勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

【東京地政学④】木賃ベルト地帯/市ヶ谷ベース

 私は成人式にでていない。「成人式なんて出ねえぞ」とか気負っていたわけでもなく、単純に意識から溢れていた。生まれからすると平成7年1月の成人の日だったはずで、その日は例のごとく余丁町のスーパーで働いていて、店のひとに言われてはじめてその日が成人式だと気づいた。店長夫妻がいいひとたちでわざわざフォトフレームをプレゼントしてくれた。

 

 そもそも自分が成人式を意識していなかったんだが、そのタイミングがなかったせいもあって、なぜかというと17歳で引っ越して都内の高校大学に通っていたから、20歳当時に住んでいた川崎市宮前区には同級生のような存在が皆無だったからだ。いま考えれば、たとえ意識にのぼったとしても1人で誰も知らない川崎市の成人式にでることは、やはりなかっただろうとおもう。

 

 いまさらながら令和2年の川崎市の成人式がどうなっていたのか調べてみると、中原区とどろきアリーナで行われて、午前の部が川崎区・幸区中原区高津区で、午後の部が多摩区麻生区・宮前区だったらしい。なんかわかる。

 

北部のひと

中部のひと

南部のひと


 ともあれ、私の成人式があるはずだったのは平成7年、西暦でいえば1995年だ。もう四半世紀も昔のことなので記憶の前後関係が曖昧だが、記録によれば成人の日(当時は15日に固定だった)の前日に坂上忍が当て逃げで現行犯逮捕され、翌々日の17日に阪神神戸大震災が起きた。

 

 その日の朝、私は出がけにテレビの速報を横目でみただけで、「ああ、関西で結構大きな地震があったんだ」くらいに思って実家を出たのを憶えている。当時の私はまだ大学に通っていたはずなので、だから恐らく高田馬場に向かったのだろう。そのあと余丁町のスーパーで閉店まで働いて帰宅したのは深夜近く、帰ったらテレビで火の海になっている長田区が映っていた。それまで神戸の長田区なんて名前も知らなかった。本当にそのときまでそんな酷いことになってるとは気がつかなかった。当時はスマフォもなかったし、号外とか出ていたのかもしれないが大学でもスーパーでも地震の話は聞いた記憶がない。まだインターネットはほとんど普及していなくて、だから当時の情報の伝播速度はそんなものだったのかもしれない。

 

 阪神大震災で90年代の不穏な剣呑さが急に可視化された気がした。3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。それまでは飛び切り痛々しい奴らというだけだったのが、ほんとうに大量殺人のテロリストになった。大学を辞めたのはこの頃だった。

 

 我ながらノープランだったが、まあとにかく働いて家を出ようと思っていた。なんのあてもなかったので、anとかを買ってきてとりあえず取っ払いの日雇いバイトを探した。五体満足なら馬鹿でもできる単純労働ばかりだったが、その代わり誰でも仕事は貰えた。

 イベントの設営や警備、債権回収の下請けで廃棄物回収なんかをやった。飛んだ会社の事務所に入って、要は片っ端から捨てていく。さっきまで誰かがそこにいたみたいなオフィスで什器以外の私物も備品もどんどん捨てていく。なるほど飛ぶというのはこういうことかと思った。

 なんだかんだそんな生活を1年近く続けてみて、これは拉致が空かないなとようやく気づいた。全然収入が安定せず、家を出るどころではなかった。だからみんな定職に就こうとするのか。当たり前のことをやってみるまでわからないのが私の痛々しいところだった。

 いつまでも親の脛を嚙るわけにもいかねえなと考えていたときに、実家の郵便受けに「あなたもテレビ業界で働きませんか」みたいな往復葉書が入っていた。特にテレビっ子というわけではなかったし、なにかクリエティブな仕事がしたいとか考えていたわけでもなかったが、離職率の極めて高い業界であることは知っていたし、それならとりあえず入ることは容易いだろうと考えて葉書を送り返した。

 

 案の定、簡単に入れた。

 

 「じゃあすぐ来て」と言われ、ようやく曲がりなりにも月給取りの職を得て、めでたく実家を出ることになった。引っ越したのは中野区弥生町というところだった。

 

 弥生町には結構長いこと住んで、多分9年くらいいた。最寄駅は丸の内線方南町支線の中野新橋中野坂上も歩けないことはなかった。

 なぜここを選んだかというと、就職したのがフジテレビ系列の番組制作プロダクションで、当時はまだフジテレビはお台場に一部移り、一部は河田町の旧社屋に残っていたので、私の入った会社もまだ都営新宿線曙橋にあったからだ。比較的仕事先にアクセスがよくて、かつ丸の内線沿線は支線の側だと家賃がやや下がるという諸条件の着地点が弥生町だった。

 

 この街は神楽坂をすべてにおいてスケールダウンさせたような感じで、中野新橋駅の前を南北に緩やかな傾斜のついた商店街が通り、駅の側で東西に神田川が交差していた。そこにかかっている小さな橋が新橋だそうである。

 どういうわけかお笑い芸人が多い街で、グレート義太夫が嫁さんだか彼女だかを連れて歩いているのをよくみかけた。ダンカンもいた気がする。たけし軍団ばかりだが。

 借りた部屋は駅から10分くらい歩いたところにあるワンルームのアパート、6畳くらいでユニットバスとちっさな冷蔵庫、一応エアコンもあって家賃は確か6万、まあ上等な部類だろう。1畳くらいのロフトがあったんでワンルームでも若干スペースがあったのと天井が高いのがわりと気に入った。風呂は狭かったんで、よく近所の銭湯に出かけたが、X-GUNの太ってる方(西尾)をよくみかけた。あと芸人の他には力士も多かった。なぜかはよくわからない。

 

 アクセスや家賃というほかに、中野区は私の育った世田谷区、特に三軒茶屋近辺の世田谷地域に風景がよく似ていた。中野区だと中野ブロードウェイなんかがある中央線沿線のイメージが強いだろうが、区全体としては住宅地が多く、それも低階層の借家が多い。

 木賃ベルト地帯というそうだが、高度成長期に東京で大規模な都市基盤整備が行われた際に、季節労働者を収容するために中野区付近で民間が木造の長屋みたいな借家をバンバン建てたらしく、それを木賃アパートというそうだ。地主が公共事業に従事する出稼ぎ労働者のための借家を自分の土地に無秩序に建てていったために、中野区は建蔽率が非常に高く、低階層の木造アパートが密集する景色になったらしい。この辺の街の成り立ちが、関東大震災で都心を焼け出された人口を収容した世田谷地域と似ているのだろう。

 木賃アパートは季節労働者が住んでいたために住民の定着率が低く(出稼ぎが終われば地元に帰るため)、結果としていまでも中野区は学生なんかが住む若者の街という性格を保っている。木賃アパートを建て替えた後には、私の住んでいたようなワンルームアパートが多く建ったからだ。

 

 弥生町からどういう経路で曙橋まで通っていたのか記憶が定かでなのだが、恐らく新宿で乗り換えていたはず。ドア2ドアで30分くらいだったか。

 曙橋は「フジテレビ前」という副駅名もあったくらいで、駅前から北の河田町に続く商店街も昔は「フジテレビ通り」だった。

 駅前を通っているのが靖国通りで西に進むとそのまま新宿、学生時代に私の働いていたスーパーのある余丁町にも近い。駅横の合羽坂を上ると外苑東通り防衛省(当時はまだ庁)や交通機動隊、中央大の市ヶ谷キャンパスなどがある。外苑東通りを北に進むと私がのちに住むことになる薬王寺町で、南に進むと荒木町や四谷に至る。我ながらこの辺りとの地縁は濃い。

 

 この辺りは強いて言えば市ヶ谷地域とでも呼ぶべき土地で、もともとは大名屋敷が多かったらしく軍用地が多い。いまの防衛省がある場所は明治に陸軍士官学校が置かれ、さらに陸軍省参謀本部が設置されたことで、旧日本陸軍の東京における根拠地だった。そのおかげで戦中は空襲の的になることが多く、その焼け跡が戦後に大久保や戸山といった街になっていった。参謀本部跡地はいまの防衛省であり、三島由紀夫が割腹自殺したのもここである。

 フジテレビのあった河田町はほとんどの敷地が東京女子医大だが、この土地ももともとは陸軍獣医学校だったそうだ。

 

 フジテレビのお台場移転が進むと、私の勤めていたプロダクションは、確か天王洲に引っ越した。その会社を辞めたあとも私は弥生町のアパートに住み続けた。すぐ前にコンビニがあり、ほとんどの買い物も食事もそこで済ませていた。仕事が退けたらコンビニで弁当を買って家で喰い、プレステで遊んで寝る、みたいな生活だ。考えてみれば、いまもほとんど変わっていない。相変わらず弁当をコンビニで買って帰って、プレステで遊んで寝ている。変わったことといえば、借家じゃなくなったこと、プレステが4になったことくらいか。恐らく私の生活はすでに弥生町にいたときには必要充分な水準に達していたのかもしれない。