勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

不安と不満のBS

士郎正宗サイバーパンク作品『攻殻機動隊』にはいくつかシリーズがあるんですけども、そのうちのひとつに掲題の『Stand alone complex 』というのがあります。

 

やや意訳すると「独立した個の集合体(としての全体=個)」というような意味になると思うんですが、ようは各々が連絡を取り合ったり連携したり、あるいは互いの存在自体を認識していなくても一体の個であるかのように振る舞う集団を指していて、作中では具体的には「笑い男」というテログループに対する表現だったりします。

 

当初は組織犯罪という想定で捜査をするんですが、捕まえた犯人同士の間に共通項がなく、にも関わらずそれぞれは「笑い男」として犯行を重ねていく、一連のサイバーテロの主体となる集団・組織というのはなく、「笑い男」はただ現象としてのみ可視化される。模倣犯の連鎖という見方もできる。いわゆるセル型組織という911以降に顕著になったテロリズムの形態に対応している。

 

まぁなんでこんな話から始めているかというと、Stand alone complexというのはテロリズムのような特殊領域の組織原理ではなくて、もう少し普遍的なものなんじゃないかなと思うんです。

 

ある一定以上の玄人というのは原則的にStanad alone complex だと思うんですよ、サラリーマンかフリーランスか、受注側か発注側か、そういうことに関わりなく。

 

仕事をしていて一定以上の玄人が集まれば、初対面でもすぐにその場で仕事に取り掛かれる、一々共通言語をつくったり認識合わせや申し送りとか、殆どいらない。だから玄人の集団は原則的にStand alone complex になるわけです。

 

多分、玄人の仕事って業種・職域を問わす、そんなに何種類もなくて、自ずと同じやり方になるから、一々すり合わせる必要って、ほんとはない。我が身を振り返ってみても、他者から学ぶことは大いにあっても、誰かからなにかを習った記憶って殆どない。恐らく、玄人というのは本質的には模倣犯なんじゃないかなと。

 

同じ会社だったり、長い間一緒に仕事をしてなくても「こいつにこんくらいインプットしておけば、あとは自分でこんくらいまではやってくるだろう」という見立てでスイスイ進められる。だから仕事を進める上でのストレスというのが非常に少ない。だから仕事するのが平気だし、楽しい面のほうが多くなる訳です。

 

ところが「習ってないからわかりません」「聞いてないからやりません」という人は絶対にいます。というか人間の8割はそうです。だからこれは全然悪いことだったり、なにかが劣っているということではなく、ただ単にふつう、標準的、アベレージ、平凡なだけです。

 

でもこれは最近そう思うようになっただけで、私も若い頃は違いました。まだ未熟な自分にはそれは怠惰や努力不足に思えたんですね。若気の至り。だから「おれがこんだけやってんのになんでてめえはそんなことやってんだよっつうかやってねえじゃんかよなめてんのかよふざけんなよ殺すぞっつうか死ね」みたいな感じでキレてばかりいたわけです。

 

この違いがどこから出てくるのか近年考え続けてもまだ答えはないんですけども、傾向として析出できるのは、玄人は不安に強く不満に弱い素人は不満に強く不安に弱いということかなと。

 

物事がスイスイ進まないと物凄くストレスだと思うんですよ、少なくとも私はそうなんです。物事が決まらないことも進まないこともイラつくし、時間の無駄や何度も同じことするのも耐えられないし、アンコントローラブルなことにも我慢がならないわけです。正直、よくそんな状況に耐えられるなと感心するわけですよ。

 

で、そういうストレスっていうのは表現としては不満なんだと思うですね。不満というのは通常外部要因に向けられる。自分に不満を向けると「じゃやれや」と自己完結しちゃうから。

 

だからストレスが外部要因に向かうと不満になるんだと思うんです。で、外部要因というのは定義上自律的に解消できないから外部なわけで、だから不満というのは自律的にはなくならない、定義上そうなる。これに耐えられる人っていうのは不満に対する耐性が強いんだと思います。私は無理。不満は原理的に自律的には解消できないから、不満人のインセンティブ「なにかをしなければしないほど不満が減って得」という方向に働く。

 

一方、ストレスが内部要因に向かうと、これは「じゃあ自分やれや」になる。できないやらないということだと、これは自分の弱さや能力不足だから、これはアイデンティティ・クライシスなわけですよ。また決める・前に進めるということは、言ってみれば未来を確定するということです。でもどんだけ気合いれてなにかを決めても実際にはそうなるかはやってみないことにはわからないから、決めるということの不安は原理的には解消できない、努力によって減らすことはできてもなくすことはできない。

 

些末なこと、たとえばアポをとるとか、そういうことすらなかなか迅速にできないのは未来を決める、実際そうなるかどうかわからないことを確定する不安に対する耐性がないからなんじゃないかなと。腰が重い人ってそういうことだし、やらないことに特に理由はないから、強制的にやらせるになる。だから言われたことしかしないからやたらと不効率なんだけどそこから発生する不満ストレスに対する耐性は高いから、とりあえずそれで乗り切れる。

 

一方、不安人というのはもともと何かにつけて不安で、かつそのストレスが内部要因に向かうら、自分があれこれ際限なくやってその不安を減らす方向にインセンティブが働く。原理上予期不安というのはなくすことはできないので、神経症的な仕事の仕方をする。不安のない仕事というのは未来が限りなく確定している(と思える)仕事になるので、できるだけルーチンなものになる。不安人は不満に対する耐性がないので、これは続かないから不満より不安を選んでしまう。

 

概ね玄人といえるような人間て、不安人のような気がするんです。恐らく不安を減らす方向にインセンティブが働くので「やらないと不安だからやる」ということになって、かつそれなりに職能的に目標が共有できていれば、「やる」のベクトルも大体同じなんで、結果として部分最適の集合が全体最適にかなり一致してくる、これがStand alone complex の様相を呈してくるんだと思うんです。

 

こういう違いって誰かに習うものというより、行動インセンティブの違いなんで、多分強いて言えば学ぶしかない類のものなんじゃないかなと。我が身を振り返っても、あえて言えば周り(のなかで仕事できる人)はみんなそんな感じだったから自分もそうなった、としかいいようがない。

 

体感値的には不安人と不満人の割合は2:8くらいなんで、全体としてはそういうバランスで社会というのは何かしら均衡するもんなんだと思うんですよ。この割合を3:7とか5:5とかにすべきなのかどうかは、まだ今ひとつ自分でもわからないけど、最適バランスは集団ごとにある気がします。どっちがいいということではないかもしれないんだけど、不満人がいいですはどんどん言いづらい世の中になっている気もする。

 

我が身を振り返ると愚痴をこぼしたような記憶ってほんとになくて、恐らく不満人の愚痴に該当するものが怒りだったり攻撃だったりしたんじゃないかなと、あくまでこれは個人として。そういう人間ばかりの世の中を望んでるわけでもないし。

 

不安人と不満人の違いが先天的なものなのか、文化的なものなのか兎も角、人間の価値観や生き方を変えるのはとても難しいので、基本的には行動インセンティブをどう設計するか、なんだと思います。ある程度賢い人はインセンティブを理解できるから得な方向に動く。難しいのは馬鹿で、馬鹿は行動インセンティブを設計してもそれ自体が理解できない(馬鹿の定義上、なにが自分にとって得か合理的な判断をしない)ので、これは別のマネジメントが必要になって、いろいろ組み合わせると2:8というのが一般的な最適バランスなのかなと。一種のBSのような管理の仕方ができるのかもしれないけど、そこまで考えるべきなのかどうか←イマココ。