思いつつ根気が足りません。

 

 そんなこんなで、10年前の自分は「人類の80%は手遅れで何をしてもどうにもならない」と思ってましたが、いまは「人類の80%くらいはやりよう次第ではどうにかなる」と考えるようになりました。もの凄いパラダイムシフトだと思いませんか。

 人間って、当然もって生まれついた資質っていうものがあって、それはもう選べないという意味では運なんでしょうけど、でもそれはほとんどの場合は五十歩百歩の違いしかなくて、ほんとの天才ってそうそういないと思うんですよ。環境要因もガチャっちゃガチャなんですが、少なくとも決定論的になり過ぎる必要はなくて、ある一定以上の可能性は常にある(80%くらいは)というふうに考えた方が組織論的には収穫が多いなと、そういうふうに考えるようになりました。

 言い方変えると80%が一定の水準のパフォーマンスを出すことが大事で、最大多数の最大幸福が大正義というか、でも意外にこれも受け入れられないんですよね。20%のことばかり言い立てて、結局そいつらのせいにしたりしてね。80%がパフォーマンスすれば残り20%の居場所も作れると思うんですけど。

 

 数年かけて進行したんであんまり劇的な瞬間はないんですけど、人類への見方がコペルニクス的転回をする経験したのは、20年くらい前にマサイの選手と2週間くらい過ごして「人類ってこんな垂直に飛べんだ」と度肝を抜かれたとき以来でしたね。

 振り返ってみれば、大体は面白い6年間でした。お付き合い頂いた皆さん、ありがとうございました。