勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

【東京地政学①】世田谷地域クロニクル

 40年余りのあいだ東京で暮らしてきて、30代まではあんまり自分が東京育ちであることを意識したことってなかった。それはきっと自分を取り巻く人間関係だったり、居住地だったり、仕事だったりが偶々そういう配置だったんだろうとおもう。

 端的にいえば、多くの人間に関わる必要も立ち入る必要もない生き方を選んできたんだとおもう。いまでもそうありたいとおもっているが。

 

 とはいえ、ここ数年は相応な歳になって自分にしては人数の多い職場で、それなりに多くの人間と関わらざるを得ない立場で生きて、はじめて自覚することもでてきた。

 東京で、地元つまり自分が育ったローカルなコミュニティ以外で生きるということは、それが物理的な距離がほとんどないとしても、東京以外の出身者とともに暮らすことでもある。

 

 そうやって東京以外の出身の人間と関わって、はじめて外側からみた東京というのは自分の意識よりもとんでもなく広い概念で捉えられてるのだなときづいた。

 裏を返せば、自分が東京というものを意識しないのは、自分の捉えている東京というのがもっとはるかに小さい対象だということでもあることに気づいた。

 

 東京には特別区が23あり、それ以外に国立市とか西東京市とか島嶼部など都下といわれる地域があるわけだが、自分の感覚としては地元として意識するのはこれよりもずっと小さい範囲である。

 端的に言えば、東京人という一括された概念は、強いて言えば東京以外出身で東京で暮らす人間のことで、たとえば世田谷区出身の私からすれば大田区や品川区出身者は「大田区あたりの連中」だし、北区・板橋区・足立区の人間は「北の連中」であり、江戸川区江東区は「東の連中」であり、それは「川崎の連中」とか「松戸の連中」などと距離感として変わらない。

 

 私は17歳まで世田谷区で育った。厳密に言えば、母親が私を産むときに当時大船(鎌倉市)にあった実家に1年ほどいたらしいから、鎌倉生まれの世田谷育ちということになる。

 こういうと大概「いい育ちなんですね」と言われることが多いんだが、ながいあいだ全然ぴんとこなかった。

 

 住んでいた当時は意識したことがなかったが、あとづけで知ったこととして世田谷区は5つの地域に分割されるらしく、これは概ね肌感と一致する。

 

 世田谷地域

 北沢地域

 玉川地域

 砧地域

 烏山地域

 

 で、気づいたのはみんながイメージしている世田谷というのは概ね北沢地域から烏山地域までの世田谷地域以外をイメージしているらしいということ。“みんながイメージしている世田谷”というのは概ね「都心に比較的アクセスのよい郊外の閑静な住宅地」という感じではないだろうか。

 

 世田谷地域というのがどのあたりを指すかというと、池尻・上馬・経堂・下馬・桜丘・太子堂三軒茶屋・弦巻・若林といった地名を含んだエリアで、区役所があり、たぶん代表的な街は三軒茶屋ということになるのだろう。自分の感覚でいうと、これらの地名はそのまま近隣の区立中学校として認識していた。

 この地域は”みんながイメージしている世田谷”とはだいぶ風景が異なっている。狭く入り組んだ道が多く、また古くて小さいアパートと一軒家が混在していて、住所表示もわかりづらい。閑静な住宅地というイメージには程遠い。どちらかというと小金持ちと貧乏人が交互に暮らしている感じだ。

 高校のころに年賀状配達のバイトをしたことがあるが、丘陵地帯の世田谷の原風景として坂も多いので、めちゃくちゃしんどかった。この辺の感じは三軒茶屋駅前から少し歩いてみればわかるとおもう。

 

 一方、私がどこに住んでいたかというと代田というところで、これは北沢地域に含まれる。ほかに梅丘・大原・北沢・豪徳寺桜上水・代沢・松原なども含まれる。代表的な街は下北沢だろう。この地域で生活実感として私が地元としてイメージできるのは梅丘・北沢・代沢くらいまでだ。

 この北沢地域は下北沢駅周辺を除くと、”みんながイメージする世田谷”にかなり近いのだとおもう。ただし代田は北沢地域の南端に位置していて地理的には世田谷地域に近い境界的な地区でもある。

 

 私の実家の前を梅丘通りが東西に通っていて、それを北に超えたところが北沢で、通りに沿って北沢川緑道という河川を埋め立てた遊歩道があり、その近辺に中島みゆきの家とか、その向かい辺りになべおさみの家とか芸能人の家が建っていた。なべやかんが明治に裏口入学したときには結構メディアが集まっていたと思う。

 代田にはたしか所ジョージのガレージを拡大したような家もあって、たまにタモリ倶楽部なんかに出てきた。それ以外にもこの地域の家は大きな一軒家が多かった。

 変わったところでは、近所には天理教の大きな施設があり、そばに信者の住む共同住宅もあった。

 梅丘通り沿いには信濃屋というスーパーがあり、ときどき子どもを連れた鮎川誠・シーナ夫妻をみかけた。テレビとかで観るあのまんまの姿で、シーナさんなんかは真っ白いファーのコートでベビーカーを押してたりして、子ども心にあまりのかっこよさに度肝を抜かれた。

 下北沢には原田芳雄の家があって、庭のある古い平屋建てで、元旦には近所の人間も入れる餅つきが庭であって、安岡力也や丹古母鬼馬二なんかもいた。原田芳雄は縁側に胡座をかいて餅を喰っていた。

 

 

 

 思い返せば、私の住んでいた近辺も一軒家が多かった。私は6階建ての小さなマンションだかアパートだかの5階に住んでいて、間取りは2DK、1フロアに3世帯入っていたと思う。エレベーターもなく毎日5階まで上り下りしていた。大して高い建物でもなかったが、屋上から周囲を見渡すと周辺では一番高い建物だった。

 私の家族が住んでいた部屋のオーナーは父方の祖母の弟、つまり私の大叔父にあたるひとで、1〜2回しか会ったことはないが、たしか不動産関係の仕事をしていて吉祥寺で結構大きな家に住んでいた記憶がある。立地にしては低い家賃で住まわせてもらっていたんだとおもう。

 

 世田谷地域と北沢地域を隔てるのが淡島通りで、これを南に超えると若林や太子堂となる。私が住んでいたあたりは梅丘通りと淡島通りに挟まれた地区で、いま思い返せば小学校までは下北沢が生活の中心で、若林中学校に進学してからは三軒茶屋が中心になっていった。子供時代の印象でしかないが、小学校のときの方がいいとこの子が多かったように思う。

 

 私の両親は共働きだったので、小学校低学年くらいまでは学校が終わると杉並区の永福町に住んでいた祖父母の家に行って、母の仕事が終わる夜まで過ごすことが多かった。下北沢には井の頭線が通っているので、学校が終わったらそれに乗って通うのである。

 私の祖父母はいま思えば貧乏だったので家といっても1Kの木造アパート、2階の突き当たりの部屋で窓から外をのぞくと大家の家の広い庭がのぞけた。この辺のバランスが世田谷、特に世田谷地域とよく似ていた。

 

 小学校に入る前は保育園に預けられていて、そこはいま思えば片親とか共働きとか貧乏人の子が多かったなと思う。

 40年前というのは、父親はかっちりしたサラリーマンで終身雇用で母親は専業主婦でというのがまだ理想とされた時代で、共働きとか片親とかが今よりもまぁまぁ目立つ存在だった。

 40年経ったいまでも憶えてるのも凄いなと思うが、リカチャンという子がいて、母親同士が仲がよくて結構家に遊びに行ってたんだが、いつ行ってもお父さんが家にいて、アフロヘアというか具志堅用高みたいな頭で、わりと穏やかというかボーッとしていて呂律も回っていなかった。リカチャンのお母さんは「ウチのお父さんは傘差してたら雷に当たっちゃって少しおかしいのよ」と笑って説明していたが、振り返ればあれはラリってたんじゃないかと思う。お母さんはたしか美容師か何かで何度か家で髪を切ってもらった気がする。

 タケシクンという子とも仲良くてよく遊びに行ったが、そこはわりと大きい一軒家に住んでたんだけど両親ともに教師で日教組で、親は赤旗をとれとか勧められてた気がする。当時は日教組赤旗とか言われてもなんだかわからなかった。思い返せば共働きとか片親みたい家庭は母親同士がわりと仲が良かったなと思う。赤旗はとらなかったが。

 考えてみれば、まだ男女雇用均等法もできる前で、当時の我々の母親はみんなまだ30歳くらいの若さで社会的にはまぁまぁアゲインストというかマイノリティだったわけだから、共働きとかシンママなんかは、いろいろ共感するところがあったんだろうと思う。

 そういえば小学校にはカズヤクンという知的障害の子もいて、ここも片親で私もまぁまぁ遊んでたりしていたが、お母さんが頑張って小学校はなんとか普通学級に通わせていたが、中学に上がるとやっぱりしんどくなって養護学級に編入された。なんとなくだが小学校のときは自分は比較的マイノリティの側に属してるんだなという感覚はあったように思うし、だから中学に上がると極自然な成り行きとしてグレてる側に回った。

 

 世田谷区は大正時代までは多摩丘陵に連なる農村地域で、関東大震災のときに焼け出されたひとが住み着いてきたころから風景が変わってきたらしい。

 だからまあはっきりいえば、もともと農地をもっていた地主の一軒家と、余所者が暮らす借家という組み合わせが世田谷地域の風景で、これはいわゆる首都圏のベッドタウンの原風景だと思う。

 私の父は広島県の出身で上京して東京に住み着いたから、私の家は後者のクラスタに属する。だから「いい育ちなんですね」と言われてもぴんと来ないのは当たり前である。いいとこのダセエ連中と一緒にすんなよという感覚も多少ある。

 

 関東大震災から戦後くらいまでのあいだに住民が増加した世田谷地域は、都心から震災や戦争で焼け出されたひとの移動が中心だったので、計画的な宅地開発などの結果ではなくバラバラに住宅が建っていっただけだから、この辺りはひどく入り組んだ街並みになったということらしい。世田谷地域は農地の多い世田谷区のなかでは代官屋敷や武家町のあったあたりで、三軒茶屋は街道筋の商業地でもあったので、ここが都心からの最初の人口流入地になったんだと思う。

 砧・玉川など(都心からみて)さらに外縁の地域はどちらかというともともと景勝地や行楽地だったらしく、戦後の高度成長期に東京に収容しきれない人口のために計画的に宅地造成が進められたために世田谷地域と風景が違っているのだろう。

 

 恐らく多摩地域に公営団地が造成されたのと近いタイミングで、多摩は大規模団地で零細な労働者家庭を収容して、隣接する玉川や砧は都心から移住する富裕層と元から住む地主の地域になったんじゃないかとおもう。

 もともと都心にあった大学や学校なども空襲などを避けてこの地域に戦中戦後に疎開したらしい。だからこの辺りは閑静な住宅地というイメージに合致する。

 

 戦後はさらに膨らんだ人口を収容するために神奈川・千葉・埼玉の宅地造成が進められて首都圏が形成されたわけで、世田谷区は東京というよりも、首都圏を構成する最初期のベッドタウンだったというのが正しい地政学的理解なんじゃないかとおもう。そのなかで、まぁ物凄く狭小な範囲の話だが、世田谷地域は計画的な宅地造成以前に行われた、わりと無計画な人口収容によって形成されたという点で、他の世田谷区とやや風土が異なっているんじゃないかと思う。

 

 話を戻すと、私が”地元”という感覚をもてるのは、だから世田谷”区”ですらなく、三軒茶屋と下北沢に挟まれたきわめて狭小な地区だけなのである。ましてや東京が地元かといわれると、まるで実感がない。

 東京だと大概そうだと思うが、中学くらいまでは「大田区の連中」とか「東部の連中」のような視野はなく、専ら出身中学がどこかが基礎属性になる。荒川区とか八王子とかが視野に入るのは、暴走族に入るかチーマーになるか、高校に入って他の区の連中との付き合いができてからである。私の場合で言えば出身中学は若林(ワカチュー)で、ちょっと前の世代の80年頃の校内暴力全盛期に名を馳せた学校で、自分が入学した当時は世田谷No.2を自称していた。なんの順番かというと喧嘩である。No.1は下馬の駒留中学校(ドメチュー)だった。私が3年になった代はそこまで強くはなかった。8割くらいはワカショー(若林小学校)出身で、私はその意味では少数派に属していた。

 こういう具合に中学に入ると「タイチュー(太子堂中学)の誰それ」とか「コマチュー(駒場中学)の何某」といった属性を纏うようになる。

 ワカチューはいまは少子化の影響で近隣のヤマチュー(山崎中学)と統合されて世田谷中学校(いまセタチューというのかは知らない)になったらしいが、ヤマチューは世田谷区世田谷に位置して区役所の近くにあって、世田谷地域では当時わりと成績優秀な部類に属していた。言い方を変えると気合が入っていない中学であり、ワカチューとごく近かったのでなんとなく面白半分に20人くらいで締めに行って後で学校同士で通報されて大分叱られたことがある。ワカチューはそんなところだったので、公立にも関わらず越境を希望するような家もあって、そういうのは多分ヤマチューに通ったんだと思う。だからいまワカチューがヤマチューに統合(校舎はヤマチューらしいんで感覚的には吸収)されたとういうのは忸怩たるものがある。

 と、ここまで書いてきて、たとえば世田谷No.2などと言っているが、実はここに出てくる中学はほぼ全部世田谷地域なのである。それも特に太子堂と若林に集中している。世田谷区全体から見ても相当狭い。ましてや東京という単位でみれば猫の額である。地理的にはごく近い北沢地域に属するキタチュー(北沢中学)、ウメチュー(梅丘中学)、フジチュー(富士中学)などは当時から全く眼中になかった。

 たとえば三茶で「お前どこよ?」「シンセー(新星中学、池尻中学と統合されて現在は三宿中学になったらしい。知らなかった)だよ」となれば、そこから先は結構緊張感が生まれるが、「梅丘です」とかだと「なんでウメチューが三茶来てんだよワカチュー舐めてんのか」みたいな理不尽な流れになる。だから当時は意識していなかったが、中学同士の”戦争“などと言っても、それは世田谷"区“ではなくて世田谷”地域“での”戦争“だったのである。言い換えれば、我々は世田谷地域を世田谷区だと認識していたということでもある。そしてそれは外からみた世田谷というイメージとは全然一致しない。こっちからしてみれば外からみたイメージの方を後から知ったのだが。

 

 世田谷地域と北沢地域の関わりで言えば、下北沢エンペラーの存在感が凄く大きかった。関東以外の人間にはエンペラーと言われてもホテルかと思うかもしれないが、全盛期には構成員2000人、愛知県あたりまで支部のあった日本最大の暴走族ブラック・エンペラーのことである。もともとは国立市あたりが発祥らしいが、その後に新宿に総本部が置かれ、さらに下北沢に本部が移った。大きくなり過ぎてからは各支部が独立して行動するようになって、下北沢本部は下北沢エンペラーとなった。まぁしっかりした記録があるわけじゃなく、30年前の先輩なんかからの口伝だが大きくはズレてないと思う。余談だが元々の地元の国立市周辺は三多摩本部として独立して、俳優の宇梶剛はそっちの方の総長だったらしい。

 で、この下北沢エンペラーは地理的には北沢地域に位置しているが、人的には世田谷地域との関わりが深いのである。

 私はちょうど暴走族とチーマーの狭間の世代で、ワカチューの2個上のモリクンが多分最後の下北沢エンペラーの頭、2個下にはいまでも半グレとして名前が出るようなチーマーになる後輩がいた。ワカチューはそれ以外にも何人か下北沢エンペラーの総長を輩出している。2個上の先輩が恐ろしかったのは当然だが、2個下の連中も「なんかこいつらおっかねえな」とおもってみていた。少なくとも中学の間はこいつらの先輩でツイてたなと。

 私の頃はもう暴走族は下火で、下北沢エンペラーも実態としてはチーマーや愚連隊に近い存在になっていった。

 それでこの話のなにが重要かというと、一つは世田谷地域の特殊性というか、北沢地域に位置していたにもかかわらず、その中核を成していたのがワカチューやシンセーチュー出身者だったこと。これはエンペラーだけでなく、のちのチームでも世田谷出身のチーマーの母体は世田谷地域が多い。他には烏山地域くらいである。

 またもう一つは、下北沢エンペラーやチームなどが契機になって、出身中学のような極小のセクトから新宿や渋谷のようなより広域で上位の単位に再編成されること、ただしそのアトムになっているのはあくまで出身中学のような極小のセクトとそこでの先輩後輩という縦糸であること。この辺については次稿で改めて考えようと思う。