勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

2010年代のベスト11(但しクリロナとメッシ除く)

 2019-20シーズンも始まって、久方ぶりにインテルもまぁまぁ好調なスタートを切ったんで割と例年よりも機嫌よく試合を観れていたりしますが、21世紀2度目のディケイドの最後のシーズンでもあるんで、ありがちではありますが直近10年間のベスト11を組んでみましたよ。

 但しタイトルにもある通りクリロナとメッシを含めると自動的に2枠埋まっちゃって面白くないんで、この2人は外して考えてみました。もっと言うとクリロナがいるチームにクリロナなしで勝てるチーム、というのも選考基準にしました。

 

【監督】アントニオ・コンテ

 誰もが10 年代最高の監督はグアルディオラだと考えてると思うんですけど、実際その通りだと思います。10年代初頭に唯一グアルディオラに対抗できる存在だったのはモウリーニョだと思うんですけど、彼のピークはやっぱり00年代だったと思うんですよね。10年代になって台頭してきたクロップとかコンテとかはグアルディオラを踏まえて独自の路線を打ち出してて面白いですね。

 クロップはグアルディオラからポゼッションという要素を削ってハイプレスをポジショナルプレーのなかで再整理した感じで、守備戦術ではグアルディオラをさらに過激にしつつ攻撃面ではダイレクト志向。

 コンテも似てるんだけど、よりポジショナルな面が強調されていて、攻撃面ではアメフトやバスケのような緻密なパターン戦術をサッカーに組み入れようとしてますね。多分コンテはサッカー以外のボール競技をかなり研究してるんじゃないかと思う。そういう意味で、クロップよりさらに未来を志向していて、かつ近い将来グアルディオラと対抗し得るという観点で、また単にインテルの監督だからという贔屓も含めてコンテを監督にしたいと思います。で、監督がコンテなのでシステムは3-5-2です。

 

【GK】ジャンルイジ・ブッフォン

【中央CB】レオナルド・ボヌッチ

【左CB】ジョルジュ・キエッリーニ

【右CB】アンドレア・バルザーリ

 

 見ての通り、ユヴェントスとイタリア代表のディフェンスそのまんまですね。というか、クリロナに対抗するとしたらこのディフェンスユニットしかあり得ないでしょ。恐らくサッカー史上でも屈指のディフェンスラインだと思います。

 メッシ以降、いわゆるハーフゾーンに入ってくる選手をどうやって潰すかっていうのが守備戦術の最大の命題だったと思うんです。外から入ってくるのにサイドバックがついてくとその大外を使われるし、センターバックが前に出るとその裏を使われるしで。

 この3人のユニットはハーフゾーン潰しのスペシャリストで、3人の内誰かが前に出ても残りの2人がカバーリングして、大外は下がってきたウィングバックが捕まえるっていう守備のメカニズムが機能美に溢れていました。

 右からバルザーリボヌッチキエッリーニという並びなんですけど、中央のボヌッチはロングパスが抜群に上手くて、ここから高い位置に張り出したウイングバックに一気にフィードして中盤飛ばす組み立ても非常に洗練されていましたね。守備だけでなくビルドアップの面でもモダンなユニットでした。

 

【アンカー】セルヒオ・ブスケツ

【右インサイトハーフ】ルカ・モドリッチ

【左インサイドハーフトニ・クロース

 

 アンカーはブスケツにしてみました。ピャニッチと迷ったんですけど、背後のボヌッチが組み立てに優れるのとクロースもいるので、このポジションにはピルロみたいなレジスタタイプよりもブスケツみたいな球の出し入れの上手いアンカータイプがいいかなと。脇を固めるのはモドリッチとクロップのレアルコンビで、まぁこの3人はあんまり説明不要かなと思います。アンカーのブロゾビッチ、インサイドラキティッチなんかも考えたんですけど、やっぱりレアルの2人に比べるとややインパクトに欠けるかなと。

 

【右ウイングバック】ダニ・アウベス

【左ウイングバック】マルセロ

 

 セレソンの2人ですね。コンテの戦術のウイングバックは規格外というか、守備のときは3バックの脇まで戻って、攻撃のときは2トップの横まででてウイングをやるっていう、ちょっと常識外れの仕事をこなさなきゃいけないんで、元から常識外れのこの2人がいいかなと。

 

【FW】ルイス・スアレス

【FW】エディソン・カバーニ

 

 コンテのサッカーって両サイドにウイング(バック)が張り出して4トップに近い形にして、そこに中盤飛ばして最終ラインから長いフィードを当てて、それを拾ったところからダイレクトにゴール前まで行くっていう極端にダイレクト志向なんで、2トップは球際強くて単独でもドンドン勝負に行くタイプでないと務まらないなと。その点この2人はウルグアイ人なんで元から2トップだけで点取に行くサッカーに慣れてるし、個人個人の能力も桁違いに高い。

 

 以上、まとめると

 

【GK】

 ジャンルイジ・ブッフォン

【DF】

 レオナルド・ボヌッチ

 ジョルジュ・キエッリーニ

 アンドレア・バルザーリ

【MF】

 セルヒオ・ブスケツ

 ルカ・モドリッチ

 トニ・クロース

 ダニ・アウベス

 マルセロ

【FW】

 ルイス・スアレス

 ネルソン・カバーニ

 

 クリロナはおろかネイマールとかセルヒオ・ラモスとかも全然入ってないけど、ゴリっとしててなかなかいいんじゃないかなと。

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく⑦

仮説③寿桂尼は承芳と太原雪斎の政敵だった

 筆者は氏輝治世下の今川氏の政局は、以下の勢力に分かれていたと考えている。

 

親北条派】氏輝–寿桂尼

【反武田派】恵探–福島氏

【親武田派】承芳–太原雪斎

 

 氏輝–寿桂尼の連立政権が保守的で前代の政策を踏襲して親北条派だったことは先述した。

 

 それに対して福島氏は、先年の甲斐乱入事件の際に多くの戦死者を出して面目を失った私怨に近い感情が武田氏に対してあったと推測され、これを親北条派と区別して反武田派としたい。

 氏輝治世の情勢では親北条と反武田はほぼ同義だったから、両派は概ね一体のものとして認識されていたはずである(タカ派ハト派という体温の違いはあったと思われる)。

 

 恐らくまだ表面化はしていなかったが、筆者は承芳と雪斎は親武田派だったと考えている。

 遠江の次は三河、そしてその次は尾張。今川氏の成長戦略を考えれば、如何に盟友とはいえ北条氏の関東の揉め事に付き合って武田氏との抗争で消耗するのは全く得策ではない。武田氏との紛争を速やかに解決して今川氏は西進すべきである。

 ただしそれは反北条という意味ではなく親武田かつ親北ということだったと推測する。考えてみれば、武田と同盟しても北条と敵対すれば、やはり西進は覚束ないのは自明である。

 承芳と雪斎が親武田派(かつ親北条派)だったとする論拠としたいのは、後年の甲駿相三国同盟、有名な善徳寺の会盟である。

 

 河東一乱が終息してから8年後の天文21年(1552年)、前年に定恵院(義元公正室、信玄の姉)が死去したのを機に信玄の嫡子義信に義元公の娘嶺松院が輿入れし、甲駿同盟が更新された。その翌年に信玄の娘黄梅院が氏康嫡子氏政に、さらにその翌年に義元公の嫡子氏真に氏康の娘早川殿が輿入れしたことで三国間の婚姻同盟が成立した。

 三家の当主が善徳寺に集まって誓紙を交わしたという伝承はさすがに創作だろうが、善徳寺はまだ九英承菊と名乗っていた若き頃の雪斎が学び、幼い義元公が栴岳承芳として入門した曰くのある寺院であり、この三国同盟を周旋するために奔走したのが雪斎だった。

 

 そして、恐らく承芳と雪斎が氏輝と彦五郎を謀殺してまで政権を奪った意図は、最初からこの三国同盟の締結にあったと考えるのである。

 

 実際この同盟以後、武田氏は信濃方面、北条氏は関東、そして今川氏は三河から尾張と、それぞれが背中を預けあって進出していくのである。まさに三者に利のある理想的な同盟関係なのだが、前代からの外交方針に固執する保守的な寿桂尼執政下の氏輝政権では実現できなかった。

 また抵抗勢力寿桂尼の保守政権だけではなく、反武田感情の強い福島氏が健在では武田氏との共闘は覚束なかっただろう。つまり、氏輝と彦五郎の謀殺から花倉の乱での玄広恵探と福島氏の粛正まで、すべて甲駿相三国同盟を実現するために承芳と雪斎が構想した一連の政治運動だったというのが筆者の考えである。

 

 また近年の説ではまた別の視点もある。それは寿桂尼と雪斎が政治的に対立していたというものである。

 既述だが寿桂尼の実家は公家の中御門家である。この時代の公家は地方にもっていた所領を在地の武家に押領されて生活が窮迫しており、各地の有力者のもとへ下向して所領の回復を依頼したり、歌道や蹴鞠などの技芸を伝授することで寄寓したりして生計を立てざるを得なかった。寿桂尼が今川家に嫁いだのも、そういう世相の流れだったろう。

 もともと武家としては文化的素養の高かった今川氏のもとには寿桂尼の縁を頼って多くの公家や技芸者が参集し、後世に今川文化と呼ばれる地方文化を形成していった。

 寿桂尼自身、公家の娘として教養もあり、また聡明で気丈な女性でもあったのだろうが、一面では彼女の出自による京都政界とのコネクションがその政治基盤となっていたことも疑いない。

 

  一方の太原崇孚雪斎の実家は庵原氏である。庵原は駿河西部の古い地名であり、古代から当地に根を下ろした古豪の一族だった。母方の実家は水軍衆の興津氏、ともに今川譜代の家柄である。

 方菊丸(義元公の幼名)の教育係として善徳寺に出家して九英承菊と名乗り、のちに京都五山建仁寺でともに修行し、そこで方菊丸は得度して栴岳承芳と名乗った。さらには臨済宗妙心寺派総本山妙心寺でも学び、晩年には第35代妙心寺住寺を務めるなど、禅僧としても当代一流の経歴をもった。

 承芳と雪斎が駿河に帰国したのは天文4年(1535年)で、2人の京都滞在は断続的に10年に及んだ。その間寿桂尼の実家である中御門家や姉の嫁ぎ先の山科家、また承芳の伯母の嫁ぎ先の正親町三条家、その姻戚の三条西家、著名な僧侶などと交流を深め、寿桂尼とは独立した人脈を京都政界で築いたいったようである。

 寿桂尼を頼って多くの公家が駿府を訪れていたとはいえ、彼女自身が駿河に嫁いで既に30年が過ぎ、実家の中御門家も家格は名家で大臣家の正親町三条家や三条西家などと比べると政界での影響力は小さかった。

 雪斎は京都に滞在しながら今川氏の姻戚関係も利用しつつ人脈を広げ、また臨済宗妙心寺派の僧として仏教界での交流もあった。

 京都政界とのコネクションを今川家中での政治基盤としていた寿桂尼にとっては、雪斎は脅威と感じられたことだろう。

 氏輝の死の直後に幕府から義元公の家督継承の御教書を引き出したことからも、雪斎の京都政界への影響力がすでに大きなものになっていたことが窺える。

 

 そして花倉の乱である。

 

 恐らく寿桂尼は氏輝と彦五郎を謀殺したのが雪斎と承芳であることに気づいていたのではないか。その上で実子の承芳より、恵探の支持を選んだ。

 

 考えてみれば、承芳が寿桂尼の実子なら氏輝と彦五郎も同じく腹を痛めて産んだ寿桂尼の子なわけである。

 如何に息子とはいえ、我が子を2人も殺した相手を母親の情として簡単に赦すことはできないだろう。しかもその目的が自身の政権へのクーデターでブレーンが政敵の雪斎だとしたら、はいそうですかと政権を譲るわけがないのである。

 

 こうして寿桂尼は恵探に与党するのだが、もしかしたら自分がそうすることで恵探が勝利した場合に承芳の助命を要請するという、母親の一縷の情があったのかどうか、内心は計り知れない。

 

 それにしても同母兄を2人殺し、また生母を敵に回して異母兄も自裁させて家督を継いだわけだから、義元公も尋常な神経の持ち主ではないと思えてくるが、のちの義元公をみる限り、そこに然程の違和感は感じないのだ。

 織田方から離反して従属してきた山口教継を無実の罪で粛清したような、義元公はけっこう冷酷なことをこの後も平然と続けるのである。このあたりが単に雪斎の傀儡ではない、義元公の凄みと言えよう。

 

 ともあれ、氏輝と彦五郎の変死は承芳と雪斎を中心とする反武田派の寿桂尼政権へのクーデターだった、そしてその政治目的は武田・北条との三国同盟による西進だったというのが筆者の仮説である。

 

 そこで最後の疑問が、にも関わらず何故北条氏の侵攻とその後の河東一乱が起きたのか、であるが、それは次の稿で考えてみたい。

 

(続)

 

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生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく⑥

 以上、前稿で概観したように義元公の家督相続を巡っては不可解な点が多い。筆者なりに論点を列挙すると、以下のようになる。

 

①氏輝はなぜ死んだのか?

②彦五郎とは何者だったのか?

③なぜ寿桂尼は恵探を支持したのか?

④なぜ義元公は駿相同盟を破棄したのか?

 

 これらの疑問を検討することで、戦国大名今川義元がなぜ生まれたのかを理解することができるのではないかと考えている。

 無論、ここから先は状況証拠からの筆者の推理というか妄想に近い内容で、史料等の裏付けは何もない。その前提で読み流してもらえればと思う。

 

仮説①親北条派と親武田派の対立

 まず氏輝の在世当時、今川氏内部には親北条派と親武田派があったのではないかというのが第一の仮説。

 

 北条氏は氏親の外戚伊勢宗瑞を祖として二代目氏綱は氏親の従兄弟、その嫡男の氏康寿桂尼の娘瑞渓院正室に迎えて氏輝と氏康は義兄弟にあたり、両家は二重の姻戚関係によって結ばれていたから、主流は圧倒的に親北条派だったろう。氏輝の治世まではあくまで親武田派は少数若しくは潜在的だったはずである。

 

 今川氏と武田氏とは永正18年/大永元年(1521年)に福島氏を主力とする今川軍が甲斐に侵攻した福島乱入事件が起きて以来、対立関係になっていた。

 福島氏は義元公と跡目を争った玄広恵探の生母の実家である。武田信虎によって撃退された福島氏は甚大な損害を被り、恐らくその後今川家臣団中で反武田の急先鋒となったのはこの福島氏だったろう。

 また北条氏も宗瑞時代に武田氏と国境紛争を起こして対立し、武田氏は氏綱の攻勢にさらされていた扇谷上杉氏と同盟して北条氏に対抗していた。

 関東情勢を取り巻くかなり大きな枠組みの中で武田氏は政治的に反北条方に属していたのだが、いわゆる新興勢力だった北条氏には姻戚であり名目上は主筋にあたる今川氏くらいしか味方がいなかったとも言える。

 

 つまり内部には武田氏に怨恨をもつ福島氏が、外部では盟友北条氏が 関東政局を巡って武田氏と対立していた。

 氏親の晩年から氏輝の治世まで後見を務めていた寿桂尼は前代の基本政策を踏襲していたので、自ずと今川氏の外交戦略が親北条=反武田に傾くのは必然だった。

 

 しかし武田氏との紛争が今川氏の領国運営上どれだけ益するところがあったかというと大いに疑問が残る。

 福島氏を中心とした内部の反武田感情と、盟友北条氏との共闘関係という要素を除けば、寒冷な山国で甲斐源氏宗家の武田氏でも統治に苦労するほど国人が割拠していた難国甲斐に領土的旨味はなかったはずである。したがって氏親・氏輝の2代にわたる武田氏との紛争は、駿相同盟に基づく側面支援の意味合いが強かったと思われる。

 

 しかし斯波氏との抗争を制して遠江を領国化した今川氏は、本来であればそのまま三河へと攻勢に出て温暖な東海道沿いに領国を拡大していくのが合理性的な戦略だったと考えられる。そのためには実利に乏しい武田氏との紛争は足枷でしかない。当時の今川家中でもそう考える勢力はいたはずである。

 しかし当主氏輝と後見寿桂尼の連立政権のようになっていた当時の今川氏主流派は、そのような積極的な戦略をとることもなく、氏親時代の路線を踏襲した消極的な政権運営に留まっていた。

 

 つまり、もし氏輝の変死が他殺、謀殺の類だとしたら、それは消極的な政権運営に不満をもっていた勢力、親武田へと政策転換して西方に進出すべきと考えていた勢力によるクーデターだったと考えるのである。

 

仮説②彦五郎は氏輝の同母弟だった

 氏輝と同日同時に死亡したと伝わる謎の人物、今川彦五郎については、さまざまな史家、作家が推測をしているが、如何せん死んだということ以外まるで伝わっていないので、なにか新しい史料でも発見されない限り、真相は闇の中である。

 

 わかっているのは彦五郎という通称だけだが、今川氏嫡男の通称は初代範国以来五郎が慣例である。義元の曽祖父範忠、祖父義忠の親子が彦五郎を名乗っていたが、五郎と彦五郎のあいだにどういう違いがあったのかはよくわからない。

 他にも伝わっていない彦五郎がいたのかもしれないが、範忠と義忠の前例を鑑みれば、「彦五郎」が五郎に準じて今川氏嫡男の通称だったことは確実である(逆に言えばそれ以外の者が名乗ることは憚られたはずである)。

 氏輝に子がなかったとする所伝を信じるなら、氏輝と同時に死んだ彦五郎を名乗る人物は、氏親の正室寿桂尼の次男であり、氏輝に万一のことがあった場合には家督継承候補第1位となる嫡弟という推測が許されるだろう。

 

 個人的に面白いと思っているのは、皆川博子『戦国幻野』の彦五郎は氏輝の双子の弟だったという設定である。如何にも小説家的な発想ではあるが、確かに双子は当時不吉とされていたので、もし彦五郎が氏輝の双子の弟なら表に出ることもなく、にも関わらず家督継承候補第1位だったというのも一応説明がつく。

 

 双子かどうかはともかく、シンプルな説明をすれば、彦五郎が氏輝とともに殺されたのは首謀者が家督継承候補第2位以下の者だったからである。もし第2位以下の候補が家督奪取を目的としていたなら、殺害するのは当主だけではなく、自分より上位の候補すべてでなければならない。

 

 となると、必然的に容疑者は三男の玄広恵探か五男の栴岳承芳(義元公)となる(氏親には四男に象耳泉奘という息子もいたが、早くから京都で僧となり駿河の政局には登場しない)。

  そして正当な家督継承者だった彦五郎に関する記録が今川氏内部に残らなかったのは、それがのちに隠匿・抹消されたから以外に考えにくい。それが可能なのは氏輝の跡目を継いで政権を奪取した者だけであろう。

 

 要するに、氏輝・彦五郎弑逆の首謀者は栴岳承芳、のちの今川義元公その人だというのが筆者の推論である。

 もっとも承芳は当時まだ18歳で、単独で実兄を謀殺した主犯とするにはいくらなんでも若すぎる。恐らく師の太原崇孚雪斎がブレーンとして画策したか、あるいは雪斎こそが首謀者だった可能性もある。この師弟は思考がほぼ同じなので、どちらが主なのか渾然としてわからないところがあるが、少なくともこの時点ではまだ若く家督も継いでいない承芳よりも、既に不惑を迎えていた雪斎の方が主体だったと考える方が自然ではある。

 

 そしてもし彦五郎が寿桂尼の実子だったという仮定が許されるならば、寿桂尼がなぜ承芳ではなく恵探を支持したのかも、ある程度説明がつくと考えているが、また大分長くなったので続きは次稿に譲る。

 

(続)

 

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生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく⑤

 いよいよもって鼻息荒く義元公の治績を語りたいところだが、氏親没後に家督を継いだのは同母兄の嫡男氏輝である。

 義元公は氏親の五男として生まれ、父の生前、まだ4歳のときにに臨済宗善徳寺で九英承菊(のちの太原崇孚雪斎)の弟子となり栴岳承芳と名乗った。

 

 氏輝と義元公の生母は氏親の正室で公家の中御門家出身の寿桂尼である。寿桂尼は氏親、氏輝、義元公、氏真の4代にわたって国務を補佐して、尼御台と称された。

 黒衣の宰相こと雪斎は当初は承芳の仏門の師として、義元公の還俗後は執権として、その全盛期を支え戦国最高の軍師と言われた。

 

 義元公は武家の父と公家の母とのあいだに生まれ、家督はおろか武士として育つこともなく禅僧として生涯を過ごすはずだったが、長じて戦国大名となった数奇な人生のひとなのである。決してのほほんと名家を世襲しただけの坊やではない。

 禅坊主として生涯を過ごすはずだった承芳が如何にして戦国大名今川義元となったのか、その経緯は映画化して欲しいほどミステリアスで面白いのだが、非常に錯綜もしているので、まずはざっと流れを概観する。

 

 氏輝の変死事件

 義元公の兄、氏輝は14歳で氏親の跡を継いだ。前年に元服は済ませていたが、まだ若年のため母親の寿桂尼が後見として当主を代行した。

 氏親の晩年は会話もままならないほど健康状態が悪かったため、国務を寿桂尼が代行することも多かった。その延長で氏輝の家督相続後も当初は寿桂尼が当主代行として安堵状の発給などを行なっていたようである。

 氏輝が20歳になった天文元年(1532年)頃からは自身で国務をみるようになったが、その後も義元公が家督を相続するまで寿桂尼の国務執行は並行して行われていた。

 のちの義元公と氏真のように、当主が隠居後に跡取りと権限を分担して国務を行うことはしばしばあるが、成人した当主の母親が前当主のように振る舞うのは些か珍しい。このため氏輝が病弱だったという説もあるが、よくわからない。

 ともあれ、氏親の晩年から氏輝の治世にかけての20年ほどのあいだ、今川氏は寿桂尼の強い影響下にあったと言える。

 

 氏輝の治世は、内政面では検地を実施して引き続き遠江の領国化を進め、軍事面では甲斐守護武田氏との紛争などもあったが、総じて先代氏親の政策を踏襲することを第一として、やや消極的なものだったということは指摘できる。

 これも氏輝自身の志向というより、氏親晩年に事実上の執政を務めた寿桂尼の意向の反映と捉えてよいのではないか。夫の死後、些か頼りない跡継ぎの後見として、名君だった先代の路線を踏襲するのは寿桂尼にとっては自然な選択であったろう。

 

 また伊勢宗瑞以来の北条氏との共闘関係も、今川氏が氏輝に、北条氏が氏綱に代替わりしても継続しており、氏輝の同母妹瑞渓院が氏綱の跡取り氏康に輿入れして姻戚となっていた。

 甲斐との紛争も北条氏の政敵関東管領扇谷上杉氏と武田氏が共闘関係にあったためで、この当時の関東情勢は、北条氏–今川氏 同盟 対 扇谷上杉氏–武田氏 同盟という陣営に分かれて紛争が続いていた。

 これも元を糾せば、氏親の家督相続のときに扇谷上杉氏が小鹿範満を支援したことに端を発し、伊勢宗瑞が関東方面へ進出して今川氏の東部戦線を担ったことに対抗して、扇谷上杉氏が武田氏を自らの陣営に引き込んだことに始まっている。北条氏が今川氏から自立した勢力となったのちも、両氏は密接な連携をとっていたのである。

  師の太原雪斎とともに修行のため京都に滞在していた承芳も、この対武田抗争に今川一門として参戦するために駿河に呼び戻されている。

 

 氏輝は了俊以来の今川氏当主の伝統に漏れず和歌に親しむ教養人で、歌人令泉為和の門弟でもあったが、甲斐との紛争の翌天文5年(1536年)に、師の為和とともに歌会のために相模小田原へ赴いた。

 氏康に嫁いだ妹瑞渓院への面会という名目だったが、相模での滞在は1カ月にも及び、北条氏と今後の共闘戦略について当主同士で協議するのが目的だったのだろう。

 

 そして相模から帰国した直後の3月17日、唐突に氏輝が死去する。死因も死んだときの状況も伝わらっておらず、全くの変死と言うほかない。享年24歳。さらに奇妙なのは氏輝と同日同時に今川彦五郎という人物も死亡していることである。

 

十七日今川氏照同彦五郎同時ニ死ス

(『高白斎日記』)

四月十七日氏輝死去廿四歳、同彦五郎同日遠行

(『冷泉為和日記』)

 

 この彦五郎という人物は『今川記』や系図類に名がみえず、駒井高白斎(武田氏被官)や冷泉為和といった他国人の遺した記録に死亡記事が伝わるのみで、氏輝と同時に死んだということしか分からない。

 

 謎の人物というほかないが、彦五郎という通称は五郎に次ぐ今川氏当主の名乗りであり、通説では氏輝の同母弟ではないかとされている。

 氏輝には妻も子もいなかったらしく、24歳で妻子がないというのは、なによりも家を絶やさないことが第一だった当時の感覚としては違和感がある。

 父の氏親も子を成したのは晩年で、氏輝は氏親42歳、義元公は48歳のときの子どもである。当時としては相当に遅いと言わざるを得ない。

 寿桂尼と氏親の結婚が永正5年(1508年)または2年(1505年)といわれ、氏親37歳(または34歳)のときなのでそもそも当時としては相当に晩婚でもある。

 このあたり、今川家のなかにも色々家庭の事情があったのかもしれない。

 

 かように氏輝には継嗣がなかったため、家督継承候補第1位は、この彦五郎だったと推定されている。つまり当主とその後継者が同時に変死しているのである。そしてその後継者の名はのちの今川氏の記録には存在せず、同時代の他国人の記録にしか伝わっていない。

 

 どうみても隠蔽である。陰謀の匂いしかしない。

 

花倉の乱

 彦五郎についてはまたあとで検討するとして、氏輝死後、今川氏ではその継嗣を巡って内紛が起きた。

 一方は言わずもがな、のちの今川義元公こと栴岳承芳、もう片方は承芳より2歳上の異母兄にあたる玄広恵探である。

 恵探は承芳と同じく、幼少で出家して花倉の遍照光寺の住持となり花蔵殿と呼ばれていた。

 恵探の生母は氏親の側室で今川氏の重臣福島氏の出身だった。この福島氏が恵探を擁立して氏輝の後継者に推した。

 対する承芳は師の太原雪斎が推し、岡部、朝比奈、三浦と言った歴々の重臣たちが支持した。ただし奇妙なことに承芳の生母であるはずの寿桂尼は恵探を支持したようである。この点についてもあとでまた検討する。

 このとき承芳は18歳、恵探は20歳だった。

 

 今川家臣団は承芳派と恵探派に分裂して駿河遠江の各地で内戦になったらしい。承芳派の動きは素早く、5月には幕府から家督相続の承認を取り付け、将軍足利義晴から偏諱を賜り還俗して義元と名乗った。

 恵探は5月25日に生母の実家福島氏とともに挙兵して駿府館を襲撃するも敗退、同盟国の北条氏の支援も取り付けた承芳派は6月に花倉城を攻め恵探は自刃、福島氏も滅亡した。

 

河東一乱

 花倉の乱を制して家督を継ぎ、今川氏第11代当主となった義元公だが、翌天文6年(1537年)2月、これまで抗争関係にあった武田信虎(信玄の父)の娘、定恵院と婚姻を結んで駿甲同盟を成立させ、氏輝以前の外交戦略を180度転換した。

 武田氏は花倉の乱の際には承芳を支持しており、氏輝の死の直後、もしかしたらその以前から同盟交渉が水面下で進められていたのかもしれない。

 

 氏親の代から共闘関係にあり姻戚でもあった北条氏はこれを同盟違反と見做し、同月のうちに駿河に侵攻して富士川以東一帯を占領してしまう。

 花倉の乱で恵探派に与した堀越、井伊氏と言った遠江の国人が離反して挟撃される形になった義元公は北条氏に対抗できず、天文14年までの8年間にわたって北条氏による河東地方占領は長期化し、今川氏は親武田氏路線を強めていく。

 

 義元公と定恵院の結婚の4年後、義父の信虎が嫡男晴信に追放されるクーデターが起きた。

 信虎が娘の定恵院と婿の義元公と面会するために駿河を訪れた際、晴信が甲駿国境を封鎖し、父の追放を宣言して家督と甲斐守護職を相続したのだ。

 義元公と晴信のあいだには事前にこのクーデターへの合意があったらしく、信虎は今川氏の庇護下に入り駿河に寓居することとなった。

 こうしてみると義元公の親武田外交の対象は、信虎よりも晴信だったのではないかと思えてくる。この一連の甲駿同盟を武田方で主導したのが駒井高白斎、今川方はもちろん太原雪斎だった。

 

 さらにその4年後の天文14年(1545年)、義元公は北条氏の政敵扇谷上杉氏と連携して河東地方の奪還を試みる。

 北条氏の拡大に危機感を募らせていた山内家と扇谷家の両上杉氏、その影響下にある関東諸将の大軍が武蔵河越に侵攻して、北条氏を窮地に追い込んだ。

 北条氏は氏綱の子氏康の代になっていたが、さすがにこれには単独で対抗できず、武田氏の仲介で今川氏と和睦して河東を返還、その甲斐あって戦国三大奇襲のひとつに数えられる河越城の戦いで上杉連合を壊滅させ、扇谷上杉氏は当主が戦死して滅亡、関東での北条氏の優位は決定的となった。

 

 この和睦によって8年に及んだ河東一乱は終息し、義元公の家督争いに端を発した一連の抗争もここに一応の終結をみるのである。

 

(続)

 

海道の修羅

 

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生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく④

 さて、今川義忠が遠江での抗争で戦死した文明8年(1476年)には、まだ龍王の幼名を名乗っていた氏親は3歳(5歳説もある)で家督を継ぐには幼すぎた。このため、朝比奈氏や三浦氏といった譜代家臣が今川氏庶流の小鹿範満を擁立し、駿河守護の座を龍王丸派と争うこととなった。

 

小鹿範満の乱

 

 範満は堀越公方(この当時の関東公方は伊豆堀越に在所していた)の執事上杉憲政の娘を母としていたため、憲政と関東管領扇谷上杉氏の家宰太田道灌らの関東勢力が範満を支援して駿河に進駐し、今川氏の家督争いに介入した。

 駿河は範満派と龍王丸派に分かれて内乱状態に陥ったが、関東勢力をバックにつけた範満が抗争を優勢に進めた。龍王丸の父義忠が同じ東軍方にも関わらず正規の遠江守護である斯波義良と敵対したことが心象を悪くして家臣団の不評を買ったようである。

 

 しかし堀越公方の影響力が大きくなることを懸念した幕府は龍王丸の叔父伊勢宗瑞を派遣して仲介させ、龍王丸が成人するまで範満が家督を代行する条件で和談をさせた。

 

 この伊勢宗瑞が、のちに戦国大名北条氏の祖となった北条早雲であり、義忠の正室(氏親の母)北川殿の弟にあたる。

 

 伊勢氏は幕府政所執事世襲する幕臣で、宗瑞はその庶流備中伊勢氏から宗家に養子に入って幕府の申次衆を務めていた。

 申次衆とは将軍家と守護を仲介して奏聞を取り次ぐ渉外担当・窓口であり、宗瑞の父も同じく申次衆を務め、今川氏の担当だった。その縁で姉の北川殿が義忠に輿入れしたものらしい。

 

 一旦、関東勢力は幕府の裁定を受け入れて駿河を撤兵し、龍王丸派と範満派の抗争は沈静化して宗瑞は帰洛したが、文明19年(1487年)、龍王丸が成人しても範満が実権を譲らなかったため、伊勢宗瑞は再び駿河に下向して範満を滅ぼし、龍王丸は元服して氏親を名乗って家督を継いだ。

 この功により宗瑞は駿河興国寺城と富士郡12郷を与えられ、当主の外叔父として氏親の後見役となり、守護代を務めるようになった。同時にそれは京都での幕府官僚という立場を捨てて、地方政権である今川氏の一門として生きるという選択でもあった。

 

 宗瑞はのちに伊豆の堀越公方、相模の大森氏や三浦氏などの国人衆を滅ぼして下克上の典型とされ、宗瑞の伊豆侵攻を戦国時代の嚆矢とする歴史認識も存在するが、彼の軍事行動は今川氏の関東政策の一環であり、明確に北条氏が今川氏から独立して対等な立場になるのは、宗瑞の跡を継いだあと伊勢氏から北条氏へと改姓をした氏綱の代からである。宗瑞自身の行動原理はあくまで今川一門という意識の枠内に成立していたように思われる。

 

伊豆討ち入り

 

 明応2年(1493年)、堀越公方家で庶長子茶々丸正室と嫡男を殺害する事件が起きると、幕府は宗瑞に茶々丸討伐を命じた。堀越公方家は氏親の家督相続に介入した政敵でもあり、今川氏の支援を受けて宗瑞は茶々丸を滅ぼして伊豆を占領した。世に言う早雲の伊豆討ち入りである。

 これも後世に宗瑞の下克上の野心を動機とするかのように描かれたが、既述のように、あくまで幕命による堀越公方家への軍事行動であり、今川氏が室町幕府の関東担当として度々繰り返されてきた関東情勢への介入の延長上に捉えるべきだろう。

 のちに北条氏が代表的な戦国大名へと成長したために宗瑞の動機もそこから遡行して理解されることがちだが、もともと東国に地盤をもち、関東情勢とも関わりの深い今川氏との関係を軽視すべきではないだろう。

 この後、宗瑞は関東管領扇谷上杉氏に属する大森氏や三浦氏を滅ぼして相模に進出するが、扇谷上杉氏も堀越公方同様、氏親の家督相続時に介入した政敵であり、関東での宗瑞の軍事行動はそのまま今川氏の東部戦線を形成していた。

 氏綱が北条氏に改姓した動機には、宗瑞時代の今川氏との関係を整理して、独立した政治勢力として関東での抗争を動機づける意図もあったかもしれない。

 ただし伊豆討ち入り後の宗瑞は伊豆国主として周囲に認識されるようになり、一門として今川氏に内包される存在から逸脱しつつあったのも事実だろう。

 

 伊豆韮山城を本拠とする国主となってから10年以上も、宗瑞は氏親の名代として今川軍を指揮し、遠江三河、甲斐などを転戦した。

 永正5年(1508年)に遠江の半ばを制圧した氏親が守護に補任されたあたりから、ようやく宗瑞は関東方面へと転出していく。宗瑞の死没はその10年後である。つまり晩年の10年間を除けば、宗瑞の事跡の多くは今川一門としての行動だったといっていい。

 

遠江抗争の終結

 

 永正13年(1517年)、氏親は遠江尾張守護の斯波義達が進出した引馬城を攻撃して降伏させ、義達を尾張に追放した。これにより今川氏は遠江から斯波氏の勢力を一掃し、完全に制圧した。

 氏親は検地を実施して年貢高の把握と国人の掌握に努め、課税の適正化と軍役の強化を図って遠江の分国化を進めた。この検地自体がかなり先進的な施策だったが、検地を全国で初めて実施したのは宗瑞であり、氏親がそれに倣ったことは疑いない。

 

『今川仮名目録』

 

 晩年の氏親は中風にかかって寝たきりの状態が続いたが、その死没の僅か2ヶ月前に制定された『今川仮名目録』は、東国で初めての戦国分国法であり、その最高傑作とも言われる。

 これも宗瑞が先行して『早雲寺殿21ヶ条』を遺しているが、『21ヶ条』がまだ分国法というより家訓的な内容に留まっていたのに対して、『仮名目録』は訴訟の基準の明確化、裁判方法の確立など、法治主義的に分国を統治しようとする意図が顕著に表れている。

 『塵芥集』や『結城氏新法度』など他の分国法が、家訓的な内容が混在し、構成も一貫性に乏しく、重複も度々あるのに比較すると、氏親の『仮名目録』は年代的に先行するにも関わらず、極めて先進的な内容になっている。

 氏親の制定した『仮名目録』は33ヶ条あるが、のちに義元公によって『追加21条』が加えられた。氏親の死から20年後に武田信玄が制定した『甲州御法度』では、氏親の制定した条文のうち13ヶ条がほぼそのまま引用され、大きな影響を与えたことが知られている。

 

 守護大名戦国大名の違いは、分国の統治に旧来の権威による承認を必要とせず、主に自らの軍事的な実力によって領内の諸勢力の権益を保障したり剥奪したりするところにある。

 旧来の権威に依存しないということは、新たな秩序を安定させるだめに自らが新たにルールを生み出さなければならないということでもある。

 今川氏は累代武家としては優れた文化的素養を蓄積してきており、氏親と『仮名目録』以降、北条氏や武田氏など他の戦国大名と比較しても、今川氏は極めて法治主義的な統治を志向することを特徴として、氏親から義元公へと受け継がれていくのである。

 

 『仮名目録』は、晩年に言葉も不自由なほど健康を崩した氏親が、自分の死後に若年の氏輝が安定して領国を統治することを動機として制定したもののである。

 伊勢宗瑞という優れた師、文武両道の家風、また逸早く幕府依存から脱却して独自の分国統治を志向した歴史的位置などの条件に恵まれたことが、単なる家訓にとどまらない分国法の成立を促し、氏親に守護大名から戦国大名への転換を可能にした。

 

 そして戦国大名今川氏は氏親の子、義元公の治世に最盛期を迎えるのである。

 

(続)

 

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今川氏親と伊勢宗瑞:戦国大名誕生の条件 (中世から近世へ)

 

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく③

 ①が長くなってしまったが、義元公のいいところをドンドン挙げていく。多分、また長くなる。

 

父親と大叔父がえらい

 

 父親は範政の曾孫にあたる今川氏親、大叔父とは氏親の母、北川殿の弟である北条早雲こと伊勢新九郎盛時である。

 

 北条早雲は関東の覇者北条氏の初代として著名だが、北条に改姓したのは息子の氏綱の代から、また早雲は菩提寺の寺号で生前の法名は宗瑞が正しい。以下では伊勢宗瑞で統一する。

 

 氏親は宗瑞の後見を受けつつ斯波氏と抗争して遠江を分国化し、幕府の権威に依存する守護大名という立場を脱して、他に先駆けて今川氏を戦国大名化した先進的な当主だった。

 これまで足利将軍家の一門、室町幕府の関東への尖兵として地歩を築いてきた今川氏だが、氏親の治世に在国による分国の直接統治と斯波氏との抗争を経て、幕府から独立した地方権力へと変質していったのである。

 

 順にみていく。

 

斯波氏との遠江抗争

 五郎系今川氏は初代範国駿河遠江守護職に補任されて以降、その滅亡まで一貫して駿河守護を保持したが、遠江守護に関してはもっと錯綜した経緯を辿ることになる。

 

 範国は1336年から3年ほど遠江守護を務めたが、1339年から幕府の宿老仁木義長遠江守護に補任される。

 再び今川氏が遠江守護に補任されるのは1352年からで、範国没後は分家として二男の今川了俊、次に四男仲秋に引き継がれた。

 

 1395年に了俊が九州探題を解任されると、駿河半国と遠江半国の守護に転出し、駿河は甥の泰範と、遠江は弟の仲秋との共同統治となる。1400年には泰範が了俊と仲秋から守護職を取り上げて、再び本家が駿河遠江の守護を兼帯した。

 

 煩雑なので年表風にまとめると、

 

【1336–1339】範国駿河遠江守護

【1352–1384】範国駿河遠江守護

【1384–1388】駿河守護泰範 遠江守護了俊

【1388–1395】駿河守護泰範 遠江守護仲秋

【1395–1400】駿河守護泰範/了俊 遠江守護仲秋/了俊

【1400–1401】泰範駿河遠江守護

 

 概ね14世紀後半は今川一族で遠江守護を保持し、分家の了俊系統は守護職を取り上げられたのちも遠江に定着して遠江今川氏(本家今川氏が天下一苗字となってからは堀越氏)となった。

 しかし1405年に幕府管領斯波義重が、1419年にその子の義惇遠江守護に補任されると、以後約100年間にわたり斯波氏が遠江守護職世襲するようになり、在地に定着した今川一族とその本家駿河今川氏とのあいだで衝突を繰り返すようになる。

 

 斯波氏は足利氏の一族で、今川氏の本家筋吉良氏の祖長氏の甥にあたる家氏陸奥国斯波郡を所領としたことに始まる。家氏の母はもともと父泰氏正室だったが、同母兄の名越光時が北条得宗家に反乱を起こしたために庶流に落とされ、異母弟の頼氏が足利嫡流を継いだために、吉良氏と同じく嫡流の兄筋から分かれた家ということで、宗家とほぼ同格という家格意識高い系の氏族だった。

 

 鎌倉幕府が衰退すると斯波氏当主高経は宗家の足利尊氏と行動を共にし、越前守護として新田義貞を討ち取るなどの功を挙げて室町幕府の元勲ともいうべき存在となっていった。

 高経は四男の義将を足利将軍家の執事に就けたのを始め、侍所頭人、引付所頭人などの幕閣要職を一族で固めていき、また奥羽でも斯波氏分家の大崎氏が奥羽探題、最上氏が出羽探題を代々世襲した。

 

 特に、吉良氏と並ぶ一門筆頭だった斯波氏が執事に就いたことで、本来足利宗家の私的な家人でしかなかった執事職は、有力守護の合議体の座長的な位置付けとして管領へ格上げされ、幕閣首席の要職となった。これにより義将は四男ながら斯波氏嫡流を相続した。

 

 義将の子、義重管領職と越前守護を継承し、さらに応永の乱での戦功により尾張遠江守護も兼帯して、以後斯波氏は3ヶ国の守護を世襲し、かつ細川氏、畠山氏と管領職を輪番で務める3職として幕府での地位を確立した。

 

 遠江守護職を斯波氏に奪われる形となった今川氏だが、三河を発祥として駿河遠江と東海一帯に代々勢力を扶殖して在地における地盤を有する今川氏に対して、管領として京都に当主が常駐する斯波氏は任国の統治を守護代に委ねざるを得なかった。

 越前は朝倉氏、尾張織田氏(信長の本家筋)、遠江は狩野氏がそれぞれ守護代を務めたが、朝倉氏、織田氏はのちに斯波氏を横領して戦国大名化している。この辺りが地方政権としてのアイデンティティを確立していった今川氏と、あくまで幕政の中枢にあって足利将軍家の趨勢と命運を共にした斯波氏とのあいだの明暗を分けることになってゆく。

 

 遠江では了俊の曾孫、範将守護職を失ったあとも土着していたが、斯波氏、狩野氏と対立して長禄3年(1459年)に中遠一揆を起こすも鎮圧され、所領を狩野宮内少輔に奪われ、駿河今川氏に庇護された。

 応仁の乱(1467年)で氏親の父義忠は東軍に属して遠江に出兵し、西軍方の遠江守護斯波義廉との武力抗争に突入した。

 しかし、義忠は義廉に替えて東軍方が任命した遠江守護斯波義良、西軍から寝返って守護代となった甲斐敏光、それに追随する遠江国人らの東軍方とも対立してしまう。

 ここでは、すでに今川氏の関心は東軍西軍といった幕府中枢での政争にはなく、独立した地方政権としての領土的野心がその行動の動機となっていたことが明瞭に看取できる。

 こうして同じ東軍に属する遠江勢力との武力抗争まで戦線を拡大した義忠だが、文明8年(1476年)に斯波方遠江国人との戦闘で戦死してしまう。

 

 その遺志を受け継いで遠江の完全分国化を果たしたのが、義元公の父である氏親なのだが、ここまでにかなりの紙幅を重ねてしまったので、次稿に続くこととする。

 

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今川氏研究の最前線 (歴史新書y)





 

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく②

 さて、まだ義元公は登場しないのだが、我らが今川氏草創の話に移る。

 

 承久の乱ののち、守護として三河に地歩を得た足利義氏は同国内に一族を扶植していき、三河は本貫地の下野足利庄と並ぶ足利氏の地盤となっていく。その三河足利党の頭領とでも呼ぶべき存在が、義氏の庶長子、長氏の吉良氏である。

 

 この吉良長氏が晩年に吉良庄から分かれた今川庄を隠居所として、その今川庄を二男の国氏が相続して今川四郎を名乗ったのが今川氏の発祥である。東海の雄、今川氏も草創期は僅か3ヶ村の地頭として始まったのである。

 

霜月騒動

 その今川四郎国氏の跡を継いだ基氏が弘安8年(1285年)の霜月騒動で功を立てて遠江引間荘の地頭職を得て今川氏は遠江にも進出する。

 霜月騒動鎌倉幕府の有力御家人である安達泰盛と北条得宗家の内管領平頼綱の抗争事件だが、宗家の足利氏や本家筋の吉良満氏(長氏の子)が安達方に与党(満氏はこの戦いで戦死)しているのに対して、今川氏は独自路線をとって得宗家方に与して勢力を拡大したのである。

 この抗争の結果として鎌倉幕府の有力御家人の勢力が後退し、得宗専制と呼ばれる時代に入るわけだが、吉良氏の分家に過ぎなかった今川氏は得宗家の被官と化することで、はやくも本家吉良氏から独立した勢力となっていく。

 

足利一族随一の武闘派

 その半世紀後の元弘3年(1333年)、討幕に決起した後醍醐天皇方の楠木正成追討の幕命を帯びた足利尊氏三河に滞在した際、吉良貞義霜月騒動で戦死した満氏の子)は朝廷方に立つことを進言、尊氏はもとからそうするつもりだったらしいが、それが駄目押しとなって以後討幕へと邁進していく。

 恐らくこれが吉良氏が歴史を動かした最初で最後の瞬間だろう。今川氏もこれに同調し、以後足利尊氏とともに各地を転戦していくことになる。吉良氏の活躍はその後ない。

 

 建武2年(1335年)に最後の得宗北条高時の遺児、時行が幕府再興を企画して挙兵した中先代の乱では、今川氏は当主頼国(基氏の子)、その弟の範満、頼周と5人兄弟の内3人が戦死する凄惨な奮闘をみせ、その恩賞として頼国の遺児頼貞が丹後・但馬・因幡守護職、生き残った弟の範国駿河遠江守護職に補任された。ちなみに吉良氏が信濃の北条氏残党の鎮圧に失敗したのがそもそも中先代の乱のきっかけである。

 

 本来の嫡流である頼貞の系統(四郎系)はその後消息が途絶えるが、範国の系統(五郎系)は、範氏(範国の子)が尊氏と弟直義が対立した観応の擾乱で尊氏方に与党して駿河守護職を継承し、以後五郎系今川氏駿河守護を代々世襲して嫡流となっていった。

 余談だが吉良氏は観応の擾乱では直義方に属し、直義死後もその養子直冬や南朝方とともに北朝方に対抗していくが結局降伏しており、つねに勝ち馬に乗り続けた今川氏とは対照的に、いつも外れを引いている。

 こうして時系列で俯瞰すると、今川氏は草創当初から足利一族のなかでも武功で抜きん出た武闘派集団でありながら、冷静な情勢判断で確実に勝つ方に与することで勢力を拡大してきたことがわかる。

 

五郎系は文武両道のインテリ一族

 今川範国は歌道や有職故実に優れ、将軍家の儀式指南なども務めたとされるが、四郎系ではゴリゴリの武闘派だった今川氏は、範国の五郎系が嫡流になると文武両道の家風を具えるようになる。

 

 その象徴的存在が範国の二男、今川了俊こと貞世である。駿河守護職は兄範氏に継承されたが、武将としての活躍は了俊が遥かに勝る。

 

 山城守護職侍所頭人引付頭人などの幕府要職を歴任したあと、観応の擾乱以後激化した九州での南朝との抗争を指揮すべく九州探題に抜擢され、25年間の在任のあいだに南北合一を果たして九州を平定した。

 歌人、学者としても活動し歌論集や紀行文が伝わるインテリでもある。晩年は失脚して甥で嫡流の泰範に駿河半国を取り上げられ、遠江半国の守護として不遇の時期を過ごした。その間『難太平記』などの著作を残し、今川一族や自身の功績を後世に伝えている。南北朝期を代表する文武両道の武人でありながら今ひとつ名将感に欠けるのは、この愚痴っぽい不遇な晩年の印象によるのかもしれない。

 

 了俊の陰に隠れて存在感のなかった兄範氏だが、その跡は泰範範政と引き継がれる。

 範氏の孫、範政は和歌や書に優れて『源氏物語提要』などの著作もある五郎系今川氏の家風を受け継ぐインテリ大名だが、関東で勃発した上杉禅秀の乱(1416年)を鎮圧した功で副将軍に任ぜられた武人でもあった。

 

 戦国期、今川氏は公家との交流を盛んにして京風文化を奨励したことで今川文化と称される文化運動の中心になり、その本拠地駿府小京都と称された。

 義元公が桶狭間で圧倒的優勢の状況から大逆転負けを喫し、その跡を継いだ氏真が父の仇も討たずに家を滅ぼして蹴鞠に興じていた伝承などが流布したことで、今川氏というと文弱な印象を伝わってしまった。

 だがしかし、本来は坂東武者の気風を残す武断的な兵の家であり、五郎系初代範国から文武両道の家風を志すようになったというのが正しい理解である。

 

 範政以後の今川氏は関東情勢の悪化に伴い、幕閣として京都で活動するよりも、駿河に在国して関東に対する室町幕府の最前線を担う存在になっていく。

 

関東最前線

 観応の擾乱南北朝の乱と草創期から内乱の絶えなかった室町幕府は京都に本拠地を置かざるを得ず、本来の武家の根拠地である関東には足利一族から関東公方家を立てて独自に統治させる方針をとった。

 関東公方はその地位を幕府の干渉を受けることなく世襲し、管領や政所など独自の統治機関を備え、関八州と伊豆、越後の10ヶ国を任国として守護の任免や叙位任官の推薦権など独立した権限を有していた。

 元来、関東の武士は畿内を中心とする西国に対して独立心が強く、関東公方もなにかにつけて室町将軍家と対抗していた。地政学的にみれば駿河は関東に対して室町幕府の最前線に位置しており、特に上杉禅秀の乱関東公方の求心力が低下して以降、駿河守護である今川氏は治安の悪化した関東への監視役として、また幕府が武力介入する際の主力部隊という機能を期待されていたのである。

 

 この当時、各国の守護は京都に在住し任国の統治は専ら守護代以下の在地家人が請け負っていたが、この下請け構造が戦国時代の下克上の風土を醸成していった。ちょっと想像すればわかるが、守護はほとんど任国にいないわけだから、在地の実権は守護代が掌握してしまうのは当たり前である。

 

 関東の情勢悪化に伴って、駿河今川氏を始め、甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏など、関東と国境を接する国の守護は在国が認められた。これにより今川氏、武田氏などは任国を直接統治して在地に実権を奪われる事なく、他の守護大名が下克上で没落していくなか、戦国大名へと転換していく可能性が開かれたのである。

 

天下一苗字

 

 範政の子、範忠は廃嫡されかかったところを幕府の裁定で跡目を継いだ経緯もあり、副将軍と呼ばれた父以上に幕府のために働いて、永享の乱結城合戦といった関東の抗争で武功を挙げた。

 この功績によって、以後同族庶流に今川姓を用いることを禁じ、範忠の子孫のみが今川の名乗りを許される天下一苗字(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、五郎系今川氏が宗家となることが事実上公認された。

 在国となったことにより幕府中枢からは遠ざかったが、範政と範忠の2代にわたって関東への武力介入を行い、強力な分国支配を確立したことがのちの戦国大名今川氏を生んだと言える。

 

とりま今川氏まとめ

 ①足利一門でも別格の吉良氏の分家

②足利一門随一の武闘派で、幕府草創期の功臣

③五郎系が嫡流になって以降、文武両道の家風

④関東最前線の在国守護として強固な地盤

⑤今川を名乗るのが許されるのは五郎系今川だけ

 

 ただ単に家柄がいいだけではなく、鎌倉幕府末期から南北朝期の内乱まで数々の軍事的な成功を収め、巧みに情勢を読みながら繁栄してきた優等生氏族、それが今川氏なのである。

 

(続)

 

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今川義元とその時代 (戦国大名の新研究)