勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

生誕500年祭なので今川義元公のいいところ挙げてく④

 さて、今川義忠が遠江での抗争で戦死した文明8年(1476年)には、まだ龍王の幼名を名乗っていた氏親は3歳(5歳説もある)で家督を継ぐには幼すぎた。このため、朝比奈氏や三浦氏といった譜代家臣が今川氏庶流の小鹿範満を擁立し、駿河守護の座を龍王丸派と争うこととなった。

 

小鹿範満の乱

 

 範満は堀越公方(この当時の関東公方は伊豆堀越に在所していた)の執事上杉憲政の娘を母としていたため、憲政と関東管領扇谷上杉氏の家宰太田道灌らの関東勢力が範満を支援して駿河に進駐し、今川氏の家督争いに介入した。

 駿河は範満派と龍王丸派に分かれて内乱状態に陥ったが、関東勢力をバックにつけた範満が抗争を優勢に進めた。龍王丸の父義忠が同じ東軍方にも関わらず正規の遠江守護である斯波義良と敵対したことが心象を悪くして家臣団の不評を買ったようである。

 

 しかし堀越公方の影響力が大きくなることを懸念した幕府は龍王丸の叔父伊勢宗瑞を派遣して仲介させ、龍王丸が成人するまで範満が家督を代行する条件で和談をさせた。

 

 この伊勢宗瑞が、のちに戦国大名北条氏の祖となった北条早雲であり、義忠の正室(氏親の母)北川殿の弟にあたる。

 

 伊勢氏は幕府政所執事世襲する幕臣で、宗瑞はその庶流備中伊勢氏から宗家に養子に入って幕府の申次衆を務めていた。

 申次衆とは将軍家と守護を仲介して奏聞を取り次ぐ渉外担当・窓口であり、宗瑞の父も同じく申次衆を務め、今川氏の担当だった。その縁で姉の北川殿が義忠に輿入れしたものらしい。

 

 一旦、関東勢力は幕府の裁定を受け入れて駿河を撤兵し、龍王丸派と範満派の抗争は沈静化して宗瑞は帰洛したが、文明19年(1487年)、龍王丸が成人しても範満が実権を譲らなかったため、伊勢宗瑞は再び駿河に下向して範満を滅ぼし、龍王丸は元服して氏親を名乗って家督を継いだ。

 この功により宗瑞は駿河興国寺城と富士郡12郷を与えられ、当主の外叔父として氏親の後見役となり、守護代を務めるようになった。同時にそれは京都での幕府官僚という立場を捨てて、地方政権である今川氏の一門として生きるという選択でもあった。

 

 宗瑞はのちに伊豆の堀越公方、相模の大森氏や三浦氏などの国人衆を滅ぼして下克上の典型とされ、宗瑞の伊豆侵攻を戦国時代の嚆矢とする歴史認識も存在するが、彼の軍事行動は今川氏の関東政策の一環であり、明確に北条氏が今川氏から独立して対等な立場になるのは、宗瑞の跡を継いだあと伊勢氏から北条氏へと改姓をした氏綱の代からである。宗瑞自身の行動原理はあくまで今川一門という意識の枠内に成立していたように思われる。

 

伊豆討ち入り

 

 明応2年(1493年)、堀越公方家で庶長子茶々丸正室と嫡男を殺害する事件が起きると、幕府は宗瑞に茶々丸討伐を命じた。堀越公方家は氏親の家督相続に介入した政敵でもあり、今川氏の支援を受けて宗瑞は茶々丸を滅ぼして伊豆を占領した。世に言う早雲の伊豆討ち入りである。

 これも後世に宗瑞の下克上の野心を動機とするかのように描かれたが、既述のように、あくまで幕命による堀越公方家への軍事行動であり、今川氏が室町幕府の関東担当として度々繰り返されてきた関東情勢への介入の延長上に捉えるべきだろう。

 のちに北条氏が代表的な戦国大名へと成長したために宗瑞の動機もそこから遡行して理解されることがちだが、もともと東国に地盤をもち、関東情勢とも関わりの深い今川氏との関係を軽視すべきではないだろう。

 この後、宗瑞は関東管領扇谷上杉氏に属する大森氏や三浦氏を滅ぼして相模に進出するが、扇谷上杉氏も堀越公方同様、氏親の家督相続時に介入した政敵であり、関東での宗瑞の軍事行動はそのまま今川氏の東部戦線を形成していた。

 氏綱が北条氏に改姓した動機には、宗瑞時代の今川氏との関係を整理して、独立した政治勢力として関東での抗争を動機づける意図もあったかもしれない。

 ただし伊豆討ち入り後の宗瑞は伊豆国主として周囲に認識されるようになり、一門として今川氏に内包される存在から逸脱しつつあったのも事実だろう。

 

 伊豆韮山城を本拠とする国主となってから10年以上も、宗瑞は氏親の名代として今川軍を指揮し、遠江三河、甲斐などを転戦した。

 永正5年(1508年)に遠江の半ばを制圧した氏親が守護に補任されたあたりから、ようやく宗瑞は関東方面へと転出していく。宗瑞の死没はその10年後である。つまり晩年の10年間を除けば、宗瑞の事跡の多くは今川一門としての行動だったといっていい。

 

遠江抗争の終結

 

 永正13年(1517年)、氏親は遠江尾張守護の斯波義達が進出した引馬城を攻撃して降伏させ、義達を尾張に追放した。これにより今川氏は遠江から斯波氏の勢力を一掃し、完全に制圧した。

 氏親は検地を実施して年貢高の把握と国人の掌握に努め、課税の適正化と軍役の強化を図って遠江の分国化を進めた。この検地自体がかなり先進的な施策だったが、検地を全国で初めて実施したのは宗瑞であり、氏親がそれに倣ったことは疑いない。

 

『今川仮名目録』

 

 晩年の氏親は中風にかかって寝たきりの状態が続いたが、その死没の僅か2ヶ月前に制定された『今川仮名目録』は、東国で初めての戦国分国法であり、その最高傑作とも言われる。

 これも宗瑞が先行して『早雲寺殿21ヶ条』を遺しているが、『21ヶ条』がまだ分国法というより家訓的な内容に留まっていたのに対して、『仮名目録』は訴訟の基準の明確化、裁判方法の確立など、法治主義的に分国を統治しようとする意図が顕著に表れている。

 『塵芥集』や『結城氏新法度』など他の分国法が、家訓的な内容が混在し、構成も一貫性に乏しく、重複も度々あるのに比較すると、氏親の『仮名目録』は年代的に先行するにも関わらず、極めて先進的な内容になっている。

 氏親の制定した『仮名目録』は33ヶ条あるが、のちに義元公によって『追加21条』が加えられた。氏親の死から20年後に武田信玄が制定した『甲州御法度』では、氏親の制定した条文のうち13ヶ条がほぼそのまま引用され、大きな影響を与えたことが知られている。

 

 守護大名戦国大名の違いは、分国の統治に旧来の権威による承認を必要とせず、主に自らの軍事的な実力によって領内の諸勢力の権益を保障したり剥奪したりするところにある。

 旧来の権威に依存しないということは、新たな秩序を安定させるだめに自らが新たにルールを生み出さなければならないということでもある。

 今川氏は累代武家としては優れた文化的素養を蓄積してきており、氏親と『仮名目録』以降、北条氏や武田氏など他の戦国大名と比較しても、今川氏は極めて法治主義的な統治を志向することを特徴として、氏親から義元公へと受け継がれていくのである。

 

 『仮名目録』は、晩年に言葉も不自由なほど健康を崩した氏親が、自分の死後に若年の氏輝が安定して領国を統治することを動機として制定したもののである。

 伊勢宗瑞という優れた師、文武両道の家風、また逸早く幕府依存から脱却して独自の分国統治を志向した歴史的位置などの条件に恵まれたことが、単なる家訓にとどまらない分国法の成立を促し、氏親に守護大名から戦国大名への転換を可能にした。

 

 そして戦国大名今川氏は氏親の子、義元公の治世に最盛期を迎えるのである。

 

(続)

 

銅像設置決定!今川義元公の銅像をみんなと一緒につくりたい! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

 

今川氏親と伊勢宗瑞:戦国大名誕生の条件 (中世から近世へ)