勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく⑦

仮説③寿桂尼は承芳と太原雪斎の政敵だった

 筆者は氏輝治世下の今川氏の政局は、以下の勢力に分かれていたと考えている。

 

親北条派】氏輝–寿桂尼

【反武田派】恵探–福島氏

【親武田派】承芳–太原雪斎

 

 氏輝–寿桂尼の連立政権が保守的で前代の政策を踏襲して親北条派だったことは先述した。

 

 それに対して福島氏は、先年の甲斐乱入事件の際に多くの戦死者を出して面目を失った私怨に近い感情が武田氏に対してあったと推測され、これを親北条派と区別して反武田派としたい。

 氏輝治世の情勢では親北条と反武田はほぼ同義だったから、両派は概ね一体のものとして認識されていたはずである(タカ派ハト派という体温の違いはあったと思われる)。

 

 恐らくまだ表面化はしていなかったが、筆者は承芳と雪斎は親武田派だったと考えている。

 遠江の次は三河、そしてその次は尾張。今川氏の成長戦略を考えれば、如何に盟友とはいえ北条氏の関東の揉め事に付き合って武田氏との抗争で消耗するのは全く得策ではない。武田氏との紛争を速やかに解決して今川氏は西進すべきである。

 ただしそれは反北条という意味ではなく親武田かつ親北ということだったと推測する。考えてみれば、武田と同盟しても北条と敵対すれば、やはり西進は覚束ないのは自明である。

 承芳と雪斎が親武田派(かつ親北条派)だったとする論拠としたいのは、後年の甲駿相三国同盟、有名な善徳寺の会盟である。

 

 河東一乱が終息してから8年後の天文21年(1552年)、前年に定恵院(義元公正室、信玄の姉)が死去したのを機に信玄の嫡子義信に義元公の娘嶺松院が輿入れし、甲駿同盟が更新された。その翌年に信玄の娘黄梅院が氏康嫡子氏政に、さらにその翌年に義元公の嫡子氏真に氏康の娘早川殿が輿入れしたことで三国間の婚姻同盟が成立した。

 三家の当主が善徳寺に集まって誓紙を交わしたという伝承はさすがに創作だろうが、善徳寺はまだ九英承菊と名乗っていた若き頃の雪斎が学び、幼い義元公が栴岳承芳として入門した曰くのある寺院であり、この三国同盟を周旋するために奔走したのが雪斎だった。

 

 そして、恐らく承芳と雪斎が氏輝と彦五郎を謀殺してまで政権を奪った意図は、最初からこの三国同盟の締結にあったと考えるのである。

 

 実際この同盟以後、武田氏は信濃方面、北条氏は関東、そして今川氏は三河から尾張と、それぞれが背中を預けあって進出していくのである。まさに三者に利のある理想的な同盟関係なのだが、前代からの外交方針に固執する保守的な寿桂尼執政下の氏輝政権では実現できなかった。

 また抵抗勢力寿桂尼の保守政権だけではなく、反武田感情の強い福島氏が健在では武田氏との共闘は覚束なかっただろう。つまり、氏輝と彦五郎の謀殺から花倉の乱での玄広恵探と福島氏の粛正まで、すべて甲駿相三国同盟を実現するために承芳と雪斎が構想した一連の政治運動だったというのが筆者の考えである。

 

 また近年の説ではまた別の視点もある。それは寿桂尼と雪斎が政治的に対立していたというものである。

 既述だが寿桂尼の実家は公家の中御門家である。この時代の公家は地方にもっていた所領を在地の武家に押領されて生活が窮迫しており、各地の有力者のもとへ下向して所領の回復を依頼したり、歌道や蹴鞠などの技芸を伝授することで寄寓したりして生計を立てざるを得なかった。寿桂尼が今川家に嫁いだのも、そういう世相の流れだったろう。

 もともと武家としては文化的素養の高かった今川氏のもとには寿桂尼の縁を頼って多くの公家や技芸者が参集し、後世に今川文化と呼ばれる地方文化を形成していった。

 寿桂尼自身、公家の娘として教養もあり、また聡明で気丈な女性でもあったのだろうが、一面では彼女の出自による京都政界とのコネクションがその政治基盤となっていたことも疑いない。

 

  一方の太原崇孚雪斎の実家は庵原氏である。庵原は駿河西部の古い地名であり、古代から当地に根を下ろした古豪の一族だった。母方の実家は水軍衆の興津氏、ともに今川譜代の家柄である。

 方菊丸(義元公の幼名)の教育係として善徳寺に出家して九英承菊と名乗り、のちに京都五山建仁寺でともに修行し、そこで方菊丸は得度して栴岳承芳と名乗った。さらには臨済宗妙心寺派総本山妙心寺でも学び、晩年には第35代妙心寺住寺を務めるなど、禅僧としても当代一流の経歴をもった。

 承芳と雪斎が駿河に帰国したのは天文4年(1535年)で、2人の京都滞在は断続的に10年に及んだ。その間寿桂尼の実家である中御門家や姉の嫁ぎ先の山科家、また承芳の伯母の嫁ぎ先の正親町三条家、その姻戚の三条西家、著名な僧侶などと交流を深め、寿桂尼とは独立した人脈を京都政界で築いたいったようである。

 寿桂尼を頼って多くの公家が駿府を訪れていたとはいえ、彼女自身が駿河に嫁いで既に30年が過ぎ、実家の中御門家も家格は名家で大臣家の正親町三条家や三条西家などと比べると政界での影響力は小さかった。

 雪斎は京都に滞在しながら今川氏の姻戚関係も利用しつつ人脈を広げ、また臨済宗妙心寺派の僧として仏教界での交流もあった。

 京都政界とのコネクションを今川家中での政治基盤としていた寿桂尼にとっては、雪斎は脅威と感じられたことだろう。

 氏輝の死の直後に幕府から義元公の家督継承の御教書を引き出したことからも、雪斎の京都政界への影響力がすでに大きなものになっていたことが窺える。

 

 そして花倉の乱である。

 

 恐らく寿桂尼は氏輝と彦五郎を謀殺したのが雪斎と承芳であることに気づいていたのではないか。その上で実子の承芳より、恵探の支持を選んだ。

 

 考えてみれば、承芳が寿桂尼の実子なら氏輝と彦五郎も同じく腹を痛めて産んだ寿桂尼の子なわけである。

 如何に息子とはいえ、我が子を2人も殺した相手を母親の情として簡単に赦すことはできないだろう。しかもその目的が自身の政権へのクーデターでブレーンが政敵の雪斎だとしたら、はいそうですかと政権を譲るわけがないのである。

 

 こうして寿桂尼は恵探に与党するのだが、もしかしたら自分がそうすることで恵探が勝利した場合に承芳の助命を要請するという、母親の一縷の情があったのかどうか、内心は計り知れない。

 

 それにしても同母兄を2人殺し、また生母を敵に回して異母兄も自裁させて家督を継いだわけだから、義元公も尋常な神経の持ち主ではないと思えてくるが、のちの義元公をみる限り、そこに然程の違和感は感じないのだ。

 織田方から離反して従属してきた山口教継を無実の罪で粛清したような、義元公はけっこう冷酷なことをこの後も平然と続けるのである。このあたりが単に雪斎の傀儡ではない、義元公の凄みと言えよう。

 

 ともあれ、氏輝と彦五郎の変死は承芳と雪斎を中心とする反武田派の寿桂尼政権へのクーデターだった、そしてその政治目的は武田・北条との三国同盟による西進だったというのが筆者の仮説である。

 

 そこで最後の疑問が、にも関わらず何故北条氏の侵攻とその後の河東一乱が起きたのか、であるが、それは次の稿で考えてみたい。

 

(続)

 

駿風の人 (潮文庫)

 

銅像設置決定!今川義元公の銅像をみんなと一緒につくりたい! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)