勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

【東京地政学④】木賃ベルト地帯/市ヶ谷ベース

 私は成人式にでていない。「成人式なんて出ねえぞ」とか気負っていたわけでもなく、単純に意識から溢れていた。生まれからすると平成7年1月の成人の日だったはずで、その日は例のごとく余丁町のスーパーで働いていて、店のひとに言われてはじめてその日が成人式だと気づいた。店長夫妻がいいひとたちでわざわざフォトフレームをプレゼントしてくれた。

 

 そもそも自分が成人式を意識していなかったんだが、そのタイミングがなかったせいもあって、なぜかというと17歳で引っ越して都内の高校大学に通っていたから、20歳当時に住んでいた川崎市宮前区には同級生のような存在が皆無だったからだ。いま考えれば、たとえ意識にのぼったとしても1人で誰も知らない川崎市の成人式にでることは、やはりなかっただろうとおもう。

 

 いまさらながら令和2年の川崎市の成人式がどうなっていたのか調べてみると、中原区とどろきアリーナで行われて、午前の部が川崎区・幸区中原区高津区で、午後の部が多摩区麻生区・宮前区だったらしい。なんかわかる。

 

北部のひと

中部のひと

南部のひと


 ともあれ、私の成人式があるはずだったのは平成7年、西暦でいえば1995年だ。もう四半世紀も昔のことなので記憶の前後関係が曖昧だが、記録によれば成人の日(当時は15日に固定だった)の前日に坂上忍が当て逃げで現行犯逮捕され、翌々日の17日に阪神神戸大震災が起きた。

 

 その日の朝、私は出がけにテレビの速報を横目でみただけで、「ああ、関西で結構大きな地震があったんだ」くらいに思って実家を出たのを憶えている。当時の私はまだ大学に通っていたはずなので、だから恐らく高田馬場に向かったのだろう。そのあと余丁町のスーパーで閉店まで働いて帰宅したのは深夜近く、帰ったらテレビで火の海になっている長田区が映っていた。それまで神戸の長田区なんて名前も知らなかった。本当にそのときまでそんな酷いことになってるとは気がつかなかった。当時はスマフォもなかったし、号外とか出ていたのかもしれないが大学でもスーパーでも地震の話は聞いた記憶がない。まだインターネットはほとんど普及していなくて、だから当時の情報の伝播速度はそんなものだったのかもしれない。

 

 阪神大震災で90年代の不穏な剣呑さが急に可視化された気がした。3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。それまでは飛び切り痛々しい奴らというだけだったのが、ほんとうに大量殺人のテロリストになった。大学を辞めたのはこの頃だった。

 

 我ながらノープランだったが、まあとにかく働いて家を出ようと思っていた。なんのあてもなかったので、anとかを買ってきてとりあえず取っ払いの日雇いバイトを探した。五体満足なら馬鹿でもできる単純労働ばかりだったが、その代わり誰でも仕事は貰えた。

 イベントの設営や警備、債権回収の下請けで廃棄物回収なんかをやった。飛んだ会社の事務所に入って、要は片っ端から捨てていく。さっきまで誰かがそこにいたみたいなオフィスで什器以外の私物も備品もどんどん捨てていく。なるほど飛ぶというのはこういうことかと思った。

 なんだかんだそんな生活を1年近く続けてみて、これは拉致が空かないなとようやく気づいた。全然収入が安定せず、家を出るどころではなかった。だからみんな定職に就こうとするのか。当たり前のことをやってみるまでわからないのが私の痛々しいところだった。

 いつまでも親の脛を嚙るわけにもいかねえなと考えていたときに、実家の郵便受けに「あなたもテレビ業界で働きませんか」みたいな往復葉書が入っていた。特にテレビっ子というわけではなかったし、なにかクリエティブな仕事がしたいとか考えていたわけでもなかったが、離職率の極めて高い業界であることは知っていたし、それならとりあえず入ることは容易いだろうと考えて葉書を送り返した。

 

 案の定、簡単に入れた。

 

 「じゃあすぐ来て」と言われ、ようやく曲がりなりにも月給取りの職を得て、めでたく実家を出ることになった。引っ越したのは中野区弥生町というところだった。

 

 弥生町には結構長いこと住んで、多分9年くらいいた。最寄駅は丸の内線方南町支線の中野新橋中野坂上も歩けないことはなかった。

 なぜここを選んだかというと、就職したのがフジテレビ系列の番組制作プロダクションで、当時はまだフジテレビはお台場に一部移り、一部は河田町の旧社屋に残っていたので、私の入った会社もまだ都営新宿線曙橋にあったからだ。比較的仕事先にアクセスがよくて、かつ丸の内線沿線は支線の側だと家賃がやや下がるという諸条件の着地点が弥生町だった。

 

 この街は神楽坂をすべてにおいてスケールダウンさせたような感じで、中野新橋駅の前を南北に緩やかな傾斜のついた商店街が通り、駅の側で東西に神田川が交差していた。そこにかかっている小さな橋が新橋だそうである。

 どういうわけかお笑い芸人が多い街で、グレート義太夫が嫁さんだか彼女だかを連れて歩いているのをよくみかけた。ダンカンもいた気がする。たけし軍団ばかりだが。

 借りた部屋は駅から10分くらい歩いたところにあるワンルームのアパート、6畳くらいでユニットバスとちっさな冷蔵庫、一応エアコンもあって家賃は確か6万、まあ上等な部類だろう。1畳くらいのロフトがあったんでワンルームでも若干スペースがあったのと天井が高いのがわりと気に入った。風呂は狭かったんで、よく近所の銭湯に出かけたが、X-GUNの太ってる方(西尾)をよくみかけた。あと芸人の他には力士も多かった。なぜかはよくわからない。

 

 アクセスや家賃というほかに、中野区は私の育った世田谷区、特に三軒茶屋近辺の世田谷地域に風景がよく似ていた。中野区だと中野ブロードウェイなんかがある中央線沿線のイメージが強いだろうが、区全体としては住宅地が多く、それも低階層の借家が多い。

 木賃ベルト地帯というそうだが、高度成長期に東京で大規模な都市基盤整備が行われた際に、季節労働者を収容するために中野区付近で民間が木造の長屋みたいな借家をバンバン建てたらしく、それを木賃アパートというそうだ。地主が公共事業に従事する出稼ぎ労働者のための借家を自分の土地に無秩序に建てていったために、中野区は建蔽率が非常に高く、低階層の木造アパートが密集する景色になったらしい。この辺の街の成り立ちが、関東大震災で都心を焼け出された人口を収容した世田谷地域と似ているのだろう。

 木賃アパートは季節労働者が住んでいたために住民の定着率が低く(出稼ぎが終われば地元に帰るため)、結果としていまでも中野区は学生なんかが住む若者の街という性格を保っている。木賃アパートを建て替えた後には、私の住んでいたようなワンルームアパートが多く建ったからだ。

 

 弥生町からどういう経路で曙橋まで通っていたのか記憶が定かでなのだが、恐らく新宿で乗り換えていたはず。ドア2ドアで30分くらいだったか。

 曙橋は「フジテレビ前」という副駅名もあったくらいで、駅前から北の河田町に続く商店街も昔は「フジテレビ通り」だった。

 駅前を通っているのが靖国通りで西に進むとそのまま新宿、学生時代に私の働いていたスーパーのある余丁町にも近い。駅横の合羽坂を上ると外苑東通り防衛省(当時はまだ庁)や交通機動隊、中央大の市ヶ谷キャンパスなどがある。外苑東通りを北に進むと私がのちに住むことになる薬王寺町で、南に進むと荒木町や四谷に至る。我ながらこの辺りとの地縁は濃い。

 

 この辺りは強いて言えば市ヶ谷地域とでも呼ぶべき土地で、もともとは大名屋敷が多かったらしく軍用地が多い。いまの防衛省がある場所は明治に陸軍士官学校が置かれ、さらに陸軍省参謀本部が設置されたことで、旧日本陸軍の東京における根拠地だった。そのおかげで戦中は空襲の的になることが多く、その焼け跡が戦後に大久保や戸山といった街になっていった。参謀本部跡地はいまの防衛省であり、三島由紀夫が割腹自殺したのもここである。

 フジテレビのあった河田町はほとんどの敷地が東京女子医大だが、この土地ももともとは陸軍獣医学校だったそうだ。

 

 フジテレビのお台場移転が進むと、私の勤めていたプロダクションは、確か天王洲に引っ越した。その会社を辞めたあとも私は弥生町のアパートに住み続けた。すぐ前にコンビニがあり、ほとんどの買い物も食事もそこで済ませていた。仕事が退けたらコンビニで弁当を買って家で喰い、プレステで遊んで寝る、みたいな生活だ。考えてみれば、いまもほとんど変わっていない。相変わらず弁当をコンビニで買って帰って、プレステで遊んで寝ている。変わったことといえば、借家じゃなくなったこと、プレステが4になったことくらいか。恐らく私の生活はすでに弥生町にいたときには必要充分な水準に達していたのかもしれない。

【東京地政学③】川崎ノーザンソウル/多摩川リバーズエッジ

ダンスフロアーに 華やかな光

僕をそっと 包むようなハーモニー

ブギー・バック

シェイク・イット・アップ

神様がくれた

甘い甘いミルク&ハニー

 流行歌という以上に、その時代に生きた人間が呼吸した空気を表象する曲というのが、かつてはあって、80年代は多分サザンの『いとしのエリー』、90年代は小沢健二スチャダラパーの『今夜はブギー・バック』だと思う。

 

 80年代でもサザンじゃなくてユーミン山下達郎、90年代なら安室奈美恵浜崎あゆみだというひともいるだろうが、特に渋谷系もヒップホップも通過していない私にとっても当時からどこかノスタルジーを抱かせたこの曲は、やはり特別な曲だと思う。

 

 オザケン安室奈美恵のようなポップアイコンではなかったが、小澤征爾の甥で東大文Ⅲという筋目の良さで渋谷系を代表する存在だった。

 と言っても、フリッパーズギターは多少聴いたが、いまだに私はなんとなくオシャレっぽくて軟弱な音楽としてしか渋谷系を理解しておらず、熱心なリスナーとは言い難い。スチャダラパーについても、なんとなく鼻につくオザケンよりは好感をもっていたが、ヒップホップがわからない私にとっては馴染みの薄い存在だった。

 この頃の私が熱心に聴いていたのはアル・ユルゲンセンやトレント・レズナーみたいな無機質なインダストリアル・メタルで、だからいま思えば渋谷系に対する感情は、お洒落で軟弱そうな奴がもてはやされていることへの僻みもあったかもしれない。

 

 オザケンは自分を“川崎ノーザンソウル”と呼んでいたらしいが、ソウルミュージックのソウルということではなく「川崎北部の無気力人間」というような意味だったらしい。

 彼は私の6年上で、川崎市多摩区の県立多摩高校に通っていた。中学は和光だというから、住んでいたのは麻生区あたりじゃないかと思う。

 川崎には7つの行政区があり、多摩区はその最北端、私の住んでいた宮前区も北部に属していた。

 

北部

 多摩区

 麻生区

 宮前区

中部

 高津区

 中原区

南部

 幸区

 川崎区

 

 多摩川に沿って北西から南東に向かって多摩区高津区中原区幸区、川崎区と並び、麻生区多摩区の西側、宮前区は高津区の西側に位置する。

 

 北部は小田急が開発した地域で、新宿から小田急線で世田谷区成城を抜けて狛江市で多摩川を渡り、登戸向ヶ丘遊園がある辺りが多摩区だ。その先は麻生区新百合ヶ丘で、和光や玉川大学のある学園都市に続き、町田市相模大野に至る。

 だからオザケンはのちに“渋谷系の王子様”になるが、高校時代に都内に出るのは新宿だったんじゃないかと思う。紀伊國屋サンリオ文庫を万引きしたって言ってたし。

 私の住んでいた宮前区も位置的には北部に属するのだが、通っているのは田園都市線で、その意味では高津区などの中部から渋谷へと繋がっており、小田急沿線との交通はほぼ皆無である。ただ多摩丘陵に連なる坂の多いベッドタウンという風景は北部のそれなんじゃないかと思う。

 

 中部には2系統あり、どちらも渋谷に接続している。

 ひとつは渋谷から東横線で目黒区自由が丘などを通って中原区武蔵小杉、その先は日吉横浜にでる経路で、これは都内から横浜に向かう主動線になっているので、近隣住民以外にもよく知られたルートだと思う。

 もうひとつが渋谷から田園都市線二子玉川多摩川を渡り高津区溝ノ口、宮前区鷺沼に出る路線である。このルートはたまプラーザ長津田など横浜市青葉区緑区を経て大和市中央林間に至る。溝ノ口や梶ヶ谷のある高津区は赤羽や王子にちょっと似た感じだが、宮前区に入ってからは延々と住宅地が続く。こちらは住んでないとまず使わないだろう。

 

 武蔵小杉のある中原区の南、多摩川下流域が幸区と川崎区の川崎国、いわゆる川崎サウスサイドで、湾岸の工業地帯のイメージの川崎はこの辺りである。川崎駅の西口が幸区、東口が川崎区で、JR京浜東北線京急本線で蒲田、大森、品川といった東京の湾岸地域と接続している。

 

 これらの各地域を接続するのが、JR南武線で、北部では登戸、中部では溝ノ口と武蔵小杉、南部では川崎で私鉄と接続している。

 いまはラゾーナ川崎などの商業施設もあるので中原区辺りに住んでいたらわからないが、北部に住んでいたらまずサウスサイドに行くことはない。新宿や渋谷に出る方が全然楽だからである。サウスサイドの連中もまず川崎からは出ない。生活圏やアイデンティティという意味で、サウスサイドとそれ以外の地域にははっきりと距離があると思う。いわゆる川崎南北問題だ。

 

 スチャダラパーのアニとシンコは兄弟で、高津区の出身である。だからざっくりと言えば、『今夜はブギー・バック』は川崎ノースサイドの風景から生まれた曲と言ってもいいんじゃないかと思う。その風景というのは多摩川と郊外だ。

 

 私は世田谷から多摩川を渡って川崎ノースサイドに移り住んだが、宮前区はオザケンの北部以上になにもないところで、当時から小田急沿線に比べて東急沿線は開発が遅れていた。ひたすらに家が建っていた。

 世田谷も人間を飲み込み続ける東京から溢れた人口を収容することでできた土地で、似ているところもあるのだが、ただ時間の蓄積が違うので、まだ世田谷には風土と呼べる歴史があった。都心ではないが郊外でもなかった。

 その点、多摩川を超えると明らかに郊外なのである。均質に住宅が並び、それでも暮らしていけるのは都内へのアクセスがそこそこいいからで、この地域の人口を賄う産業も商業もなかった。生活圏を構成させる多様性がない、それがベッドタウンということであり、郊外ということである。宮前区には人口20万で高校は1つしかない。田舎というのも違う。寝に帰るだけなのである。横浜までいってしまえば、そこには東京とは別の生活圏があり、多摩川沿いは東京でも横浜でもない周縁が広がっていた。

 

 私は17歳で引っ越して、既に練馬区の高校に通っていたから、田園都市線で渋谷を経由して九段下に出て、そこから東西線高田馬場から西武新宿線に乗り換えるのが通学路になった。

 片道1時間以上かかるということより、帰っても何もないから都内で過ごす時間が多かった。音楽やると結構金がかかるんで新宿の余丁町にあるスーパーで働いた。宮前区にはバイトするようなところもなかった。ヴァージンメガストアレコファンでCDを毎月何万も買って、学祭とかに出るダサい真似はしなくて高円寺や西荻のライブハウスに出た。かと言って、将来ミュージシャンになるみたいなことも考えなかった。そこまで才能なかったし、そんなに頑張れないとわかっていた。なんとなくワイワイ過ごしているうちに高校生活が終わった。

 附属校だったんで、そのまま大学に進学した。大学は早稲田にあったんで西武新宿線に乗らなくてよくなった。バンドはなにかひと区切りついた気がして、あんまりやらなくなった。サークルに入ってまた1年生ですみたいな顔して始める気もなかった。仲間がそれぞれバラバラの学部に進学したせいもある。声をかけて集まるほどの執着があったわけでもなかった。周りはみんな高校のときにちゃんと勉強して受験に合格して入ってきて、これから大学生だというときに、こっちはもう4年目の気分で、まだやるのかこれからどうしようみたいな感じだった。

 Boogie wonderland という新歓しかしないサークルをつくって、横浜のデニーズに当時流行ったナタデココのブルーベリー味があるといって車で出かけて金がなくなって飯食わないでナタデココだけ喰って帰ったり、デスドライブとか言ってヘドバンしてたら事故ってパンバー凹ませたりしていた。

 相変わらずスーパーで働いて、閉店まで働くとその日に廃棄する分の寿司が貰えた。文学部のキャンパスに持って帰って、まだ残っている仲間と分けて喰った。大学の近くに下宿している級友の家に溜まったり、当時夏目坂にあったデニーズで15杯とかコーヒーをお替わりしながら12時間くらい時間を潰した。

 すべてが希薄だった。全部自覚していた。それでも過ごせたのは、そこそこに豊かで、モラトリウムというほど閉じてもいなかった。多少の息苦しさはあったが、息が詰まるというほどでもなかった。

 

 だから『今夜はブギー・バック』の気分は私にもあった。オザケンが“無気力”と呼び、スチャダラが“脱力”した希薄さが私にもあった。宮台の“終わりなき日常”を私も生きていた。なんでもそこそこで、すべてがなんとなくだった。

まぼろしの郊外―成熟社会を生きる若者たちの行方 (朝日文庫)

 一昨年に二階堂ふみ主演で映画化された岡崎京子の『リバーズエッジ』、あれも多分多摩川の河原なんじゃないかと勝手に思っている。岡崎は下北沢の出身だし。

 この作品に漂っていたのも渋谷とか新宿とかの区別なく、みんなが浸っていた空気だった。河畔の団地が舞台で、それぞれなんとなく付き合っていて、カンナが焼身自殺してもハルナが引っ越すときには観音崎と自然にバイバイできるくらいに、やはりみんな希薄だった。なにかに執着するということが、とても難しかった。それぞれがバイセクシャルや拒食症だったりしたが、踏み込むほどではなかった。スティーブン・キングの『スタンド・バイ・ミー』みたいな感じだった。21世紀の生きづらさを予言していたなんて言われたが、むしろあれは90年代そのものだったと思う。なんとなく、すべてが多摩川に収斂するような気がする。それは郊外の風景だった。

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

 私は17歳で多摩川を越えて川崎のベッドタウンで寝起きして、新宿界隈で時間を潰していた。田園都市線沿線に住んでいたのに渋谷系には属さなかった。IWGPのような強い身体性をもった地元というのはなくなっていた。高校から一緒に進学した連中と、その他に何人か大学で知り合い、かといって大学生というほどの存在ではなかった。大学に籍を置いてはいたが、フリーターのような希薄な存在だった。それでも生きていられたが、結局2年で大学を中退した。かっこよく言えば“終わりなき日常”を終わらせてみたくなったのかもしれないが、すべてはなんとなくだった。あと2年(よりかかったかもしれないが)務めて就職活動して…というのが途方もなく長い時間に思えた。ついでにスーパーも辞めた。

【東京地政学②】渋谷ストリート/ディヴィジョン/トライブ

 下北沢駅前と三軒茶屋駅前をつなぐのが茶沢通りで、歩くには遠いが電車や車という距離ではなく、つまりチャリンコの行動半径である。

 どこで生まれ育っても小中学生の生活圏など精々そんな範囲なんじゃないかとおもうが、中学から高校に進むあたりで様相が違ってくる。

 

 東京(その拡張概念としての首都圏)の地政学的理解にもっとも強い影響を与えるのは電車などの交通機関なんじゃないかとおもっている。もっと端的に言えば最寄り駅に何線が通っているかである。たぶん家選びとかをイメージしてもらえばわかるとおもう。

 実際の地理的物理的な距離より、地元の最寄り駅に何線が通っているかで、20歳くらいまでの行動範囲と所属するコミュニティが決まる、そんなイメージだ。

 

 私の場合で言うと、小学校までは下北沢、中学校では三軒茶屋が生活の中心だったことは前に述べた。これらは徒歩圏の北限と南限を成している。下北沢は小田急井の頭線三軒茶屋田園都市線新玉川線だったり半蔵門線だったりもするが)が通っている。

 どういうことかというと、下北沢からは渋谷井の頭線)と新宿小田急線)、三軒茶屋からは渋谷田園都市線)に出れる、というかそこから先には行かないのである。

 その先にある池袋とか恵比寿とかはもうかなり外部であり、ましてや上野とか品川とかはもう外国だし、蒲田とか言われてもどうやっていくのかも知らない、みたいな感じである。ついでに言えば文京区などの山手線内側は、ほぼなんのイメージもなかった。東京といえば、ふつうど真ん中を指す地域とほとんどなんの関わりもなかったのである。

 

 言い方を変えれば、この地域の出身者は“地元”から一段階拡張した共同体として渋谷か新宿のどちらか、もしくは両方に属することになるのである。私の世代の前後は渋谷が多かったように思う。そしてそれがなにで決まっていたかというと、ようは電車で出やすいところだったんだと思う。

 ただしこの新宿にしても渋谷にしても社会人になって属すような新宿“区”、渋谷“区”のようなパブリックな共同体ではなく、あくまで“地元”の外延である。この外延は交通機関を媒介として繋がっているので、面的な広がりではなくて、点と線である。

 たとえば新宿で屯っているのは新宿区から面的に拡大した近隣地域の住民ではなくて、中央線を経由して流れてくる国立や八王子の連中、渋谷だったら田園都市線で繋がっている川崎北部や、東横線で来る横浜の人間を含んでいる。

 ただ中核的なところでいうと近隣の中野区、杉並区、世田谷区(というか世田谷地域。中野区や杉並区の内部にも多分セクトがあるんだろうが、よく知らない)に住んでいる人間が占めていたと思うが、それも交通機関に依存するところが大きかったんじゃないかと思う。直線的な距離では豊島区や板橋区の連中の方が三鷹とかあの辺よりも近いはずなんだが、山手線に乗っても西武線に乗ってもようは池袋で降りちゃうだけなんだと思う。実際、私も池袋とか板橋とかに住んでたときがあって、そのときは新宿にほとんど出なくなった。

 都下でも近場に繁華街があれば、例えば中央線近辺だと吉祥寺に集まる連中も相当いたはずで、じゃあ新宿渋谷まで出てくる動機は何かというと、その辺は街の持ってる求心力だったり、通ってる高校が都心だったりという要因が個別に多分ある。あと結構中学までだと地元でイマイチ冴えなかったから、しがらみのないとこに出るみたいなのもあったかも。

 

 私は昭和49年の生まれで、ちょうど中学最後の年で昭和が終わり、高校に進学したのが平成2年ということになる。昭和64年は1週間しかなかった。歴史的にはバブルが弾けた年でもあるはずだが、バブルは弾けたあとでないとバブルだったと認識されないので、当時はまだ好景気の中にいる感覚だったんじゃないかと思う。アメリカではブッシュ(パパの方)が大統領になった。

 

 昭和天皇崩御して大喪の礼が明けると、6月に天安門事件があり、ポーランドで自由選挙が行われて、その後あっという間にハンガリーブルガリアチェコスロバキアで一連の東欧革命が起きて、11月にはベルリンの壁が崩壊した。12月にはブッシュとゴルバチョフ冷戦終結宣言を出して、ルーマニアでも革命が起き、あっという間にチャウシェスクが処刑されて、頭を撃ち抜かれて転がってる映像が配信されたのは衝撃的だった。

 当時中学生の自分が一連の世相をなんのことだかわかっていたわけではないが、それまで濃厚な冷戦の空気に育ってきたわけで、ともかく世界が一変したことはなんとなく感じた。

 

 だから高校生になるのと平成が始まるのは体感としてはほぼ同時で、なんとなくは時代の変わり目という感覚もあった。平成最初の10年というのは20世紀最後のディケイドでもあり、どちらかというと末法的というか世紀末的な不透明感の方が強かった。その頃の東京近辺のティーンエイジャーにとって存在感が大きかったのは新宿よりも渋谷の方だったと思う。

 コギャルとかエンコーとかいう言葉ができたのはこの頃で、まだ携帯はなくて専らポケベルと公衆電話で連絡を取り合い、ダイヤルQ2テレクラが流行った時代だった。宮台真司が大活躍した時代ですね。

 まだ携帯はなかったが、ポケベルは10代の行動半径を劇的に拡張した。というか、それまでは家にいないと連絡をとる手段がなかったし、あとは近所の溜まり場にいて、なんとなく集まってくる人間といるしかなかった。私が中学のときの溜まり場は稲荷神社だった。それが外で動きながら連絡を取り合う、いまとなっては当たり前の日常だが、そういうことが可能になった。10代のガキにそんなものを持たせたら帰らなくなるに決まっているのである。

 

 そういうスタイルがハマっていたのが渋谷で、当時流行したアメカジB系みたいなストリート系サブカルチャーとニコイチの関係だったと思う。

 ストリート系サブカルチャーの前史としては渋谷に隣接する原宿が80年代に竹下通り全盛期を経てプライベート系アパレルブランドの集積地になっていたことが影響していると思う。

 竹下通りはお上りさんを集める観光地に近くなってしまったが、いわゆる裏原は00年代以降にファッショントレンドの発信地として繁華街のセンター街や109近辺を補完する位置として再構成されたように思う。

 

 その頃のストリートという言葉が表象していたのは、路上に屯っているみたいなアウトロー的なニュアンスもあるのだが、それ以上に出身中学や地元のような地縁的属性が解体されて「みんなストリートに属している(つまり地縁に属していない)」ということでもあった。ただしストリートに属するには電車に乗って移動するだけでは難しくて、やはり地元の先輩後輩とかそこから拡張される人間関係を媒介していたので、完全に自由だったわけではない。ただそこの人間関係を拡張していくみたいなところに関してはポケベルはいまでいうSNSのような絶大な影響を与えた。

 ポケベルとテレクラが、10代の少年少女(他には専業主婦というのもあった)のような狭い世間で生きてきた人間に、突然見ず知らずの人間とバンバン繋がる環境を無秩序に提供した。

 

 そういうスタイルに対する親和性が最も高かったのが渋谷だったんだと思う。新宿のストリートだと歌舞伎町になっちゃって、やはり10 代の若者を引き寄せるにはキラキラ感が足りなかったし、端的に言ってヤクザとの距離が近過ぎた。その点、原宿や青山といったファッショントレンドの発信地と隣接した渋谷の方が魅力的だったし、10代は渋谷、20代は青山、その先は麻布、六本木とストリートを辿っていくステージがあり、新宿にはそれがなかったと思う。新宿はどっちかというと『凶気の桜』のイメージが近い。それはいまでもあんまり変わらないと思う。

 だからストリートがさまざまな地元を内包していたとはいえ、その内部には厳然たるヒエラルキーがあって、その頂点は都内の私立附属高校に通う男女だった。慶應、青学、明学なんかの附属校に通っている高校生は、やはり八王子から来る奴よりずっとオシャレで金もあったし、先輩後輩の人間関係も豊かで、受験もなく大学生になることもみえていたので余裕があった。

 で、この辺の連中がどこに住んでいるかというと、それは世田谷、杉並、中野区なのである。彼らは当時流行していたストリート系ファッション誌の読者モデルなんかをやっていて、この読モがストリートの頂点だったし、90年代に流行したチームもその中核メンバーは彼らだった。

 私立高校に進学すると都外も含めていろんな地域から生徒が集まるので、結構人間関係が広がる。そういうのを辿って渋谷や新宿に出るのである。

 私は都立高校に行きたかったんだが内申点が足りなくて第一志望から外した。当時は住んでる学区で受験できる学校が限られていて、私の住む世田谷は第2学区に属して、たとえば戸山、青山、新宿、駒場なんかの都立高があった。当時は都立か私立かでも結構違ったと思う。生徒の多くが近隣の学区内から集まっているので、私立高よりは地縁的結合が強かったと思う。

 

 この辺の、パブリックなものでもなく、“地元”という地縁的原理を再構成して存在する東京のローカルな亜共同性のようなものは、たとえばいまでいうと『ヒプノシスマイク』の“ディヴィジョン”だったりとか、園子温の『東京TRIBE』の“トライブ”だったりとか、大分誇張されているとはいえ、雰囲気はわりとよく描写できているように思う。

 

 ディヴィジョンが地域的な面の共同性に、トライブが先輩後輩のような人的関係に注目した命名だったとして、でも案外内実は住んでいるところからの交通網のアクセスだったり、通っている高校への通学路だったり、そういうものが結合の横糸になっていたりする。

 ついでにいえばカラーギャングというのは池袋の連中のことで、暴走族やチームや愚連隊のようなものと違って、固有名詞というか池袋ローカルな存在だったと思う。当時カラギャンは池袋にいるとしか認識していなかったから疎遠な存在だったし、だからIWGP(『池袋ウエストゲートパーク』も完全に池袋の物語として観ていた。ただしカラギャンを構成していたのは豊島区住民だけではなくて、埼京線沿線の埼玉県民とか西武線沿線の板橋区民とか、そういうのも含んでいたんじゃないかとは思う。

 

 だから亜共同体のアイコンとしての地名と、それが包含する人間の居住地は面としては重ならない。そこが“地元”との違いであり、亜共同体の中核になる無数の繁華街を抱え、複雑な交通網を発達させた東京独特の構造なんじゃないかと思う。

 

 で、ここまで知ったふうに書いているが、私自身はこの渋谷を中心としたストリート系サブカルチャーには全然属していなかった。全部あとから宮台真司などから教わったことである。それも大分後になってからのことで、この当時は中沢新一とかコリン・ウィルソンなんかにかぶれていた。

 

 地理的には凄く近かったにも関わらず、私が渋谷のカルチャーから外れた理由はいくつかあるが、ひとつは中学3年のときにSEX PISTOLS を聴いて、いわば転向したからである。その頃の私にとってのアウトローのアイコンはB系ではなくてロンドンパンク、というかジョン・ライドンマルコム・マクラレ一択だったのである。

 パンクスはもともと暴走族ともB系とも相性が悪いが、それでも西海岸系だったらよかったんだがロンドンパンクはすでに完全に流行から外れていた。そこからニューウェーブとかにいっちゃったんで、これは完全に渋谷から外れて新宿や高田馬場の古レコード屋のワゴンを漁るコースだし、実際そうなった。もはやそれはアウトローではなくて、いまでいえばアキバのオタクに近いコースだった。

 

 思い返せば私が完全な世田谷地域出身ではなくてアイデンティティの6割くらいが下北沢にあったことが影響していたと思う。いまでこそ大分オシャレな街らしいが、私のいた頃の下北沢は本多劇場や屋根裏(ライブハウス )なんかがあるサブカルチャーの街で古レコード屋が一杯あって、ロックやブルースやジャズ、フォークなんかが似合う街で、その意味でも新宿のカルチャーに連なっていた。いまでいうと中野に近いだろう。

 一方、三軒茶屋は渋谷の影響をもろに受けるんで、たとえば三軒茶屋愚連隊の出身者がそのまま妄想族というヒップホップグループになっていったりした。当時の私はヒップホップをまったく通過しなかった。

 

 受験が終わって暇になってからギターを買い、そこからは1日12時間くらい弾く日もあった。楽器は金がかかるので単車にも乗らなかった。

 私も一応私立の付属高校に進学したんで、もうちょっとキラキラしていてもよかったはずなんだが、その高校は練馬の石神井というところにある男子校で、1学年600人で周りにはなにもなく、男ばかり1800人も校舎に詰め込まれてネリカン(練馬鑑別所)と自称していた。

 西武新宿線だったので、必然的に出る先は新宿か高田馬場になる。というか、登校時に学校に行くのが面倒になって途中で降りて新宿か高田馬場で過ごすこともしばしばあった。

 

 世田谷区から練馬の私立高に進学したことで地元とは疎遠になった。高校で知り合った似たようなオタクたちとバンドを組んで、ライブをするのは専ら高円寺や西荻などの中央線沿線で、住んでいるのは世田谷、高校は練馬だったが、所属はやはり新宿だったんだと思う。少なくとも渋谷ではまったくなかった。

 

 そして高校2年、17歳のときに川崎市に引っ越して、これで完全に世田谷とは疎遠になった。当時わりと父の仕事がうまくいっていた時期で、代田の住居をもうそろそろ出てくれと言われたタイミングで、じゃあマンション買うかみたいな感じで、多摩川を超えて川崎市宮前区に移った。

 この宮前区も世田谷に似たような風景で、同じく坂が多く、やはりもともと農家だった一軒家とマンションが混在していた。いわゆるベッドタウンである。ただ世田谷地域よりはずっと郊外に位置するので、はるかに整然としているというか、住宅以外なにもなかった。

 渋谷と田園都市線二子玉川などを経由して繋がっていて、湾岸のいわゆる工業地帯の川崎とは全然違った。川崎は北部と南部でまるで違う風土をもつ街で、私が住んだのは小沢健二を生んだ川崎ノーザンソウルの川崎で、一般に川崎だと思われているのは川崎サウスサイドである。

 サウスサイドは川崎国と自称するようにほぼ孤立していて、田園都市線溝の口の一点で南武線を介して交わるだけである。区で言うと川崎区幸区である。幸区の人間は異論があるかもしれないが。

 溝の口は川崎国との関所というか国境だった。少なくともこちら側には国境を超える動機はまったくなく、渋谷は地続きでも同じ川崎市のはずの南部は完全に修羅の国だと思っていたし、そのイメージは多摩川の対岸に住んでいたときからすでにあった。幸いなことに修羅たちは川崎国から出てくることはまずないので、こちらから越境しない限り無縁でいられた。

 

 私が移り住んだ川崎北部の風土は、だから東京のベッドタウンという点と、渋谷に田園都市線で繋がっている点と、2つの地政学的要素から、多摩川を挟んだ対岸の世田谷区によく似ていた。

【東京地政学①】世田谷地域クロニクル

 40年余りのあいだ東京で暮らしてきて、30代まではあんまり自分が東京育ちであることを意識したことってなかった。それはきっと自分を取り巻く人間関係だったり、居住地だったり、仕事だったりが偶々そういう配置だったんだろうとおもう。

 端的にいえば、多くの人間に関わる必要も立ち入る必要もない生き方を選んできたんだとおもう。いまでもそうありたいとおもっているが。

 

 とはいえ、ここ数年は相応な歳になって自分にしては人数の多い職場で、それなりに多くの人間と関わらざるを得ない立場で生きて、はじめて自覚することもでてきた。

 東京で、地元つまり自分が育ったローカルなコミュニティ以外で生きるということは、それが物理的な距離がほとんどないとしても、東京以外の出身者とともに暮らすことでもある。

 

 そうやって東京以外の出身の人間と関わって、はじめて外側からみた東京というのは自分の意識よりもとんでもなく広い概念で捉えられてるのだなときづいた。

 裏を返せば、自分が東京というものを意識しないのは、自分の捉えている東京というのがもっとはるかに小さい対象だということでもあることに気づいた。

 

 東京には特別区が23あり、それ以外に国立市とか西東京市とか島嶼部など都下といわれる地域があるわけだが、自分の感覚としては地元として意識するのはこれよりもずっと小さい範囲である。

 端的に言えば、東京人という一括された概念は、強いて言えば東京以外出身で東京で暮らす人間のことで、たとえば世田谷区出身の私からすれば大田区や品川区出身者は「大田区あたりの連中」だし、北区・板橋区・足立区の人間は「北の連中」であり、江戸川区江東区は「東の連中」であり、それは「川崎の連中」とか「松戸の連中」などと距離感として変わらない。

 

 私は17歳まで世田谷区で育った。厳密に言えば、母親が私を産むときに当時大船(鎌倉市)にあった実家に1年ほどいたらしいから、鎌倉生まれの世田谷育ちということになる。

 こういうと大概「いい育ちなんですね」と言われることが多いんだが、ながいあいだ全然ぴんとこなかった。

 

 住んでいた当時は意識したことがなかったが、あとづけで知ったこととして世田谷区は5つの地域に分割されるらしく、これは概ね肌感と一致する。

 

 世田谷地域

 北沢地域

 玉川地域

 砧地域

 烏山地域

 

 で、気づいたのはみんながイメージしている世田谷というのは概ね北沢地域から烏山地域までの世田谷地域以外をイメージしているらしいということ。“みんながイメージしている世田谷”というのは概ね「都心に比較的アクセスのよい郊外の閑静な住宅地」という感じではないだろうか。

 

 世田谷地域というのがどのあたりを指すかというと、池尻・上馬・経堂・下馬・桜丘・太子堂三軒茶屋・弦巻・若林といった地名を含んだエリアで、区役所があり、たぶん代表的な街は三軒茶屋ということになるのだろう。自分の感覚でいうと、これらの地名はそのまま近隣の区立中学校として認識していた。

 この地域は”みんながイメージしている世田谷”とはだいぶ風景が異なっている。狭く入り組んだ道が多く、また古くて小さいアパートと一軒家が混在していて、住所表示もわかりづらい。閑静な住宅地というイメージには程遠い。どちらかというと小金持ちと貧乏人が交互に暮らしている感じだ。

 高校のころに年賀状配達のバイトをしたことがあるが、丘陵地帯の世田谷の原風景として坂も多いので、めちゃくちゃしんどかった。この辺の感じは三軒茶屋駅前から少し歩いてみればわかるとおもう。

 

 一方、私がどこに住んでいたかというと代田というところで、これは北沢地域に含まれる。ほかに梅丘・大原・北沢・豪徳寺桜上水・代沢・松原なども含まれる。代表的な街は下北沢だろう。この地域で生活実感として私が地元としてイメージできるのは梅丘・北沢・代沢くらいまでだ。

 この北沢地域は下北沢駅周辺を除くと、”みんながイメージする世田谷”にかなり近いのだとおもう。ただし代田は北沢地域の南端に位置していて地理的には世田谷地域に近い境界的な地区でもある。

 

 私の実家の前を梅丘通りが東西に通っていて、それを北に超えたところが北沢で、通りに沿って北沢川緑道という河川を埋め立てた遊歩道があり、その近辺に中島みゆきの家とか、その向かい辺りになべおさみの家とか芸能人の家が建っていた。なべやかんが明治に裏口入学したときには結構メディアが集まっていたと思う。

 代田にはたしか所ジョージのガレージを拡大したような家もあって、たまにタモリ倶楽部なんかに出てきた。それ以外にもこの地域の家は大きな一軒家が多かった。

 変わったところでは、近所には天理教の大きな施設があり、そばに信者の住む共同住宅もあった。

 梅丘通り沿いには信濃屋というスーパーがあり、ときどき子どもを連れた鮎川誠・シーナ夫妻をみかけた。テレビとかで観るあのまんまの姿で、シーナさんなんかは真っ白いファーのコートでベビーカーを押してたりして、子ども心にあまりのかっこよさに度肝を抜かれた。

 下北沢には原田芳雄の家があって、庭のある古い平屋建てで、元旦には近所の人間も入れる餅つきが庭であって、安岡力也や丹古母鬼馬二なんかもいた。原田芳雄は縁側に胡座をかいて餅を喰っていた。

 

 

 

 思い返せば、私の住んでいた近辺も一軒家が多かった。私は6階建ての小さなマンションだかアパートだかの5階に住んでいて、間取りは2DK、1フロアに3世帯入っていたと思う。エレベーターもなく毎日5階まで上り下りしていた。大して高い建物でもなかったが、屋上から周囲を見渡すと周辺では一番高い建物だった。

 私の家族が住んでいた部屋のオーナーは父方の祖母の弟、つまり私の大叔父にあたるひとで、1〜2回しか会ったことはないが、たしか不動産関係の仕事をしていて吉祥寺で結構大きな家に住んでいた記憶がある。立地にしては低い家賃で住まわせてもらっていたんだとおもう。

 

 世田谷地域と北沢地域を隔てるのが淡島通りで、これを南に超えると若林や太子堂となる。私が住んでいたあたりは梅丘通りと淡島通りに挟まれた地区で、いま思い返せば小学校までは下北沢が生活の中心で、若林中学校に進学してからは三軒茶屋が中心になっていった。子供時代の印象でしかないが、小学校のときの方がいいとこの子が多かったように思う。

 

 私の両親は共働きだったので、小学校低学年くらいまでは学校が終わると杉並区の永福町に住んでいた祖父母の家に行って、母の仕事が終わる夜まで過ごすことが多かった。下北沢には井の頭線が通っているので、学校が終わったらそれに乗って通うのである。

 私の祖父母はいま思えば貧乏だったので家といっても1Kの木造アパート、2階の突き当たりの部屋で窓から外をのぞくと大家の家の広い庭がのぞけた。この辺のバランスが世田谷、特に世田谷地域とよく似ていた。

 

 小学校に入る前は保育園に預けられていて、そこはいま思えば片親とか共働きとか貧乏人の子が多かったなと思う。

 40年前というのは、父親はかっちりしたサラリーマンで終身雇用で母親は専業主婦でというのがまだ理想とされた時代で、共働きとか片親とかが今よりもまぁまぁ目立つ存在だった。

 40年経ったいまでも憶えてるのも凄いなと思うが、リカチャンという子がいて、母親同士が仲がよくて結構家に遊びに行ってたんだが、いつ行ってもお父さんが家にいて、アフロヘアというか具志堅用高みたいな頭で、わりと穏やかというかボーッとしていて呂律も回っていなかった。リカチャンのお母さんは「ウチのお父さんは傘差してたら雷に当たっちゃって少しおかしいのよ」と笑って説明していたが、振り返ればあれはラリってたんじゃないかと思う。お母さんはたしか美容師か何かで何度か家で髪を切ってもらった気がする。

 タケシクンという子とも仲良くてよく遊びに行ったが、そこはわりと大きい一軒家に住んでたんだけど両親ともに教師で日教組で、親は赤旗をとれとか勧められてた気がする。当時は日教組赤旗とか言われてもなんだかわからなかった。思い返せば共働きとか片親みたい家庭は母親同士がわりと仲が良かったなと思う。赤旗はとらなかったが。

 考えてみれば、まだ男女雇用均等法もできる前で、当時の我々の母親はみんなまだ30歳くらいの若さで社会的にはまぁまぁアゲインストというかマイノリティだったわけだから、共働きとかシンママなんかは、いろいろ共感するところがあったんだろうと思う。

 そういえば小学校にはカズヤクンという知的障害の子もいて、ここも片親で私もまぁまぁ遊んでたりしていたが、お母さんが頑張って小学校はなんとか普通学級に通わせていたが、中学に上がるとやっぱりしんどくなって養護学級に編入された。なんとなくだが小学校のときは自分は比較的マイノリティの側に属してるんだなという感覚はあったように思うし、だから中学に上がると極自然な成り行きとしてグレてる側に回った。

 

 世田谷区は大正時代までは多摩丘陵に連なる農村地域で、関東大震災のときに焼け出されたひとが住み着いてきたころから風景が変わってきたらしい。

 だからまあはっきりいえば、もともと農地をもっていた地主の一軒家と、余所者が暮らす借家という組み合わせが世田谷地域の風景で、これはいわゆる首都圏のベッドタウンの原風景だと思う。

 私の父は広島県の出身で上京して東京に住み着いたから、私の家は後者のクラスタに属する。だから「いい育ちなんですね」と言われてもぴんと来ないのは当たり前である。いいとこのダセエ連中と一緒にすんなよという感覚も多少ある。

 

 関東大震災から戦後くらいまでのあいだに住民が増加した世田谷地域は、都心から震災や戦争で焼け出されたひとの移動が中心だったので、計画的な宅地開発などの結果ではなくバラバラに住宅が建っていっただけだから、この辺りはひどく入り組んだ街並みになったということらしい。世田谷地域は農地の多い世田谷区のなかでは代官屋敷や武家町のあったあたりで、三軒茶屋は街道筋の商業地でもあったので、ここが都心からの最初の人口流入地になったんだと思う。

 砧・玉川など(都心からみて)さらに外縁の地域はどちらかというともともと景勝地や行楽地だったらしく、戦後の高度成長期に東京に収容しきれない人口のために計画的に宅地造成が進められたために世田谷地域と風景が違っているのだろう。

 

 恐らく多摩地域に公営団地が造成されたのと近いタイミングで、多摩は大規模団地で零細な労働者家庭を収容して、隣接する玉川や砧は都心から移住する富裕層と元から住む地主の地域になったんじゃないかとおもう。

 もともと都心にあった大学や学校なども空襲などを避けてこの地域に戦中戦後に疎開したらしい。だからこの辺りは閑静な住宅地というイメージに合致する。

 

 戦後はさらに膨らんだ人口を収容するために神奈川・千葉・埼玉の宅地造成が進められて首都圏が形成されたわけで、世田谷区は東京というよりも、首都圏を構成する最初期のベッドタウンだったというのが正しい地政学的理解なんじゃないかとおもう。そのなかで、まぁ物凄く狭小な範囲の話だが、世田谷地域は計画的な宅地造成以前に行われた、わりと無計画な人口収容によって形成されたという点で、他の世田谷区とやや風土が異なっているんじゃないかと思う。

 

 話を戻すと、私が”地元”という感覚をもてるのは、だから世田谷”区”ですらなく、三軒茶屋と下北沢に挟まれたきわめて狭小な地区だけなのである。ましてや東京が地元かといわれると、まるで実感がない。

 東京だと大概そうだと思うが、中学くらいまでは「大田区の連中」とか「東部の連中」のような視野はなく、専ら出身中学がどこかが基礎属性になる。荒川区とか八王子とかが視野に入るのは、暴走族に入るかチーマーになるか、高校に入って他の区の連中との付き合いができてからである。私の場合で言えば出身中学は若林(ワカチュー)で、ちょっと前の世代の80年頃の校内暴力全盛期に名を馳せた学校で、自分が入学した当時は世田谷No.2を自称していた。なんの順番かというと喧嘩である。No.1は下馬の駒留中学校(ドメチュー)だった。私が3年になった代はそこまで強くはなかった。8割くらいはワカショー(若林小学校)出身で、私はその意味では少数派に属していた。

 こういう具合に中学に入ると「タイチュー(太子堂中学)の誰それ」とか「コマチュー(駒場中学)の何某」といった属性を纏うようになる。

 ワカチューはいまは少子化の影響で近隣のヤマチュー(山崎中学)と統合されて世田谷中学校(いまセタチューというのかは知らない)になったらしいが、ヤマチューは世田谷区世田谷に位置して区役所の近くにあって、世田谷地域では当時わりと成績優秀な部類に属していた。言い方を変えると気合が入っていない中学であり、ワカチューとごく近かったのでなんとなく面白半分に20人くらいで締めに行って後で学校同士で通報されて大分叱られたことがある。ワカチューはそんなところだったので、公立にも関わらず越境を希望するような家もあって、そういうのは多分ヤマチューに通ったんだと思う。だからいまワカチューがヤマチューに統合(校舎はヤマチューらしいんで感覚的には吸収)されたとういうのは忸怩たるものがある。

 と、ここまで書いてきて、たとえば世田谷No.2などと言っているが、実はここに出てくる中学はほぼ全部世田谷地域なのである。それも特に太子堂と若林に集中している。世田谷区全体から見ても相当狭い。ましてや東京という単位でみれば猫の額である。地理的にはごく近い北沢地域に属するキタチュー(北沢中学)、ウメチュー(梅丘中学)、フジチュー(富士中学)などは当時から全く眼中になかった。

 たとえば三茶で「お前どこよ?」「シンセー(新星中学、池尻中学と統合されて現在は三宿中学になったらしい。知らなかった)だよ」となれば、そこから先は結構緊張感が生まれるが、「梅丘です」とかだと「なんでウメチューが三茶来てんだよワカチュー舐めてんのか」みたいな理不尽な流れになる。だから当時は意識していなかったが、中学同士の”戦争“などと言っても、それは世田谷"区“ではなくて世田谷”地域“での”戦争“だったのである。言い換えれば、我々は世田谷地域を世田谷区だと認識していたということでもある。そしてそれは外からみた世田谷というイメージとは全然一致しない。こっちからしてみれば外からみたイメージの方を後から知ったのだが。

 

 世田谷地域と北沢地域の関わりで言えば、下北沢エンペラーの存在感が凄く大きかった。関東以外の人間にはエンペラーと言われてもホテルかと思うかもしれないが、全盛期には構成員2000人、愛知県あたりまで支部のあった日本最大の暴走族ブラック・エンペラーのことである。もともとは国立市あたりが発祥らしいが、その後に新宿に総本部が置かれ、さらに下北沢に本部が移った。大きくなり過ぎてからは各支部が独立して行動するようになって、下北沢本部は下北沢エンペラーとなった。まぁしっかりした記録があるわけじゃなく、30年前の先輩なんかからの口伝だが大きくはズレてないと思う。余談だが元々の地元の国立市周辺は三多摩本部として独立して、俳優の宇梶剛はそっちの方の総長だったらしい。

 で、この下北沢エンペラーは地理的には北沢地域に位置しているが、人的には世田谷地域との関わりが深いのである。

 私はちょうど暴走族とチーマーの狭間の世代で、ワカチューの2個上のモリクンが多分最後の下北沢エンペラーの頭、2個下にはいまでも半グレとして名前が出るようなチーマーになる後輩がいた。ワカチューはそれ以外にも何人か下北沢エンペラーの総長を輩出している。2個上の先輩が恐ろしかったのは当然だが、2個下の連中も「なんかこいつらおっかねえな」とおもってみていた。少なくとも中学の間はこいつらの先輩でツイてたなと。

 私の頃はもう暴走族は下火で、下北沢エンペラーも実態としてはチーマーや愚連隊に近い存在になっていった。

 それでこの話のなにが重要かというと、一つは世田谷地域の特殊性というか、北沢地域に位置していたにもかかわらず、その中核を成していたのがワカチューやシンセーチュー出身者だったこと。これはエンペラーだけでなく、のちのチームでも世田谷出身のチーマーの母体は世田谷地域が多い。他には烏山地域くらいである。

 またもう一つは、下北沢エンペラーやチームなどが契機になって、出身中学のような極小のセクトから新宿や渋谷のようなより広域で上位の単位に再編成されること、ただしそのアトムになっているのはあくまで出身中学のような極小のセクトとそこでの先輩後輩という縦糸であること。この辺については次稿で改めて考えようと思う。

2019年にみた映画から10作選んでみた

 

獣道 YouTube

徹頭徹尾底辺しか出てこない。吉村界人がいい。

 

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チェイサー YouTube

ナ・ホンジン監督にキム・ユンソク主演、ハ・ジョンウが敵役と『哀しき獣』と同じ鉄板の布陣。

 

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The Witch/魔女 YouTube

主演のキム・ダミの芝居が素晴らしい。才能を感じる。オーディションだったらしいけど。

 

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彼女がその名を知らない鳥たち YouTube

ひたすら蒼井優の天才が際立つ。

 

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愛がなんだ YouTube

岸井ゆきのってあんまり知らなかったけど、いいね。

 

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日本で一番悪い奴ら YouTube

ホントに悪くてワロタ。

 

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悪女/AKUJO YouTube

特殊効果だけじゃなくて肉弾も凄まじい。

 

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キュア〜禁断の隔離病棟〜 YouTube

ホラーというより変態モノ。

 

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万引き家族 YouTube

『獣道』ほどの切実さはないが、安藤サクラは相変わらず巧い。

 

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フルリベンジ YouTube

糞みたいな父親に虐待されていた姉妹が耐えきれずに逃げ出して、父親とマフィアに追跡され、結局返り討ちにする話。実話らしいが。

ターミネーター』のマイケル・ビーンがプロデュースと父親役と言って誰か関心あるのかどうか。

 

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2019年に読んだ本から10冊選んでみた

「文庫版 死ねばいいのに(京極 夏彦)」

久しぶりに京極夏彦を読んだが、相変わらず糞みたいな奴の心象風景を描かせたら当代一の名手。

 

文庫版 死ねばいいのに (講談社文庫)

 

「中世武士の勤務評定(松本一夫)」

織豊政権以前には武士の恩給は原則的に土地なわけだが(いわゆる御恩と奉公)、土地を給付するといっても一元的な権利管理機構があるわけじゃなし(幕府はあくまで裁定ないし調停機関)、どうしてたのかな思ってたら、案の定グダグダだった(だから調停が必要なんだが)。

 

 

中世武士の勤務評定―南北朝期の軍事行動と恩賞給与システム (戎光祥選書ソレイユ005)

 

「世田谷一家殺人事件 15年目の新事実(一橋文哉)」

先日、事件後19年を迎えて現場となった自宅の解体が打診されたそうだが、著者が執拗な取材でかなり有力な反証を立てているにも関わらず、犯人像について未だに初動の躓きを引きずっていらしい報道で、なんだかなあと。

 

世田谷一家殺人事件  15年目の新事実

 

「古代豪族と武士の誕生(森公章)」

絶賛活況を呈している武士論の分野だが、在地領主説、軍事貴族説、芸能説のいずれも都を起源とした源平藤の趨勢が中心になっていて、古代から在地に存在した国造–郡司の系統はあまり顧みられることが少ないが、断片的ながら在地の郡司層が都から赴任した軍事家族と女系で結合して武士化していった過程が検証されていて、なかなか有意義な論考。

 

古代豪族と武士の誕生 (歴史文化ライブラリー)

 

「論理的思考のコアスキル(波頭 亮)」

こういう本あんまり読まないんだが、これは論理学などを援用しないがらも、あくまで実践的なスキルとして扱っているところに好感もてる。

 

論理的思考のコアスキル (ちくま新書)

 

「ハロー・ワールド(藤井 太洋)」

確かわりと初期のKindle作家でもあったと思うが、これは仮想通貨をテロリズムと重ねた作品で、元エンジニアの作家ということでテクノロジーのトレンドを掴むのが上手だなと。

 

ハロー・ワールド

 

「レギオニス 勝家の決断(仁木 英之)」

柴田権六勝家を主役として並いる信長麾下の武将が高度成長期のサラリーマンのようにこき使われた末に秀吉が一人勝ちする様を描く一大叙事詩、ついに完結。

 

レギオニス 勝家の決断 (中公文庫)


「激しき雪(山平重樹)」

野村秋介朝日新聞で自決した事件は物凄く鮮明に記憶に残っているが、あんまりちゃんと事績を追ったことがなかったなと思い読んでみた。強烈な美意識だけで生きたひと。

 

激しき雪 最後の国士・野村秋介


今川氏親と伊勢宗瑞(黒田 基樹)」

2019年は今川義元公生誕500年ということで、いつになく今川氏関連の書籍がでて、イメージキャラクターの今川さんまでできたが、これは義元公の親父さん氏親公とその叔父の伊勢宗瑞a.k.a.北条早雲の評伝。

氏親は実は先進的な大名だったし、宗瑞も後北条氏というメジャー大名の家祖のわりに確かな事績がまとまってきたのはわりと最近だったりする。

戦国大名の元祖のような位置づけの宗瑞だが、事績を辿ると甥の氏親との共同作業のような形で幕府から自律した政体をそれぞれつくっていったことがわかる。

 

今川氏親と伊勢宗瑞:戦国大名誕生の条件 (中世から近世へ)


麻原彰晃の誕生(高山 文彦)」

サリン事件と宮崎勤事件、酒鬼薔薇聖斗事件があったあたりの95〜97年ころが日本の断末魔のようだったなと。

『少年A』と同様、事件自体よりも犯人の心象風景を丹念に追う高山の持ち味が出ている。

 

麻原彰晃の誕生 (新潮文庫)

 

2010年代のベスト11(但しクリロナとメッシ除く)

 2019-20シーズンも始まって、久方ぶりにインテルもまぁまぁ好調なスタートを切ったんで割と例年よりも機嫌よく試合を観れていたりしますが、21世紀2度目のディケイドの最後のシーズンでもあるんで、ありがちではありますが直近10年間のベスト11を組んでみましたよ。

 但しタイトルにもある通りクリロナとメッシを含めると自動的に2枠埋まっちゃって面白くないんで、この2人は外して考えてみました。もっと言うとクリロナがいるチームにクリロナなしで勝てるチーム、というのも選考基準にしました。

 

【監督】アントニオ・コンテ

 誰もが10 年代最高の監督はグアルディオラだと考えてると思うんですけど、実際その通りだと思います。10年代初頭に唯一グアルディオラに対抗できる存在だったのはモウリーニョだと思うんですけど、彼のピークはやっぱり00年代だったと思うんですよね。10年代になって台頭してきたクロップとかコンテとかはグアルディオラを踏まえて独自の路線を打ち出してて面白いですね。

 クロップはグアルディオラからポゼッションという要素を削ってハイプレスをポジショナルプレーのなかで再整理した感じで、守備戦術ではグアルディオラをさらに過激にしつつ攻撃面ではダイレクト志向。

 コンテも似てるんだけど、よりポジショナルな面が強調されていて、攻撃面ではアメフトやバスケのような緻密なパターン戦術をサッカーに組み入れようとしてますね。多分コンテはサッカー以外のボール競技をかなり研究してるんじゃないかと思う。そういう意味で、クロップよりさらに未来を志向していて、かつ近い将来グアルディオラと対抗し得るという観点で、また単にインテルの監督だからという贔屓も含めてコンテを監督にしたいと思います。で、監督がコンテなのでシステムは3-5-2です。

 

【GK】ジャンルイジ・ブッフォン

【中央CB】レオナルド・ボヌッチ

【左CB】ジョルジュ・キエッリーニ

【右CB】アンドレア・バルザーリ

 

 見ての通り、ユヴェントスとイタリア代表のディフェンスそのまんまですね。というか、クリロナに対抗するとしたらこのディフェンスユニットしかあり得ないでしょ。恐らくサッカー史上でも屈指のディフェンスラインだと思います。

 メッシ以降、いわゆるハーフゾーンに入ってくる選手をどうやって潰すかっていうのが守備戦術の最大の命題だったと思うんです。外から入ってくるのにサイドバックがついてくとその大外を使われるし、センターバックが前に出るとその裏を使われるしで。

 この3人のユニットはハーフゾーン潰しのスペシャリストで、3人の内誰かが前に出ても残りの2人がカバーリングして、大外は下がってきたウィングバックが捕まえるっていう守備のメカニズムが機能美に溢れていました。

 右からバルザーリボヌッチキエッリーニという並びなんですけど、中央のボヌッチはロングパスが抜群に上手くて、ここから高い位置に張り出したウイングバックに一気にフィードして中盤飛ばす組み立ても非常に洗練されていましたね。守備だけでなくビルドアップの面でもモダンなユニットでした。

 

【アンカー】セルヒオ・ブスケツ

【右インサイトハーフ】ルカ・モドリッチ

【左インサイドハーフトニ・クロース

 

 アンカーはブスケツにしてみました。ピャニッチと迷ったんですけど、背後のボヌッチが組み立てに優れるのとクロースもいるので、このポジションにはピルロみたいなレジスタタイプよりもブスケツみたいな球の出し入れの上手いアンカータイプがいいかなと。脇を固めるのはモドリッチとクロップのレアルコンビで、まぁこの3人はあんまり説明不要かなと思います。アンカーのブロゾビッチ、インサイドラキティッチなんかも考えたんですけど、やっぱりレアルの2人に比べるとややインパクトに欠けるかなと。

 

【右ウイングバック】ダニ・アウベス

【左ウイングバック】マルセロ

 

 セレソンの2人ですね。コンテの戦術のウイングバックは規格外というか、守備のときは3バックの脇まで戻って、攻撃のときは2トップの横まででてウイングをやるっていう、ちょっと常識外れの仕事をこなさなきゃいけないんで、元から常識外れのこの2人がいいかなと。

 

【FW】ルイス・スアレス

【FW】エディソン・カバーニ

 

 コンテのサッカーって両サイドにウイング(バック)が張り出して4トップに近い形にして、そこに中盤飛ばして最終ラインから長いフィードを当てて、それを拾ったところからダイレクトにゴール前まで行くっていう極端にダイレクト志向なんで、2トップは球際強くて単独でもドンドン勝負に行くタイプでないと務まらないなと。その点この2人はウルグアイ人なんで元から2トップだけで点取に行くサッカーに慣れてるし、個人個人の能力も桁違いに高い。

 

 以上、まとめると

 

【GK】

 ジャンルイジ・ブッフォン

【DF】

 レオナルド・ボヌッチ

 ジョルジュ・キエッリーニ

 アンドレア・バルザーリ

【MF】

 セルヒオ・ブスケツ

 ルカ・モドリッチ

 トニ・クロース

 ダニ・アウベス

 マルセロ

【FW】

 ルイス・スアレス

 ネルソン・カバーニ

 

 クリロナはおろかネイマールとかセルヒオ・ラモスとかも全然入ってないけど、ゴリっとしててなかなかいいんじゃないかなと。