勝つときは汚く 負けるときは美しく

ふと気がつくといつも似たような話をしているので書き留めておきます

滝二の中西くんはいまなにを想ってるだろう

日本 2-1 コロンビア

 

 正直勝つとはあんまり思ってなくて、勝つとしたらかなりアクシデントだろうなと。そもそも日本がどういう仕上がりか全然わからんぶっつけ本番だったし。

 その点、早い時間帯でコロンビアに退場者がでてPKとれたのはアクシデントにもみえるが、コロンビアのセンターバックは終始どっちが競ってどっちがカバーに入るみたいなコミュニケーションが曖昧でドタバタしてたから、これは多分西野さんのスカウティングで把握して狙ってたんだろうなと。

 

 立ち上がりから点取るまではいわゆるゲーゲンプレスもどきで、ボール失ったらすぐ近くの選手がボールホルダーを捉まえにいって、背後の選手が連動して詰めていってコロンビアの前の選手も捉まえる、外されたらリトリートしてハーフウェイラインから捉まえ直す、取れたら大迫に向けて縦に蹴る。

 コロンビアのセンターバックのコンビが悪いから大迫に競らせれば結構簡単に崩せるんじゃないかと、これは当たったなあと。この形は絶対西野さんの狙いで、もう大昔の話だけどマイアミの奇跡のときにブラジルのCBアウダイールとGKジーダのコンビネーションが悪いのを狙って、そこにロングボール蹴らせて城に競らせたら、本当に交錯して後ろにこぼれて点になったと、発想は同じ。

 少し高めの位置でボールとれて縦パスが大迫に入って、完全に裏とれたわけじゃないけどコロンビアのセンターバックカバーリングポジションとれてなくてわちゃわちゃしてるところを引きずるように競り勝ってシュート、こぼれに追いついた香川がもう一回シュートしてハンド→PK。

 

大迫は半端ない。

 

 なので、この先制点は西野さんの狙った通りの形でアクシデントではなかったろうなと。退場とPKはまさかだったけど。

 先制したあとは日本は引いたっていうか、そもそもゲーゲンプレスは奇襲に近い作戦で立ち上がりだけ、体力的にも精々15分が限界だろうし、緻密な練習なんてする時間もなかったろうからゲーゲンプレス自体がもどきで、前の選手が捉まえにいっても後ろの方の選手が詰め切れれてなくて外れてたり結構危なっかしくて、多分コロンビアが慣れたらあっという間に外されたろうけど、早めに得点までいけたんでバレずに済んだ。

 

 日本は4-2-3-1と言ってたけど、守備のときは4-4-2で大迫と香川のツートップの後ろにMFとDFでハーフウェイライン付近で2ライン布いて網を張る。そこに入ってきた選手の対面に立って縦を切ってとにかく裏をとらせない。アイスランドとほぼ同じ形で、ぶっちゃけ弱い国がワールドカップで勝とうとしたらもうこれしかないと思う。

 コロンビアはセンターバックが足元下手な上に中盤にも組み立てできる人材がいないみたいで、自陣からボール持ち出すのはクアドラードかキンテロの力技というか個人技頼み。大迫と香川は守備のときはボール引き出しにきた中盤の選手のマークについてセンターバックは捨てる、蹴らせれば吉田と昌子にファルカオと競らせればそうそう負けない、そうするとサイドしかないからここは乾と原口が頑張ってサイドバックに喰らいついて長友酒井とで守る。コロンビアの17番の左サイドバックが足が速くて強烈だったけど原口がなんとか頑張って気合で戻る。それしかない。

 

 退場者がでたコロンビアは結構交代を引っ張ったけど、多分ペケルマンは日本がどういうチームかよくわからなかったんだと思う。なにせ監督交代から時間がなさすぎて日本人でもどういうチームかわからないわけだから。

 日本は先制したあとは縦パスが消えたんでサイドで2対2、3対3の潰し合いみたいになって、コロンビアは中盤からの持ち出しはクアドラードかキンテロの個人技頼みだから、どっちを外すかで悩んだんだろうけど、結局クアドラードOUT。多分サイド突破しても1人少ないからターゲットはファルカオだけになるんで、それよりもキンテロ残して中盤でなんとか力技で前向いてシンプルに縦一本みたいな狙いにしたんじゃないかと。この交代は結構効いていて、大迫とセンターバックの競り合いが分が悪いんで、近くでこぼれを狙ってる香川を潰しにかかって、実際この後は香川は消えた。このあたりはさすがにペケルマンだなと。

 

 同点にされたのは、長友がクリアミスって後ろに反らしたのをカバーに入った長谷部がファルカオと競ってファウルとられたのをキンテロにFK蹴り込まれたと。

 

 川島どうなってんの。

 

 まあ長友のクリアミスもイケてないんで、しょっぱいプレイ2つ連続したらワールドカップでは失点するなと。川島は開始からずっとナーバスで、アレさわれてんだから掻き出せよ。下抜けてきたの不意突かれ過ぎでしょ。

 

 前半同点で折り返し。後半立ち上がり少しゲーゲンプレスもどきやろうとしてすぐやめて、また縦に蹴るようになると押し込まれる時間が減って大迫もよく動いてボール引き出してるし、1人多い中盤で柴崎も前向けるんで楔がポンポン通るようになった。早めにキンテロに替えてハメス入れてきたけど、ハメスのコンディションが悪すぎてコロンビアの中盤がスカスカになったけど、相変わらず香川がバリオスに消されてるんで本田投入。コロンビアが前に出てこれないせいで裏のスペース消えたけど、押し込んで日本のセットプレーが増えてCKから3人くらいに競り勝って大迫が決めて勝ち越し。

 

大迫は半端ない。

 

 コロンビアはバッカ入れて蹴ってくるかなとおもったらそういうわけでもなく、アスリートっぽい選手が多くて長いキック放り込んでくるタイプがいないんだよね。ハメスはなにもしてないんで実質2人少ないみたいな状況になってたんで、やっぱりキンテロは残すべきだったんじゃないかなあと。

 

 試合は日本が持ち堪えて終了。

 

 原口、乾の両サイドは頑張ってコロンビアのサイドバックに喰らいついて完全に振り切られるシーンはなかったから、横からクロス入れられても中のカバーでなんとか帳尻合わせられた。乾は攻撃でも頑張ったがボールロストが多かった。

 長友のヘディングミスはあったけど両サイドバックは攻守にまずまず。柴崎は特に後半切れ切れで日本のMFにしては珍しくどんどん縦に楔打ち込んでくるスタイルは好感度高い。長谷部がうまく引き出していた。

 センターバックのコンビはコロンビアと対照的に吉田が競って昌子がカバーと持ち味がはっきりしててほぼ完璧。

 

大迫は半端ない

 

香川は10分で消えて本田はアシストで1つ仕事した。ラスト15分くらい前線でターゲットマンとして頑張って競って、どちらかというと試合を殺す仕事だったなと。

 

 試合後のインタビューみてて思うのは、川島、香川、本多あたりの“老害”と批判された選手がかなりナーバスになってるなあと。本田とか目つきおかしいし。まあいつもおかしいが。日本はこれまで選手の内紛みたいなのはなかったけど、ちょっと不穏分子みたいになりかけてる空気があるのが気がかり。長谷部あたりがうまくやってくれればいいけど。

 

 西野さんは策士ぶりが際立つというか、やってるサッカー自体は守備に関してはアイスランドに近い4-4-2のゾーンディフェンス。というか、客観的に考えたら弱者のチームはこれ一択になるのは、近年のCLとかで明らか。

 攻撃はアイスランドの高さみたいなストロングポイントはないけど、大迫と柴崎の個性をうまく活かして程よく縦に速いダイレクトプレイとサイドの縦のコンビでの崩しだけど、次からはここは大迫ー柴崎のラインは消しにくるだろうし、まあ攻撃はどちらかというと試合ごとに西野さんが狙い考えるんでしょうね。その意味ではスカウティングが生命線かもしれない。

 

 やっぱりハリルとかボラ・ミルティノビッチとか岡田さんと同じタイプでどういうサッカーをするかよりも「次の試合に勝つサッカー」に集中するタイプなんですよね、この監督は。トーナメント向きだし、弱いチーム向き。

2017年に観た映画ゆく年くる年

あくまで今年は観た映画なんで公開年ではないです。

 

【10位】ジョン・ウィック

チンピラに犬を殺されて復讐の鬼になるキアヌが強いんだけどあんまり強そうじゃなくてハマっている。続編も出たし久々の当たり役なのではないかと。 

https://youtu.be/jie65yTNcC4

 

【9位】デッド・ノート

バッタもんみたいなタイトルだが、出てくる人間みな悪党で犯した罪が暴露されていってバンバン惨たらしく殺されていく、見ようによっては勧善懲悪モノ。

https://youtu.be/ZSLvCoSXClo

 

【8位】アンフレンデッド

米国産ホラーだと所謂WASPの学生は大体すぐ殺されるヤラレ役で「あーやっぱりどこの国でもうええええいwww感のあるクソガキはみんな嫌いなんだな」と思いながらいつも観てますが、これはそんなクソガキしか出てこないスリラーで、結局誰が一番クソガキかが最大の見所。 

https://youtu.be/Y2_2r5dONyk

 

【7位】デッド・オア・リヴェンジ

地雷を踏んで動けない状況をソリッドシチュエーションスリラーというのかよくわかりませんが、助けそうで全然助けないグルジア人のオッサンの卑劣かつ野卑な芝居が前半の見所。後半の見所は、それなりよき父親のオッサンの家族まで巻き込む兎に角後味が悪く誰も救われない復讐劇。閲覧注意。

 https://youtu.be/OSGqreAxYwc

 

【6位】哭声

ど田舎で起こった事件を主題にした『殺人の追憶』的なサスペンスかと思いきや、後半は『帝都大戦』みたいなサイキックウォーズで、國村隼嶋田久作的な怪演。

https://youtu.be/QEL_GJJ5Izk

 

【5位】アイアン・フィスト

悪の武闘家集団みたいなのに両腕を切断された鍛冶屋が鋼の義手を嵌めて復讐する。なぜか義手の方が強い。

https://youtu.be/fIvLxM_I75U

 

【4位】哀しき獣

北朝鮮から韓国に渡った男が兎に角全く救われない。キム・ユンソク演じるヤクザの極悪過ぎるが、結局誰も救われない。

https://youtu.be/R3oRqtFDjdI

 

【3位】スダボロ

兎に角無茶苦茶ヤキが入るところがわりとリアル。主演の永瀬匡が往年の清水宏次朗をもう少し繊細にしたような感じでなかなかいい。清水富美加改め千眼美子さんも出演。

https://youtu.be/l4HNxKddV4g

 

【2位】葛城事件

他人事とは思えない家族像が印象的で、個人的に2位。

https://youtu.be/VqQWwXELoFc

 

【1位】白い棺

カルトに子どもを攫われた母親同士が血みどろで戦わせられる、全く救いのないアルゼンチン産ホラー。どういう動機があればこういう映画を撮ろうと思うのかしら。閲覧注意。

https://youtu.be/kBRlB8Ea0Kw

【ネタバレ】エドワード・ノートンとデイヴィッド・フィンチャー再び

というわけではない『ゾンビ・ファイト・クラブ』というシンガポールゾンビ映画の話です、はい。

 

https://m.youtube.com/watch?v=uCjgAlsrI-8

 

制作は香港らしく結構見憶えのある顔が多いです。出オチっぽいタイトル(ほんとに原題がZombie fight club)の割に元祖ファイトクラブとあまり重なる部分がないんですが、強いて言えば弾薬が底を突くと拳骨でゾンビの顔面を割り破って脳漿が飛び散ったりするところでしょうか。

 

冒頭ほとんど説明がなく、どこかの都市が崩壊するところから始まるんですが、実は前半後半でかなり違う映画になっていて、前半は老朽化した高層マンションが舞台です。詳しい説明はないんですが住人のパリピっぽいラッパーのところにLAから届いたヤバい感じのドラッグをアッパーになって呑んだらみんなゾンビになったみたいな感じで、ガスなどの空気感染ではなく噛まれて経口感染のはずなんですけど、なんだかそれにしては物凄い速度でパンデミックして、老朽化したマンションなのにどこにそんなに住人がいたんだよってくらいの数のゾンビに囲まれます。なんならいつの間にかマンションの外もゾンビだらけです。

 

高層マンションという密室設定で大量のゾンビに囲まれるあたり『ザ・ホード 死霊の大群』を彷彿とさせます。『ザ・ホード 死霊の大群』つって通じるのかわかりませんが。

 

https://youtu.be/PIXuoB1yWr4

 

登場するマンションの住人に結構特徴があって、ヒロインの女優さんは全身義体喜多嶋舞みたいな感じ、そもそも女性はみんなサイボーグみたいな体型です。ヒーローはマンションに住んでる売人を摘発に来たSWAT(実は売人の金を奪いに来た)の隊員で、彼が素手でゾンビの顔をブチ破ります。他にも紀里谷和明似のギャングがいい雰囲気出してたり、それぞれがドラマらしきものを背負ってるんですが、すぐにゾンビの大群に全部なし崩し的に呑み込まれます。

 

恋人がゾンビになって絶望した紀里谷がプロパンガスに火をつけてマンションを爆破するところ、両足が電動義足の爺さんに車を借りた喜多嶋舞とSWATが辛くも脱出するところで前半終了、唐突に北斗の拳的な世紀末感満載の後半に物語が移ります。

 

パンデミックで崩壊した都市を恐怖で支配するのは、やはり娘をゾンビにされた科学の先生で、どうやったのかゾンビと人間の両方を奴隷にして君臨しています。よく香港映画で見かける俳優さんですが名前まではわかりません。とにかくディテールの説明がありません。喜多嶋は髪を切って全身義体梨花みたいになりました。以後、梨花と呼ぶことにします。

 

この科学の先生が娯楽として闘技場をつくり、そこでゾンビと人間を戦わせています。多分これがゾンビファイトクラブなんでしょう。どちらかというとマッドマックス サンダードームの方が雰囲気近いです。SWATと梨花も一生懸命に戦っています。

 

https://m.youtube.com/watch?v=gXFcngqX7uY

 

このあたりまでほぼ時間を使い終わったのか、クライマックスのアクションとかラスボスとの最終決戦とかもなく、謎自体が特にないのでどんでん返しもないまま急速に終幕に向かいます。この辺、香港映画っぽいです。タイトル忘れちゃったんですが昔みた香港映画で、女スパイみたいなのが忍び込んだ邸宅に爆弾が仕掛けられていて爆発する瞬間にベランダから庭のプールに飛び込むというスタントがあったんですけども、ベランダから跳躍した瞬間に唐突に静止画になって「このスタントであまりに火薬の量が多過ぎて女優が火だるまになって大火傷を負い、撮影は中止となりました。女優は一命を取り留め、いま続編の撮影に向けて懸命にリハビリをしています」みたいなテロップが流れて、そのままエンドロールっていう、ちょっと後にも先にも憶えのない度肝を抜かれた作品がありました。

 

香港映画まじぱねえっすよ。

 

で、科学の先生は梨花を嫁にしようとして、それまで大人しかった娘ゾンビに呆気なく喰い殺され、SWATはゾンビとの戦いで噛まれて感染、梨花を闘技場の外に逃して、ラストシーンはゾンビになって街をウロウロしてるSWATで終わります。

 

なんか久しぶりに香港映画らしい香港映画をみたなと、デイヴィッド・フィンチャーのバッタモンですらないところがいっそ清々しいなと、いまそんな気持ちでいます。

 

不安と不満のBS

士郎正宗サイバーパンク作品『攻殻機動隊』にはいくつかシリーズがあるんですけども、そのうちのひとつに掲題の『Stand alone complex 』というのがあります。

 

やや意訳すると「独立した個の集合体(としての全体=個)」というような意味になると思うんですが、ようは各々が連絡を取り合ったり連携したり、あるいは互いの存在自体を認識していなくても一体の個であるかのように振る舞う集団を指していて、作中では具体的には「笑い男」というテログループに対する表現だったりします。

 

当初は組織犯罪という想定で捜査をするんですが、捕まえた犯人同士の間に共通項がなく、にも関わらずそれぞれは「笑い男」として犯行を重ねていく、一連のサイバーテロの主体となる集団・組織というのはなく、「笑い男」はただ現象としてのみ可視化される。模倣犯の連鎖という見方もできる。いわゆるセル型組織という911以降に顕著になったテロリズムの形態に対応している。

 

まぁなんでこんな話から始めているかというと、Stand alone complexというのはテロリズムのような特殊領域の組織原理ではなくて、もう少し普遍的なものなんじゃないかなと思うんです。

 

ある一定以上の玄人というのは原則的にStanad alone complex だと思うんですよ、サラリーマンかフリーランスか、受注側か発注側か、そういうことに関わりなく。

 

仕事をしていて一定以上の玄人が集まれば、初対面でもすぐにその場で仕事に取り掛かれる、一々共通言語をつくったり認識合わせや申し送りとか、殆どいらない。だから玄人の集団は原則的にStand alone complex になるわけです。

 

多分、玄人の仕事って業種・職域を問わす、そんなに何種類もなくて、自ずと同じやり方になるから、一々すり合わせる必要って、ほんとはない。我が身を振り返ってみても、他者から学ぶことは大いにあっても、誰かからなにかを習った記憶って殆どない。恐らく、玄人というのは本質的には模倣犯なんじゃないかなと。

 

同じ会社だったり、長い間一緒に仕事をしてなくても「こいつにこんくらいインプットしておけば、あとは自分でこんくらいまではやってくるだろう」という見立てでスイスイ進められる。だから仕事を進める上でのストレスというのが非常に少ない。だから仕事するのが平気だし、楽しい面のほうが多くなる訳です。

 

ところが「習ってないからわかりません」「聞いてないからやりません」という人は絶対にいます。というか人間の8割はそうです。だからこれは全然悪いことだったり、なにかが劣っているということではなく、ただ単にふつう、標準的、アベレージ、平凡なだけです。

 

でもこれは最近そう思うようになっただけで、私も若い頃は違いました。まだ未熟な自分にはそれは怠惰や努力不足に思えたんですね。若気の至り。だから「おれがこんだけやってんのになんでてめえはそんなことやってんだよっつうかやってねえじゃんかよなめてんのかよふざけんなよ殺すぞっつうか死ね」みたいな感じでキレてばかりいたわけです。

 

この違いがどこから出てくるのか近年考え続けてもまだ答えはないんですけども、傾向として析出できるのは、玄人は不安に強く不満に弱い素人は不満に強く不安に弱いということかなと。

 

物事がスイスイ進まないと物凄くストレスだと思うんですよ、少なくとも私はそうなんです。物事が決まらないことも進まないこともイラつくし、時間の無駄や何度も同じことするのも耐えられないし、アンコントローラブルなことにも我慢がならないわけです。正直、よくそんな状況に耐えられるなと感心するわけですよ。

 

で、そういうストレスっていうのは表現としては不満なんだと思うですね。不満というのは通常外部要因に向けられる。自分に不満を向けると「じゃやれや」と自己完結しちゃうから。

 

だからストレスが外部要因に向かうと不満になるんだと思うんです。で、外部要因というのは定義上自律的に解消できないから外部なわけで、だから不満というのは自律的にはなくならない、定義上そうなる。これに耐えられる人っていうのは不満に対する耐性が強いんだと思います。私は無理。不満は原理的に自律的には解消できないから、不満人のインセンティブ「なにかをしなければしないほど不満が減って得」という方向に働く。

 

一方、ストレスが内部要因に向かうと、これは「じゃあ自分やれや」になる。できないやらないということだと、これは自分の弱さや能力不足だから、これはアイデンティティ・クライシスなわけですよ。また決める・前に進めるということは、言ってみれば未来を確定するということです。でもどんだけ気合いれてなにかを決めても実際にはそうなるかはやってみないことにはわからないから、決めるということの不安は原理的には解消できない、努力によって減らすことはできてもなくすことはできない。

 

些末なこと、たとえばアポをとるとか、そういうことすらなかなか迅速にできないのは未来を決める、実際そうなるかどうかわからないことを確定する不安に対する耐性がないからなんじゃないかなと。腰が重い人ってそういうことだし、やらないことに特に理由はないから、強制的にやらせるになる。だから言われたことしかしないからやたらと不効率なんだけどそこから発生する不満ストレスに対する耐性は高いから、とりあえずそれで乗り切れる。

 

一方、不安人というのはもともと何かにつけて不安で、かつそのストレスが内部要因に向かうら、自分があれこれ際限なくやってその不安を減らす方向にインセンティブが働く。原理上予期不安というのはなくすことはできないので、神経症的な仕事の仕方をする。不安のない仕事というのは未来が限りなく確定している(と思える)仕事になるので、できるだけルーチンなものになる。不安人は不満に対する耐性がないので、これは続かないから不満より不安を選んでしまう。

 

概ね玄人といえるような人間て、不安人のような気がするんです。恐らく不安を減らす方向にインセンティブが働くので「やらないと不安だからやる」ということになって、かつそれなりに職能的に目標が共有できていれば、「やる」のベクトルも大体同じなんで、結果として部分最適の集合が全体最適にかなり一致してくる、これがStand alone complex の様相を呈してくるんだと思うんです。

 

こういう違いって誰かに習うものというより、行動インセンティブの違いなんで、多分強いて言えば学ぶしかない類のものなんじゃないかなと。我が身を振り返っても、あえて言えば周り(のなかで仕事できる人)はみんなそんな感じだったから自分もそうなった、としかいいようがない。

 

体感値的には不安人と不満人の割合は2:8くらいなんで、全体としてはそういうバランスで社会というのは何かしら均衡するもんなんだと思うんですよ。この割合を3:7とか5:5とかにすべきなのかどうかは、まだ今ひとつ自分でもわからないけど、最適バランスは集団ごとにある気がします。どっちがいいということではないかもしれないんだけど、不満人がいいですはどんどん言いづらい世の中になっている気もする。

 

我が身を振り返ると愚痴をこぼしたような記憶ってほんとになくて、恐らく不満人の愚痴に該当するものが怒りだったり攻撃だったりしたんじゃないかなと、あくまでこれは個人として。そういう人間ばかりの世の中を望んでるわけでもないし。

 

不安人と不満人の違いが先天的なものなのか、文化的なものなのか兎も角、人間の価値観や生き方を変えるのはとても難しいので、基本的には行動インセンティブをどう設計するか、なんだと思います。ある程度賢い人はインセンティブを理解できるから得な方向に動く。難しいのは馬鹿で、馬鹿は行動インセンティブを設計してもそれ自体が理解できない(馬鹿の定義上、なにが自分にとって得か合理的な判断をしない)ので、これは別のマネジメントが必要になって、いろいろ組み合わせると2:8というのが一般的な最適バランスなのかなと。一種のBSのような管理の仕方ができるのかもしれないけど、そこまで考えるべきなのかどうか←イマココ。

五位の話

今昔物語集』に利仁将軍というひとの五位の話という故事があって、芥川の『芋粥』の元ネタでもあるんですけども、地方を旅する度に思い出すんです。

 

利仁将軍は藤原利仁といって中級公家の子で、俵藤太こと藤原秀郷と並んで藤原流武家の元祖的なひとなんですけども、上総介など受領(現地赴任の地方官)を歴任したあと北陸に根を下ろして豪族化するんですね。10世紀くらいになると藤原氏でも摂関家などのエリート家系以外は中央では就職難だったらしく、傍系子や三男坊四男坊は地方公務員になったあとにそこにそのまま棲みつくというケースが増えてきて、これが武士の起源のひとつになるわけです。

 

五位の話というのは、もうこの当時は税収が減少して官僚の給料も滞るようになっていたので、五位という都の役人が芋粥がいつか腹一杯食べたいと嘆いていると利仁将軍が敦賀に呼んで大鍋一杯の芋粥を馳走すると、そういう話です。


この官僚の位階が五位なんですが、これは大体地方の長官(国司の最上級)が五位くらいなんで、豪族の利仁からするとやや身分が高い。にも関わらず富という点からすると地方に土着した利仁の方が遥かに豊かで、『今昔物語集』としては、そういう都に対する地方の富強を世相として描いたんだと思います。

 

中央で職にあぶれた子弟が地方に流れる背景には、消費の機能しかない都市と富の生産地としての地方という構造の中で受領というのがその流通を独占していて非常に旨味があったという事情があると。


受領の仕事というのは大まかには①徴税②勧農③荷役の3つがあって、①については律令制の建前からいうと生産基盤の公地と労働力としての公民は別々に管理されていて、6年ごとの造籍で世帯ごとの労働人口を把握して公地の分担を決めて納税させるんですが、この戸籍を作る作業が大変ですぐ頓挫する。


一方、公民からすると耕した土地は家族が減ると他人のものになったり、逆に故人の分まで納税義務があったりするので、農業技術の改良とかの動機付けにならない。なので三世一身の法とか墾田永年私財法などで、開墾地の所有をみとめた(納税義務はある)。


そんなこんなで人口動態の把握からの課税が難しくなったので、ざっくり国単位で課税額を決めてそれを受領に請け負わせるようになり、そのために現地赴任する受領にいろいろな特権を認めた。たとえば開墾地の私有を認可するのは受領の特権だし、課税単位になる耕地の測量とか、出挙といって元本になる稲を半強制的に貸し出して作物から利稲という利息をとる一種の金融業もしていた。

 

また②の勧農というのは、文字通り農業の振興ということで、受領は自らも休耕地や荒地を開拓して積極的な農地経営の主体でもあった。要するに徴税吏であると同時に高額納税者でもあり、自分の任期が終わると縁者などに農地の経営を受け継がせて資産を増やしていった。

 

律令の税制では産業策が非常に農本主義的であったにも関わらず、建前上は貨幣や繊維などでの納付も義務付けられていた。といっても貨幣や商品の全国的流通というのは全くなかったので、全部都に運んで銭に替えたり他の品物に替える、だから③荷役も受領の仕事となった。納税者からすると都のレートがわからないので、ここも受領のやりたい放題。

 

受領は任期の最初に決められたノルマを徴税しないと考課という査定に響くのであの手この手で税金を集めていたのだが、都に運ぶ途中でノルマの徴税額が集められなかった他の受領に強盗されたりするようになり、そのうち運ぶ気もなくなって「強盗されました」という報告だけ上げて横領したりするようになる。

 

そんなこんなで受領というのは一大消費地の都と富の生産地である地方を媒介する存在として財を蓄積していく。面白いのは都は富の集積地であるにも関わらず、その住人である貴族には経営という概念が全く未発達で必要な物資を地方から引き出してただ消費するだけだったことで、富を経営して増殖させる商業資本の萌芽というのは都と地方を媒介した受領層のちの武士にみられること。

 

なぜこの利仁将軍の故事を思い出すかというと、地方は飯が美味いなあと思う度に、やはり富の生産地というのは実は豊かで、利仁将軍の頃とあまり変わらないんじゃないかなと。自分と五位が重なるというか、気分的には。反面、利仁も都の人で富を集積しているのは彼な訳だから、実は利仁将軍の方が近いのかもしれないとも思うのです。

ジオンは負けていない

1979年の1stガンダム初回放送から38年、いまでもジオンがどうしたら勝てるか考え続けている男たちが存在するんです。

 

1991年の連載開始から26年間、特攻の拓誰が一番強いか考え続けてる男たちがいるように。

「ジオンは負けていない」という信念が0083もZもZZも逆シャアもUCも生んだんです。

 

08小隊を観たときはみんな「アプサラス量産の暁には連邦なぞ一撃で叩けるわ」と快哉を叫んだわけでしょ。勝てるかも委員会ですよ。

 

ガンダム好きなんですか?とかいわれると頭にくるわけですよ。連邦の無思慮な暴力の化身である白い悪魔が好きな奴なんかいるわけがないんです。

 

シャアなんてスペースノイド大義を忘れてガルマ様とキシリア閣下を謀殺した卑劣な反逆者でしかないわけですよ、真のジオニストにとっては。

 

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もうね、久しぶりに徳光康之先生の作品を読むと滾りが止まらないわけですよ。

 

1st原理主義とか戦中派とか蔑まれようが、何度でも何年でも言い続ける。

 

絶対にジオンは負けていない。

歩のない将棋は負け将棋

先日、私の勤め先で360度評価研修というのがありまして、例年は入社2年目の若手社員にやっているトレーニングで、上司と同僚から任意に数人を抽出し、対象者の良いところ悪いところをサーベイをとって、それをベースにワークショップとグループワークをして自己開発計画を立てると、大体そんな感じなんだと思います。

 

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例年は部下の360度評価をやっておるんですが、今年はマネージャーも対象ということで、事前にサーベイをとって管理職だけ丸1日集められてやりましたよと。

 

2年目社員の研修に同席したことはないんで漏れ伝わってくる伝聞だけなんですけども、結構自己評価と他者評価が乖離する場合があるらしく、まぁそいつの性格にもよるんだと思いますが、ときとして阿鼻叫喚の生き地獄を現出することもあるそうで、いやほんとに若さっていいなと。

 

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そもそも自己評価と他者評価の乖離を抽出して、そこから自己開発計画を立てるのが研修の趣旨なんで、まぁ乖離がある方が研修としては実りの多いものになるんでしょうけれども、やっぱり年功序列があるわけでもないベンチャー企業で中間管理職をやってるような連中だとそんなにないんですよね、自己評価と他者評価の乖離なんて。

 

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ベンチャー企業なんて外部環境だって内部環境だって目眩く変わっていくし、別に大概標準化されているわけでもないんで、個々の裁量でえいやでやっていかなきゃ立ちいかないことばかりなわけですよ。そういう意味で、まぁ意外に目配り気配りの世界なわけで、周囲の思惑や意図を忖度しないで仕組みで勝手に進んでいってくれることなんて大概一つもないんですわ。

 

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研修の趣旨を勘案すると、自己評価と他者評価の乖離を止揚するというのは、いわば他者性の内面化という主題であって近代的自我の獲得過程の再現なり反復であると。

 

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他者性というのは自己と異質である人格として定義されるので、会社にしろ社会にしろそういう絶対的な他者が共存するためのシステムとして設計されているわけだから、家庭なり学校なりから他者性を内面化するイニシエーションを徐々に経ることで社会なり会社なりに飛び込んでいくのを大人になる、成熟するというわけです、良し悪しはともかく。そういうイニシエーションがうまく機能しないまま歳だけ喰うのをDQNだったり意識高い系と言ったりするんじゃないかと。

 

「おれがおまえでなくておれである」という認識は「おまえ」という対象が「おれ」の意識のなかに内面化されないと生まれない、でも「おまえ」というのは「おれ」ではないからそう意識されるわけで、そういう他者の内面化というのはそもそも矛盾であり無理ゲーであって、ゆえに近代的自我というのはつねに不安定な状態とのあいだを反復する運動として描かれる。360度評価というのは、その運動を自覚的に再現することで自我の認識を更新する作業なんだと思うんですよ。

 

で、中間管理職というのは他者が共存するシステムを維持するエンジニアみたいなもので、本来自分自身はシステムの内部(従業員)以外にあり得ないのに、その内部(部下)に対しては外部(上司=会社自体)として振る舞う両属的な位置につねにさらされざるを得ない、そういう人間の天然自然に反する仕事ではないかと。だから標準化や形式化はできるようでできなくて、突き詰めていくほどひとり一芸になっていく、そういう意味で人格に依存するところが大きいんじゃないかと。

 

中間管理職にそれなりに熟練すると自己評価と他者評価の乖離が小さくなるのは、そもそも自分の人格というものに手法が依存せざるを得ず、それ以外やりようがないがゆえに極めて自覚的に手法を選択するようになっているから、自己評価と他者評価が一致するのは当たり前なんですね。裏を返せば自己評価と他者評価の乖離が大きいのは、やっぱり中間管理職としては未熟か、そもそも向かないのかもしれませんな。

ようは自己評価が仏で部下評価が鬼だったら、それはナチュラルボーン鬼ですよと。でも自覚的に鬼を選択して鬼という部下評価だったらそこに少なくとも乖離はないわけで。

 

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研修の話に戻ると、グループワークをする都合で組分けをしたんですが、意図的なのかどうか私のグループはわりとシニアクラスのマネージャーばかりで、新鮮味に欠けるというか、いつも飲み屋で話してる会話の延長みたいな感じだったんですけども、まぁやっぱりみんな乖離が少ないわけです。それでも一応大人の集まりなんで何某かの話を色々して、これまで書いたようなところに着地したと。それはそれで、ちょっと研修の設計とは違うんだけど、まぁいいか。

 

で、我が身のことについて最後に触れると、掲題にあげた歩のない将棋は負け将棋というのは、同僚のTEさんから頂いたアドバイスで、自分に向けられたアドバイスとしては近年記憶にないくらい秀逸だなと思うわけです。

 

我が身を振り返れば、仕事柄というかスタンドアローンな人間で、いわば「ようは王手取ればいいんでしょ」と思ってずっと20年も過ごして来たわけですよ。

 

上司だ部下だ同僚だと言われてもリソースとしてしかみていないし、戦力としてどう配置するかという視点しかない、そういう人間にできるマネージメントしかしていないわけです、いまも。

とはいえ、それほど利己的な人間というわけでもなく、ようは勝ち負けにしか関心がないだけで、ここ数年でいわば立場や役割が変わったことでゲームのルールが変わったというか、散々遊んだゲームを違ったルールでやり直す面白さみたいなのを感じてはいる。そういう最近の自分の気分というか、チェンジルールのところをうまく射抜いてくれている言葉だなぁと。

 

もっと言えば、歩が飛車角になっていかないと負けなんですよね、いまの自分の勝負としては(結局あんまり歩自体に関心はない)。