勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

【東京地政学②】渋谷ストリート/ディヴィジョン/トライブ

 下北沢駅前と三軒茶屋駅前をつなぐのが茶沢通りで、歩くには遠いが電車や車という距離ではなく、つまりチャリンコの行動半径である。

 どこで生まれ育っても小中学生の生活圏など精々そんな範囲なんじゃないかとおもうが、中学から高校に進むあたりで様相が違ってくる。

 

 東京(その拡張概念としての首都圏)の地政学的理解にもっとも強い影響を与えるのは電車などの交通機関なんじゃないかとおもっている。もっと端的に言えば最寄り駅に何線が通っているかである。たぶん家選びとかをイメージしてもらえばわかるとおもう。

 実際の地理的物理的な距離より、地元の最寄り駅に何線が通っているかで、20歳くらいまでの行動範囲と所属するコミュニティが決まる、そんなイメージだ。

 

 私の場合で言うと、小学校までは下北沢、中学校では三軒茶屋が生活の中心だったことは前に述べた。これらは徒歩圏の北限と南限を成している。下北沢は小田急井の頭線三軒茶屋田園都市線新玉川線だったり半蔵門線だったりもするが)が通っている。

 どういうことかというと、下北沢からは渋谷井の頭線)と新宿小田急線)、三軒茶屋からは渋谷田園都市線)に出れる、というかそこから先には行かないのである。

 その先にある池袋とか恵比寿とかはもうかなり外部であり、ましてや上野とか品川とかはもう外国だし、蒲田とか言われてもどうやっていくのかも知らない、みたいな感じである。ついでに言えば文京区などの山手線内側は、ほぼなんのイメージもなかった。東京といえば、ふつうど真ん中を指す地域とほとんどなんの関わりもなかったのである。

 

 言い方を変えれば、この地域の出身者は“地元”から一段階拡張した共同体として渋谷か新宿のどちらか、もしくは両方に属することになるのである。私の世代の前後は渋谷が多かったように思う。そしてそれがなにで決まっていたかというと、ようは電車で出やすいところだったんだと思う。

 ただしこの新宿にしても渋谷にしても社会人になって属すような新宿“区”、渋谷“区”のようなパブリックな共同体ではなく、あくまで“地元”の外延である。この外延は交通機関を媒介として繋がっているので、面的な広がりではなくて、点と線である。

 たとえば新宿で屯っているのは新宿区から面的に拡大した近隣地域の住民ではなくて、中央線を経由して流れてくる国立や八王子の連中、渋谷だったら田園都市線で繋がっている川崎北部や、東横線で来る横浜の人間を含んでいる。

 ただ中核的なところでいうと近隣の中野区、杉並区、世田谷区(というか世田谷地域。中野区や杉並区の内部にも多分セクトがあるんだろうが、よく知らない)に住んでいる人間が占めていたと思うが、それも交通機関に依存するところが大きかったんじゃないかと思う。直線的な距離では豊島区や板橋区の連中の方が三鷹とかあの辺よりも近いはずなんだが、山手線に乗っても西武線に乗ってもようは池袋で降りちゃうだけなんだと思う。実際、私も池袋とか板橋とかに住んでたときがあって、そのときは新宿にほとんど出なくなった。

 都下でも近場に繁華街があれば、例えば中央線近辺だと吉祥寺に集まる連中も相当いたはずで、じゃあ新宿渋谷まで出てくる動機は何かというと、その辺は街の持ってる求心力だったり、通ってる高校が都心だったりという要因が個別に多分ある。あと結構中学までだと地元でイマイチ冴えなかったから、しがらみのないとこに出るみたいなのもあったかも。

 

 私は昭和49年の生まれで、ちょうど中学最後の年で昭和が終わり、高校に進学したのが平成2年ということになる。昭和64年は1週間しかなかった。歴史的にはバブルが弾けた年でもあるはずだが、バブルは弾けたあとでないとバブルだったと認識されないので、当時はまだ好景気の中にいる感覚だったんじゃないかと思う。アメリカではブッシュ(パパの方)が大統領になった。

 

 昭和天皇崩御して大喪の礼が明けると、6月に天安門事件があり、ポーランドで自由選挙が行われて、その後あっという間にハンガリーブルガリアチェコスロバキアで一連の東欧革命が起きて、11月にはベルリンの壁が崩壊した。12月にはブッシュとゴルバチョフ冷戦終結宣言を出して、ルーマニアでも革命が起き、あっという間にチャウシェスクが処刑されて、頭を撃ち抜かれて転がってる映像が配信されたのは衝撃的だった。

 当時中学生の自分が一連の世相をなんのことだかわかっていたわけではないが、それまで濃厚な冷戦の空気に育ってきたわけで、ともかく世界が一変したことはなんとなく感じた。

 

 だから高校生になるのと平成が始まるのは体感としてはほぼ同時で、なんとなくは時代の変わり目という感覚もあった。平成最初の10年というのは20世紀最後のディケイドでもあり、どちらかというと末法的というか世紀末的な不透明感の方が強かった。その頃の東京近辺のティーンエイジャーにとって存在感が大きかったのは新宿よりも渋谷の方だったと思う。

 コギャルとかエンコーとかいう言葉ができたのはこの頃で、まだ携帯はなくて専らポケベルと公衆電話で連絡を取り合い、ダイヤルQ2テレクラが流行った時代だった。宮台真司が大活躍した時代ですね。

 まだ携帯はなかったが、ポケベルは10代の行動半径を劇的に拡張した。というか、それまでは家にいないと連絡をとる手段がなかったし、あとは近所の溜まり場にいて、なんとなく集まってくる人間といるしかなかった。私が中学のときの溜まり場は稲荷神社だった。それが外で動きながら連絡を取り合う、いまとなっては当たり前の日常だが、そういうことが可能になった。10代のガキにそんなものを持たせたら帰らなくなるに決まっているのである。

 

 そういうスタイルがハマっていたのが渋谷で、当時流行したアメカジB系みたいなストリート系サブカルチャーとニコイチの関係だったと思う。

 ストリート系サブカルチャーの前史としては渋谷に隣接する原宿が80年代に竹下通り全盛期を経てプライベート系アパレルブランドの集積地になっていたことが影響していると思う。

 竹下通りはお上りさんを集める観光地に近くなってしまったが、いわゆる裏原は00年代以降にファッショントレンドの発信地として繁華街のセンター街や109近辺を補完する位置として再構成されたように思う。

 

 その頃のストリートという言葉が表象していたのは、路上に屯っているみたいなアウトロー的なニュアンスもあるのだが、それ以上に出身中学や地元のような地縁的属性が解体されて「みんなストリートに属している(つまり地縁に属していない)」ということでもあった。ただしストリートに属するには電車に乗って移動するだけでは難しくて、やはり地元の先輩後輩とかそこから拡張される人間関係を媒介していたので、完全に自由だったわけではない。ただそこの人間関係を拡張していくみたいなところに関してはポケベルはいまでいうSNSのような絶大な影響を与えた。

 ポケベルとテレクラが、10代の少年少女(他には専業主婦というのもあった)のような狭い世間で生きてきた人間に、突然見ず知らずの人間とバンバン繋がる環境を無秩序に提供した。

 

 そういうスタイルに対する親和性が最も高かったのが渋谷だったんだと思う。新宿のストリートだと歌舞伎町になっちゃって、やはり10 代の若者を引き寄せるにはキラキラ感が足りなかったし、端的に言ってヤクザとの距離が近過ぎた。その点、原宿や青山といったファッショントレンドの発信地と隣接した渋谷の方が魅力的だったし、10代は渋谷、20代は青山、その先は麻布、六本木とストリートを辿っていくステージがあり、新宿にはそれがなかったと思う。新宿はどっちかというと『凶気の桜』のイメージが近い。それはいまでもあんまり変わらないと思う。

 だからストリートがさまざまな地元を内包していたとはいえ、その内部には厳然たるヒエラルキーがあって、その頂点は都内の私立附属高校に通う男女だった。慶應、青学、明学なんかの附属校に通っている高校生は、やはり八王子から来る奴よりずっとオシャレで金もあったし、先輩後輩の人間関係も豊かで、受験もなく大学生になることもみえていたので余裕があった。

 で、この辺の連中がどこに住んでいるかというと、それは世田谷、杉並、中野区なのである。彼らは当時流行していたストリート系ファッション誌の読者モデルなんかをやっていて、この読モがストリートの頂点だったし、90年代に流行したチームもその中核メンバーは彼らだった。

 私立高校に進学すると都外も含めていろんな地域から生徒が集まるので、結構人間関係が広がる。そういうのを辿って渋谷や新宿に出るのである。

 私は都立高校に行きたかったんだが内申点が足りなくて第一志望から外した。当時は住んでる学区で受験できる学校が限られていて、私の住む世田谷は第2学区に属して、たとえば戸山、青山、新宿、駒場なんかの都立高があった。当時は都立か私立かでも結構違ったと思う。生徒の多くが近隣の学区内から集まっているので、私立高よりは地縁的結合が強かったと思う。

 

 この辺の、パブリックなものでもなく、“地元”という地縁的原理を再構成して存在する東京のローカルな亜共同性のようなものは、たとえばいまでいうと『ヒプノシスマイク』の“ディヴィジョン”だったりとか、園子温の『東京TRIBE』の“トライブ”だったりとか、大分誇張されているとはいえ、雰囲気はわりとよく描写できているように思う。

 

 ディヴィジョンが地域的な面の共同性に、トライブが先輩後輩のような人的関係に注目した命名だったとして、でも案外内実は住んでいるところからの交通網のアクセスだったり、通っている高校への通学路だったり、そういうものが結合の横糸になっていたりする。

 ついでにいえばカラーギャングというのは池袋の連中のことで、暴走族やチームや愚連隊のようなものと違って、固有名詞というか池袋ローカルな存在だったと思う。当時カラギャンは池袋にいるとしか認識していなかったから疎遠な存在だったし、だからIWGP(『池袋ウエストゲートパーク』も完全に池袋の物語として観ていた。ただしカラギャンを構成していたのは豊島区住民だけではなくて、埼京線沿線の埼玉県民とか西武線沿線の板橋区民とか、そういうのも含んでいたんじゃないかとは思う。

 

 だから亜共同体のアイコンとしての地名と、それが包含する人間の居住地は面としては重ならない。そこが“地元”との違いであり、亜共同体の中核になる無数の繁華街を抱え、複雑な交通網を発達させた東京独特の構造なんじゃないかと思う。

 

 で、ここまで知ったふうに書いているが、私自身はこの渋谷を中心としたストリート系サブカルチャーには全然属していなかった。全部あとから宮台真司などから教わったことである。それも大分後になってからのことで、この当時は中沢新一とかコリン・ウィルソンなんかにかぶれていた。

 

 地理的には凄く近かったにも関わらず、私が渋谷のカルチャーから外れた理由はいくつかあるが、ひとつは中学3年のときにSEX PISTOLS を聴いて、いわば転向したからである。その頃の私にとってのアウトローのアイコンはB系ではなくてロンドンパンク、というかジョン・ライドンマルコム・マクラレ一択だったのである。

 パンクスはもともと暴走族ともB系とも相性が悪いが、それでも西海岸系だったらよかったんだがロンドンパンクはすでに完全に流行から外れていた。そこからニューウェーブとかにいっちゃったんで、これは完全に渋谷から外れて新宿や高田馬場の古レコード屋のワゴンを漁るコースだし、実際そうなった。もはやそれはアウトローではなくて、いまでいえばアキバのオタクに近いコースだった。

 

 思い返せば私が完全な世田谷地域出身ではなくてアイデンティティの6割くらいが下北沢にあったことが影響していたと思う。いまでこそ大分オシャレな街らしいが、私のいた頃の下北沢は本多劇場や屋根裏(ライブハウス )なんかがあるサブカルチャーの街で古レコード屋が一杯あって、ロックやブルースやジャズ、フォークなんかが似合う街で、その意味でも新宿のカルチャーに連なっていた。いまでいうと中野に近いだろう。

 一方、三軒茶屋は渋谷の影響をもろに受けるんで、たとえば三軒茶屋愚連隊の出身者がそのまま妄想族というヒップホップグループになっていったりした。当時の私はヒップホップをまったく通過しなかった。

 

 受験が終わって暇になってからギターを買い、そこからは1日12時間くらい弾く日もあった。楽器は金がかかるので単車にも乗らなかった。

 私も一応私立の付属高校に進学したんで、もうちょっとキラキラしていてもよかったはずなんだが、その高校は練馬の石神井というところにある男子校で、1学年600人で周りにはなにもなく、男ばかり1800人も校舎に詰め込まれてネリカン(練馬鑑別所)と自称していた。

 西武新宿線だったので、必然的に出る先は新宿か高田馬場になる。というか、登校時に学校に行くのが面倒になって途中で降りて新宿か高田馬場で過ごすこともしばしばあった。

 

 世田谷区から練馬の私立高に進学したことで地元とは疎遠になった。高校で知り合った似たようなオタクたちとバンドを組んで、ライブをするのは専ら高円寺や西荻などの中央線沿線で、住んでいるのは世田谷、高校は練馬だったが、所属はやはり新宿だったんだと思う。少なくとも渋谷ではまったくなかった。

 

 そして高校2年、17歳のときに川崎市に引っ越して、これで完全に世田谷とは疎遠になった。当時わりと父の仕事がうまくいっていた時期で、代田の住居をもうそろそろ出てくれと言われたタイミングで、じゃあマンション買うかみたいな感じで、多摩川を超えて川崎市宮前区に移った。

 この宮前区も世田谷に似たような風景で、同じく坂が多く、やはりもともと農家だった一軒家とマンションが混在していた。いわゆるベッドタウンである。ただ世田谷地域よりはずっと郊外に位置するので、はるかに整然としているというか、住宅以外なにもなかった。

 渋谷と田園都市線二子玉川などを経由して繋がっていて、湾岸のいわゆる工業地帯の川崎とは全然違った。川崎は北部と南部でまるで違う風土をもつ街で、私が住んだのは小沢健二を生んだ川崎ノーザンソウルの川崎で、一般に川崎だと思われているのは川崎サウスサイドである。

 サウスサイドは川崎国と自称するようにほぼ孤立していて、田園都市線溝の口の一点で南武線を介して交わるだけである。区で言うと川崎区幸区である。幸区の人間は異論があるかもしれないが。

 溝の口は川崎国との関所というか国境だった。少なくともこちら側には国境を超える動機はまったくなく、渋谷は地続きでも同じ川崎市のはずの南部は完全に修羅の国だと思っていたし、そのイメージは多摩川の対岸に住んでいたときからすでにあった。幸いなことに修羅たちは川崎国から出てくることはまずないので、こちらから越境しない限り無縁でいられた。

 

 私が移り住んだ川崎北部の風土は、だから東京のベッドタウンという点と、渋谷に田園都市線で繋がっている点と、2つの地政学的要素から、多摩川を挟んだ対岸の世田谷区によく似ていた。