勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

歩のない将棋は負け将棋

先日、私の勤め先で360度評価研修というのがありまして、例年は入社2年目の若手社員にやっているトレーニングで、上司と同僚から任意に数人を抽出し、対象者の良いところ悪いところをサーベイをとって、それをベースにワークショップとグループワークをして自己開発計画を立てると、大体そんな感じなんだと思います。

 

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例年は部下の360度評価をやっておるんですが、今年はマネージャーも対象ということで、事前にサーベイをとって管理職だけ丸1日集められてやりましたよと。

 

2年目社員の研修に同席したことはないんで漏れ伝わってくる伝聞だけなんですけども、結構自己評価と他者評価が乖離する場合があるらしく、まぁそいつの性格にもよるんだと思いますが、ときとして阿鼻叫喚の生き地獄を現出することもあるそうで、いやほんとに若さっていいなと。

 

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そもそも自己評価と他者評価の乖離を抽出して、そこから自己開発計画を立てるのが研修の趣旨なんで、まぁ乖離がある方が研修としては実りの多いものになるんでしょうけれども、やっぱり年功序列があるわけでもないベンチャー企業で中間管理職をやってるような連中だとそんなにないんですよね、自己評価と他者評価の乖離なんて。

 

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ベンチャー企業なんて外部環境だって内部環境だって目眩く変わっていくし、別に大概標準化されているわけでもないんで、個々の裁量でえいやでやっていかなきゃ立ちいかないことばかりなわけですよ。そういう意味で、まぁ意外に目配り気配りの世界なわけで、周囲の思惑や意図を忖度しないで仕組みで勝手に進んでいってくれることなんて大概一つもないんですわ。

 

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研修の趣旨を勘案すると、自己評価と他者評価の乖離を止揚するというのは、いわば他者性の内面化という主題であって近代的自我の獲得過程の再現なり反復であると。

 

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他者性というのは自己と異質である人格として定義されるので、会社にしろ社会にしろそういう絶対的な他者が共存するためのシステムとして設計されているわけだから、家庭なり学校なりから他者性を内面化するイニシエーションを徐々に経ることで社会なり会社なりに飛び込んでいくのを大人になる、成熟するというわけです、良し悪しはともかく。そういうイニシエーションがうまく機能しないまま歳だけ喰うのをDQNだったり意識高い系と言ったりするんじゃないかと。

 

「おれがおまえでなくておれである」という認識は「おまえ」という対象が「おれ」の意識のなかに内面化されないと生まれない、でも「おまえ」というのは「おれ」ではないからそう意識されるわけで、そういう他者の内面化というのはそもそも矛盾であり無理ゲーであって、ゆえに近代的自我というのはつねに不安定な状態とのあいだを反復する運動として描かれる。360度評価というのは、その運動を自覚的に再現することで自我の認識を更新する作業なんだと思うんですよ。

 

で、中間管理職というのは他者が共存するシステムを維持するエンジニアみたいなもので、本来自分自身はシステムの内部(従業員)以外にあり得ないのに、その内部(部下)に対しては外部(上司=会社自体)として振る舞う両属的な位置につねにさらされざるを得ない、そういう人間の天然自然に反する仕事ではないかと。だから標準化や形式化はできるようでできなくて、突き詰めていくほどひとり一芸になっていく、そういう意味で人格に依存するところが大きいんじゃないかと。

 

中間管理職にそれなりに熟練すると自己評価と他者評価の乖離が小さくなるのは、そもそも自分の人格というものに手法が依存せざるを得ず、それ以外やりようがないがゆえに極めて自覚的に手法を選択するようになっているから、自己評価と他者評価が一致するのは当たり前なんですね。裏を返せば自己評価と他者評価の乖離が大きいのは、やっぱり中間管理職としては未熟か、そもそも向かないのかもしれませんな。

ようは自己評価が仏で部下評価が鬼だったら、それはナチュラルボーン鬼ですよと。でも自覚的に鬼を選択して鬼という部下評価だったらそこに少なくとも乖離はないわけで。

 

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研修の話に戻ると、グループワークをする都合で組分けをしたんですが、意図的なのかどうか私のグループはわりとシニアクラスのマネージャーばかりで、新鮮味に欠けるというか、いつも飲み屋で話してる会話の延長みたいな感じだったんですけども、まぁやっぱりみんな乖離が少ないわけです。それでも一応大人の集まりなんで何某かの話を色々して、これまで書いたようなところに着地したと。それはそれで、ちょっと研修の設計とは違うんだけど、まぁいいか。

 

で、我が身のことについて最後に触れると、掲題にあげた歩のない将棋は負け将棋というのは、同僚のTEさんから頂いたアドバイスで、自分に向けられたアドバイスとしては近年記憶にないくらい秀逸だなと思うわけです。

 

我が身を振り返れば、仕事柄というかスタンドアローンな人間で、いわば「ようは王手取ればいいんでしょ」と思ってずっと20年も過ごして来たわけですよ。

 

上司だ部下だ同僚だと言われてもリソースとしてしかみていないし、戦力としてどう配置するかという視点しかない、そういう人間にできるマネージメントしかしていないわけです、いまも。

とはいえ、それほど利己的な人間というわけでもなく、ようは勝ち負けにしか関心がないだけで、ここ数年でいわば立場や役割が変わったことでゲームのルールが変わったというか、散々遊んだゲームを違ったルールでやり直す面白さみたいなのを感じてはいる。そういう最近の自分の気分というか、チェンジルールのところをうまく射抜いてくれている言葉だなぁと。

 

もっと言えば、歩が飛車角になっていかないと負けなんですよね、いまの自分の勝負としては(結局あんまり歩自体に関心はない)。