勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく⑤

 いよいよもって鼻息荒く義元公の治績を語りたいところだが、氏親没後に家督を継いだのは同母兄の嫡男氏輝である。

 義元公は氏親の五男として生まれ、父の生前、まだ4歳のときにに臨済宗善徳寺で九英承菊(のちの太原崇孚雪斎)の弟子となり栴岳承芳と名乗った。

 

 氏輝と義元公の生母は氏親の正室で公家の中御門家出身の寿桂尼である。寿桂尼は氏親、氏輝、義元公、氏真の4代にわたって国務を補佐して、尼御台と称された。

 黒衣の宰相こと雪斎は当初は承芳の仏門の師として、義元公の還俗後は執権として、その全盛期を支え戦国最高の軍師と言われた。

 

 義元公は武家の父と公家の母とのあいだに生まれ、家督はおろか武士として育つこともなく禅僧として生涯を過ごすはずだったが、長じて戦国大名となった数奇な人生のひとなのである。決してのほほんと名家を世襲しただけの坊やではない。

 禅坊主として生涯を過ごすはずだった承芳が如何にして戦国大名今川義元となったのか、その経緯は映画化して欲しいほどミステリアスで面白いのだが、非常に錯綜もしているので、まずはざっと流れを概観する。

 

 氏輝の変死事件

 義元公の兄、氏輝は14歳で氏親の跡を継いだ。前年に元服は済ませていたが、まだ若年のため母親の寿桂尼が後見として当主を代行した。

 氏親の晩年は会話もままならないほど健康状態が悪かったため、国務を寿桂尼が代行することも多かった。その延長で氏輝の家督相続後も当初は寿桂尼が当主代行として安堵状の発給などを行なっていたようである。

 氏輝が20歳になった天文元年(1532年)頃からは自身で国務をみるようになったが、その後も義元公が家督を相続するまで寿桂尼の国務執行は並行して行われていた。

 のちの義元公と氏真のように、当主が隠居後に跡取りと権限を分担して国務を行うことはしばしばあるが、成人した当主の母親が前当主のように振る舞うのは些か珍しい。このため氏輝が病弱だったという説もあるが、よくわからない。

 ともあれ、氏親の晩年から氏輝の治世にかけての20年ほどのあいだ、今川氏は寿桂尼の強い影響下にあったと言える。

 

 氏輝の治世は、内政面では検地を実施して引き続き遠江の領国化を進め、軍事面では甲斐守護武田氏との紛争などもあったが、総じて先代氏親の政策を踏襲することを第一として、やや消極的なものだったということは指摘できる。

 これも氏輝自身の志向というより、氏親晩年に事実上の執政を務めた寿桂尼の意向の反映と捉えてよいのではないか。夫の死後、些か頼りない跡継ぎの後見として、名君だった先代の路線を踏襲するのは寿桂尼にとっては自然な選択であったろう。

 

 また伊勢宗瑞以来の北条氏との共闘関係も、今川氏が氏輝に、北条氏が氏綱に代替わりしても継続しており、氏輝の同母妹瑞渓院が氏綱の跡取り氏康に輿入れして姻戚となっていた。

 甲斐との紛争も北条氏の政敵関東管領扇谷上杉氏と武田氏が共闘関係にあったためで、この当時の関東情勢は、北条氏–今川氏 同盟 対 扇谷上杉氏–武田氏 同盟という陣営に分かれて紛争が続いていた。

 これも元を糾せば、氏親の家督相続のときに扇谷上杉氏が小鹿範満を支援したことに端を発し、伊勢宗瑞が関東方面へ進出して今川氏の東部戦線を担ったことに対抗して、扇谷上杉氏が武田氏を自らの陣営に引き込んだことに始まっている。北条氏が今川氏から自立した勢力となったのちも、両氏は密接な連携をとっていたのである。

  師の太原雪斎とともに修行のため京都に滞在していた承芳も、この対武田抗争に今川一門として参戦するために駿河に呼び戻されている。

 

 氏輝は了俊以来の今川氏当主の伝統に漏れず和歌に親しむ教養人で、歌人令泉為和の門弟でもあったが、甲斐との紛争の翌天文5年(1536年)に、師の為和とともに歌会のために相模小田原へ赴いた。

 氏康に嫁いだ妹瑞渓院への面会という名目だったが、相模での滞在は1カ月にも及び、北条氏と今後の共闘戦略について当主同士で協議するのが目的だったのだろう。

 

 そして相模から帰国した直後の3月17日、唐突に氏輝が死去する。死因も死んだときの状況も伝わらっておらず、全くの変死と言うほかない。享年24歳。さらに奇妙なのは氏輝と同日同時に今川彦五郎という人物も死亡していることである。

 

十七日今川氏照同彦五郎同時ニ死ス

(『高白斎日記』)

四月十七日氏輝死去廿四歳、同彦五郎同日遠行

(『冷泉為和日記』)

 

 この彦五郎という人物は『今川記』や系図類に名がみえず、駒井高白斎(武田氏被官)や冷泉為和といった他国人の遺した記録に死亡記事が伝わるのみで、氏輝と同時に死んだということしか分からない。

 

 謎の人物というほかないが、彦五郎という通称は五郎に次ぐ今川氏当主の名乗りであり、通説では氏輝の同母弟ではないかとされている。

 氏輝には妻も子もいなかったらしく、24歳で妻子がないというのは、なによりも家を絶やさないことが第一だった当時の感覚としては違和感がある。

 父の氏親も子を成したのは晩年で、氏輝は氏親42歳、義元公は48歳のときの子どもである。当時としては相当に遅いと言わざるを得ない。

 寿桂尼と氏親の結婚が永正5年(1508年)または2年(1505年)といわれ、氏親37歳(または34歳)のときなのでそもそも当時としては相当に晩婚でもある。

 このあたり、今川家のなかにも色々家庭の事情があったのかもしれない。

 

 かように氏輝には継嗣がなかったため、家督継承候補第1位は、この彦五郎だったと推定されている。つまり当主とその後継者が同時に変死しているのである。そしてその後継者の名はのちの今川氏の記録には存在せず、同時代の他国人の記録にしか伝わっていない。

 

 どうみても隠蔽である。陰謀の匂いしかしない。

 

花倉の乱

 彦五郎についてはまたあとで検討するとして、氏輝死後、今川氏ではその継嗣を巡って内紛が起きた。

 一方は言わずもがな、のちの今川義元公こと栴岳承芳、もう片方は承芳より2歳上の異母兄にあたる玄広恵探である。

 恵探は承芳と同じく、幼少で出家して花倉の遍照光寺の住持となり花蔵殿と呼ばれていた。

 恵探の生母は氏親の側室で今川氏の重臣福島氏の出身だった。この福島氏が恵探を擁立して氏輝の後継者に推した。

 対する承芳は師の太原雪斎が推し、岡部、朝比奈、三浦と言った歴々の重臣たちが支持した。ただし奇妙なことに承芳の生母であるはずの寿桂尼は恵探を支持したようである。この点についてもあとでまた検討する。

 このとき承芳は18歳、恵探は20歳だった。

 

 今川家臣団は承芳派と恵探派に分裂して駿河遠江の各地で内戦になったらしい。承芳派の動きは素早く、5月には幕府から家督相続の承認を取り付け、将軍足利義晴から偏諱を賜り還俗して義元と名乗った。

 恵探は5月25日に生母の実家福島氏とともに挙兵して駿府館を襲撃するも敗退、同盟国の北条氏の支援も取り付けた承芳派は6月に花倉城を攻め恵探は自刃、福島氏も滅亡した。

 

河東一乱

 花倉の乱を制して家督を継ぎ、今川氏第11代当主となった義元公だが、翌天文6年(1537年)2月、これまで抗争関係にあった武田信虎(信玄の父)の娘、定恵院と婚姻を結んで駿甲同盟を成立させ、氏輝以前の外交戦略を180度転換した。

 武田氏は花倉の乱の際には承芳を支持しており、氏輝の死の直後、もしかしたらその以前から同盟交渉が水面下で進められていたのかもしれない。

 

 氏親の代から共闘関係にあり姻戚でもあった北条氏はこれを同盟違反と見做し、同月のうちに駿河に侵攻して富士川以東一帯を占領してしまう。

 花倉の乱で恵探派に与した堀越、井伊氏と言った遠江の国人が離反して挟撃される形になった義元公は北条氏に対抗できず、天文14年までの8年間にわたって北条氏による河東地方占領は長期化し、今川氏は親武田氏路線を強めていく。

 

 義元公と定恵院の結婚の4年後、義父の信虎が嫡男晴信に追放されるクーデターが起きた。

 信虎が娘の定恵院と婿の義元公と面会するために駿河を訪れた際、晴信が甲駿国境を封鎖し、父の追放を宣言して家督と甲斐守護職を相続したのだ。

 義元公と晴信のあいだには事前にこのクーデターへの合意があったらしく、信虎は今川氏の庇護下に入り駿河に寓居することとなった。

 こうしてみると義元公の親武田外交の対象は、信虎よりも晴信だったのではないかと思えてくる。この一連の甲駿同盟を武田方で主導したのが駒井高白斎、今川方はもちろん太原雪斎だった。

 

 さらにその4年後の天文14年(1545年)、義元公は北条氏の政敵扇谷上杉氏と連携して河東地方の奪還を試みる。

 北条氏の拡大に危機感を募らせていた山内家と扇谷家の両上杉氏、その影響下にある関東諸将の大軍が武蔵河越に侵攻して、北条氏を窮地に追い込んだ。

 北条氏は氏綱の子氏康の代になっていたが、さすがにこれには単独で対抗できず、武田氏の仲介で今川氏と和睦して河東を返還、その甲斐あって戦国三大奇襲のひとつに数えられる河越城の戦いで上杉連合を壊滅させ、扇谷上杉氏は当主が戦死して滅亡、関東での北条氏の優位は決定的となった。

 

 この和睦によって8年に及んだ河東一乱は終息し、義元公の家督争いに端を発した一連の抗争もここに一応の終結をみるのである。

 

(続)

 

海道の修羅

 

銅像設置決定!今川義元公の銅像をみんなと一緒につくりたい! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)